百十九幕 IF/文化祭/別れ⑯
茜色の空が少しずつ早く顔を出し、夏の終わりを告げる。
けれども、夏が終わるという感覚が未だ実感ないのは恐らく……在るべき日常が戻らないから。
同じことの連続で飽き飽きとした時間を日常というのなら。
毎日が一瞬の出来事の様に感じる日常を非日常と呼ぶような気がしてならない。
現にこれは俺にとっての日常ではなく、明里にとっての日常……つまり非日常だ。
だからなのだろう、夏が終わらないと感じているのは。
非日常の連続というのは意外にも疲れる。
慣れない環境に目まぐるしく現れる新たな発見……そんなものが毎日の様に度々起こり続けると精神的にも疲労は溜まる。その上、明里という女の子として生まれた自分として日常を振る舞わないといけないなんて生活がより一層のこと……重いプレッシャーとなって常に言動には気を遣い続けなければならなかった。
そして、これから凝縮した緊張感が襲ってくる時間を迎える。
開演前に一通りの準備を済ませ、緊張を落ち着かせるべく記念講堂横の外階段で一人、ぼんやりと物思いに耽って悠長に残りの時間を過ごしていると……同じく衣装を纏った小春が目の前に立ち、物言いたげな顔でこちらを見つめる。
「遠慮なくどうぞ」
「まだ、何も言ってないけど」
「言いたいことがあるなら今のうち……かもしれない」
その言葉から少なからず小春は察したであろう。
俺が元の世界に戻る手段を確立したことに。
「昨日あれだけくよくよしていたのに、もう決心がついたんだ。意外にも未練ないんだね」
「未練がない訳じゃない。単に気付いたんだ、俺は明里として振る舞えないって……」
「そう言いつつも、誰も君が明里じゃないって疑っていないけど」
「いずれにせよ、もう無理だ。俺に明里は務まらない」
彼女が築き上げた関係を何も知らない俺が引き継いでいくのには限界がある。
せめて、記憶が共有出来ていればこの気持ちはまた違っていたかもしれない。
「ちなみに戻る方法は分かっているの?」
「確証はないけど、何となく掴んだ」
「じゃあ、この演劇が終わったら……」
「多分、この身体の主の明里に戻っているだろうな。その時はフォローを頼むよ」
小春はほんの少しばかり気を遣って寂しげに「分かった」と答える。
「だから、仲直りするよう今のうちに心の準備しておいた方がいいぞ」
余計なお世話かと思われるかもしれないが念の為に釘を刺しておく。
そんな言葉に小春は目を細めて鋭い指摘を入れる。
「私が尋ねなかったら絶対に何も言わずに元に戻ろうとしてたでしょ」
「そっちの方がしやすいかと……自然の流れで」
「そりゃそうだよ。そうせざるを得ないシチュエーションの方が私は素直になれるから……って、まさか!?」
別に気付くようほのめかした訳ではないが、勘の良い小春は気付いてしまったようだ。
小春が絶対に仲直りせざるを得ない絶好のシチュエーションに俺が誘おうと悪巧みを企てていることに。
「うわぁ~卑怯だなー」
「軽蔑してもらっても結構。どの道、ステージに立たないといけない以上、こればっかりは逃げたくても逃げれない」
「ハイハイ。覚悟しておきますよー」
やれやれと首を横に振った小春は呆れ顔を見せつつもクスッと笑う。
「やっぱり、君。私の好みじゃないかなー性格的に」
「なんだよ、それ。やる前に仕返しか?」
「やられる前じゃないと仕返し出来ないからねー。最後にこれくらいは許してよ、陽一君」
初めて名前を呼ばれた気がする。
向こうでも小春に下の名前を呼ばれた記憶はないからか、少しばかり新鮮に聞こえた。
「そう言えば、聞きそびれていたけど君とこっちの陽一君って……」
「多分、こっちの俺だよ。色々と外見部分が美化された挙句、極度の姉妹愛好家なんてキャラに変貌しているけどな」
最後の最後まで認めたくはないが。
「ははっ、不思議だね」
「あぁ、不思議な時間だった」
始まりは唐突で終わりも終着点に気付いてしまった途端……一瞬の様に感じた。
「君は忘れたい?ここでの時間を」
「忘れたくても忘れられないだろ。こんな衝撃的な現実」
「確かに、そうかも」
「それに戻っても関わる人はほぼ変わらない。渚とは……これが最後になると思うけど」
「いいの?お別れの挨拶を告げなくて」
「別に元から名乗った覚えはないし……あっちは俺を知らない。香織や唯菜だってそう。あいつらが知っているのは明里であって、俺じゃない」
だから、もしも別れの挨拶を告げる相手がいるとしたら……それは一人か二人だけだろうな。
その一人に感謝を伝える。
「ありがとう」
「何が?」
「俺が明里じゃないって気付いても信じて接してくれて……正直に言って助かったよ」
「私じゃないと信じないよ。こんなオカルト的な話」
「かもな」
「でも、気付けてよかった。明里の声で話す君と話しているとなんだか昔の明里を思い出して……もう一度、あの頃みたく仲良くなりたいって思い直すことが出来たから」
俺が今の小春に中学時代の面影を重ねていたのと同じく、小春も同じようにして中学時代の明里の面影を重ねていた。決して交わることのない想いを向けて。
「君はどうするの?もう一度、私に告白する?」
「告白云々に先ず、再会して話す所から始めないといけない分……なかなかに難しい」
「そうかもしれないけど、そうじゃないんでしょ。今の君の気持ちは私に向いているとは思えない」
「え?」
「もしかして、無自覚?自分の感情に向き合うのが下手くそだねー」
好き放題いってくれるが、実際にその通り過ぎてぐうの音も出ない。
「じゃあ、一体誰に……」
「それ、私に聞いちゃうの?自分の事なんだから自分で気づきなよ」
「ごもっともなことで……」
「それでも、向き合ってはあげてね。向こうの私と」
「勿論」
「なら、結構!さ、そろそろ時間だし行くよ」
六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
開演が迫り急ぎ講堂のステージ袖へと向かうべく、小春は無理矢理腕を引っ張って急ぎ足で進ませる。
「ちょ、小春!」
「別れの挨拶は聞かないよ。それに今は急がないと間に合わないんだから」
切羽詰まった声で振り返らずに前を往く。
決して手は離さず強く握り締めて明里を離さずにいるのは自身の決意表明に似たものか。
その真意を見極めるのは野暮だし、不可能。
しかし、込められた力から不思議と悲しみのようなものを感じた。
まるで彼女が「さよなら」と別れを告げているような切なくも淡い想いを……