百十七幕 明里と唯菜とメイド喫茶
「ふ……ふ……」
ふ?
「ふわあぁぁぁぁぁぁ」
教室に足を踏み入れる寸前まで一瞬たりとも中の光景を見まいとドアの前で背を向け、脳内で幾度も香織のアニマルメイドコスを連想し続けて心の準備を万全を期してようやく対面した。
すると、目の前に広がる天国の様な愛らしくも華のある光景に魂を持っていかれそうになっていた。
「あ、あのー唯菜?」
「は!危ない危ない、昇天する所だった」
じゅるりと涎を垂れ流しそうになっているみっともない顔を明里はハンカチを取り出して拭く。
「推しにそんな顔で会う気?」
「確かに!ナイスアシストだよ、ヒカリちゃん」
「どういたしまして。ほら、来たみたいだよ……お目当ての推しが」
二人の来訪を待ち構えていたのはフリル付きの猫耳カチューシャを頭に付け、三毛猫感をアピールする茶色を基調としたミニスカメイド服に身を包んだ唯菜の推しこと……香織であった。
「お待ちしておりましたニャン」
猫人らしさを出す喋り方と語尾と連動した猫のポージングで迎える香織に「神降臨!神降臨!」と騒ぐ唯菜、その一方で明里は妹の滅多に見せない可愛らしい一面にクスッと笑いつつも「可愛いよ、香織」と穏やかな口調で返す。
今の自分の格好と言動を見て明里が『変なの』と言って笑ってくれればやった冥利に尽きるとばかり思っていたせいか、香織は思いがけない大人びた温かな反応を見せる明里がどこか姉っぽく感じ、不思議と嬉しくなった。
「……調子狂う」
「何か言った?」
「……何でもないニャン。さ、二名様ごあんにゃ~い……って、唯菜ちゃんどうしたの?」
気を取り直して役に入った香織は二人を席に案内しようとするも、突然倒れ込んだ唯菜を目の当たりにして思わず素に戻る。
「あはは……鼻血出ちゃった」
鼻の辺りを抑えて血が床に垂れないようにしながら見上げる唯菜に二人は一度、クスッと笑いつつも明里は鞄からポケットティッシュを取り出し、香織は予備のティッシュペーパーを教室の奥へと取りに向かう。
そのまま暫く治まるまでの間、案内された席についてこれ以上興奮しないよう香織以外の従業員に接客を代行してもらうこととなった。
「いや~唯菜ちゃんが抱く香織への愛は本物だね!」
ペルシャ猫をイメージした全身白の衣装を纏った春乃が接客を代わり、開口一番褒め称えるように唯菜を激励する。
「えへへ、ありがとうございます」
「あ~こらこら、喋って興奮したらまた鼻血が……」
「相変わらず良いコンビだね。まるで仲の良い夫婦みたいだよ」
「夫婦!!」
自分とヒカリが結婚したら……なんて妄想を膨らませた唯菜は余計に興奮状態に陥り、悪化の一途を辿るこの終わらない馬鹿げた鼻血騒動をこれ以上長続きさせないよう明里は注意を促す。
「春乃さん。お願いですから、これ以上唯菜を刺激させないでください」
「ごめんごめん。つい~」
『出来心で』と頭を下げて謝罪する春乃をこれ以上は責めなかった。
「まぁ、でも唯菜ちゃんみたいな反応は別に珍しくないよ」
「え、普通なんですか?」
「普通ではないけど……ほら、よくSCARLETやポーチカのライブに顔を出している大学生のお姉さん。確か、A組の塩幡さんの……」
そこまで言えば、自ずと誰であるか明里には容易に予想出来た。
「凪さん……ですか?」
「そうそう凪さん!あの人も香織を見た途端に鼻血出すよりも先に気絶しちゃったくらいだし」
(私の妹はそんな魔性の魅惑を秘めた才能があるのか……)
別の席で接客をする香織を明里はまじまじと見詰める。
普段から家で見ている香織と着飾ってアイドルとしての顔で居る時の香織が違って見えるのは当然なのかもしれない。けれども、それ以上にやっぱり可愛いと思えてしまった。
例え、目の前に居る香織が明里の知る『妹』じゃなかったとしても……うちの妹は世界で一番可愛いのだと胸を張って豪語できる。
「あ、ちなみになんだけど唯菜ちゃん……」
春乃は周囲を注意深く……主に香織の位置を確認して用心深く唯菜に声を潜めて伝える。
「例の席……用意しているから安心して」
「本当ですか!?」
「勿論、生徒会特権で特等席は確保済みだよ。二人分」
そのことにグッと手を握り締めて嬉しさを最小限で表す。
隣で聞いていた明里の耳にも二人のやり取りは届き、唯菜が知らぬ間に春乃へと良い席を用意してもらえるように取り計らっていたのだと知る。
「いいんですか?そんな簡単に」
「あ~うん。大丈夫だよ……」
その問いを代わりに答えた唯菜が妙に気まずそうな顔で頷く。
そして、ニヤリと不敵な笑みを溢した春乃に明里は嫌な予感を覚える。
(あの顔、きっと何か企んでいる気がする……)
春乃の狙いすました目が明里を捉える。
すると、周囲で給仕をするように見せかけ、待機していた他のメイドコスをした生徒達が春乃の放った彼女達だけに分かる合図で一斉に動き出す。
「あの、あなたが三津谷さんの従姉妹さんなのですか?」
「凄く似ていますね!まるで、姉妹みたいです」
「本当にそっくり!双子と言っても納得するよ」
数名の女子達に明里は一瞬で取り囲まれた。
明らかに意図的な何かを含んだ違和感のある動きとタイミングに(図ったな)と見抜く。
そして、逃げ場を失わさせた春乃はここで本題に入る。
「明里ちゃん。さっきの話の続きなんだけど……私達は午後からライブの準備が入っちゃってここから抜け出さないといけなくて……」
その前置きから何となく持ち出した交渉内容が読めてくる。
「私に香織の代理を務めて欲しいと?」
「あ~わかっちゃった?」
「春乃さんが考えそうなことですし」
以前、香織に扮してSCARLETのレッスンに参加したことが明里にもあった。
香織の髪型と近い鬘を用意し、口調や態度、雰囲気までそっくりそのままに仕上げて潜入作戦に挑んだものの、ダンス中の動きに出る癖やステップの違いから見抜かれてしまった記憶がある。
「それでなんだけど、ここのお客さん香織を求めて来る人が多くて……二人の後にもまだ沢山の人が控えているの。それで、ヒカリちゃんには香織の代役としてライブまでの間でいいからここで手伝いをして欲しいの。お願い!」
春乃の言葉に連動して他の三人も『お願いします』と頭を下げる。
断り辛い雰囲気を完全に作った後でのこの『お願いします』は卑怯だと思うも、その頼み事を引き受けられるのが明里にしか出来ないことだという仕方がない事実と……既にこうなることを見越して先にある程度勝手に話をつけていたことを黙っていた唯菜が半ば申し訳なさそうにしている様子から少しばかり溜息を吐く。
「分かりました。ライブ前までなら……」
「ありがとう!ヒカリちゃんならそう言ってくれるって信じてたぜ!」
「誘導したの間違いでは?」
「まぁまぁ、今回もだけどヒカリちゃんには前回のライブでの大きな借りがあるからいつか必ず返させてもらうよ」
「その時はお願いします。それと……私から一つ提案いいですか?」
「なにかな?」
「鼻血が治まってからでいいんで、唯菜もその格好で手伝わさせて下さい」
脳内でヒカリの猫耳メイドコスを連想して妄想に耽っていた唯菜は少しばかり間を置いた後に反応する。
「え?私!?いや~私があんな格好をするのはちょっと……それに私は部外者だし~」
「一人だけ逃げようとしても無駄だよ。リーダー」
香織に扮して接客を行う明里はともかく、完全に部外者である自分が接客に参加するのは少し不味いのではないかと主張する唯菜。それに乗っかった春乃が「全然、大丈夫!むしろ、私の代わりにお願い!」と頼み込む。その内心では(やったぜ、二名有力な補充要員確保)と計画通り話が進んでいることに二ヒヒと口を緩ませていた。
交換条件だと言わずとも、良い席を用意してもらっている手前、断り辛い。
加えて、ヒカリ一人にこれを押し付けるのは少し後ろめたさを感じていたため、自分に課せられた禊だと思い二つ返事で受けた。
「じゃ、決まりだね。服は私と香織の後で貸すから安心して」
サイズ的に明里は自身と瓜二つの体型をした香織のを、唯菜は背丈がほぼ同じくらいの春乃の衣装を貸してもらい、手伝いとして参加することに決まった。
「それじゃあ、二人共。お昼後はよろしくお願いしますニャン」
無邪気な悪戯猫っぽい雰囲気で注文をとろうとする春乃が唯菜と明里の目には計略的で狡猾な理知を兼ね備えた愛らしくも憎めない猫にしか映らなかった。