百〇六幕 IF/明里と小春⑤
水飲み場で顔の汗を水で洗い流し、同時に水分補給をする。
冷たい水で爽やかな気分になった小春は横で顔を洗う明里に水を掛ける。
突然、頭部に掛かった冷たい感触に気付くも、気づかない振りをしたまま不意を突くようにして水を投げ返す。
「ちょ!冷たいよ」
「そっちが最初にやってきたんでしょ」
「まぁね」
蛇口を捻り、水を止める。
首に掛けたタオルで顔を拭い青海の空へ大きく息を吐き出す。
「あーあ、負けちゃったね」
「だね」
校内戦の結果。
明里と小春は上級生達と善戦したものの、勝敗で見れば敗北回数の方が勝利数よりも多かった。
それは当然。
私達はまだ一年生でバドミントンの経験も浅く、技術もないのだから……なんて言い訳を小春はするつもりもなかった。
あまり悔しいとは感じていない。
今は負けたことよりもバドミントンをしたことの楽しさが勝っていたから。
「どうだった?久し振りにやって」
「楽しかったよ」
「なら、続けなよ」
「……」
それとこれとは別……とでも言いたげな顔で明里は視線を下に向けた。
バドミントンを介して気持ちに整理がついて考え直してくれることを期待していたが、明里の気持ちには変化はあったものの、根底では変わっていない。
「明里にはバドミントンをやっていて欲しい」
「どうして?」
「私は好きなことに打ち込む明里の背中が好きだから」
噓じゃない。
本心から素直にそう伝える小春に明里はどこかもどかしさを感じる。
「ありがと。そう言ってくれて」
「お、やる気でた?」
「どうかな……私はもう辞める気でいる。それは今も変わらない」
「強情だな~」
「小春はいなくなっちゃうんでしょ」
「……うん」
それは決定事項。
転校の話はもう覆えらない。
覆しちゃいけない。
「お父さんの転勤の都合上、仕方ないよね」
「それは……仕方ないよ」
「でも、明里は仕方なくなんかない」
「……」
「辞めない方法はいくらでもある。なんなら私が直接、野乃達に……」
「大丈夫。小春が私のために何かしてくれるのは嬉しいけど、小春は小春自身の関係を大事にして欲しい」
「そうだよ。だから、私は言ってるんじゃん」
徐に明里は小春の目を見詰める。
「私は野乃達や他の誰よりも明里との関係を大事にしたいからそう言ってるいるんだよ」
「なんで、私なんかのために……」
「分かんない。でも、そうしたいって思ってる。私は明里と友達であり続けたいって、心の底からそう思ってる。悩んでいるなら相談して欲しいし、全部一人で抱え込んで……諦めて欲しくない。私は頼って欲しかった。例え、巻き込んででもいいから……助けてって言って欲しかった!」
言葉を紡ぐと何故だか、抑えていた感情が爆発しそうになる。
目尻に溜まる小さな雫が頬を伝う……すると、目の前で同様な現象が起きていた。
「あれ……なんで……」
震えた手で明里は自身が涙を流していることに気付く。
これは悲しくて泣いているんじゃない。
嬉しくて泣いている。
「ごめん。小春……私、怖くて……小春ならって思ったけど、やっぱり言い出せなくて……」
「知ってる。今更だけど……」
色々と本当に今更だ。
お互いに遠慮し合って、気持ちを尊重し合いつつも踏み込むことに躊躇い続けていた。
もっと早くこうして気持ちを真っ直ぐにぶつけ合っていたら、昨日の答えは変わっていたかもしれない。
母に転校したくないと意志を伝えていたかもしれない。
でも、それももう今更だ。
小春はここで明里と決別する。明里だけではなく……
「さて、そろそろかな」
小春が視線を送る先、そこには望月野乃の姿があった。
「……何か用、小春。てか、泣いてんの三津谷?ウケる」
背後から放たれる心にもない言葉に明里は強く歯を嚙み締めた。
しかし、肩に触れる温かな手が自然と力を緩ませる。
「ねぇ、何が面白いの?頑張っている誰かを馬鹿にして楽しい?」
「なに怒ってんの?小春ってば三津谷の味方?」
「味方だよ。私は明里の友達。友達の悪口を言われて怒るのは当たり前でしょ」
今はもう友人でもない野乃に向けて鋭い睨みを利かせる。
小さい頃から二人は知り合いで家も近所、小学校は六年生まで毎日一緒に登校する様な仲であった。
しかし、野乃は変わってしまった。
中学生になった望月野乃は小春の隣から離れ、別の人達との関係を求めて居なくなった。
そんなかつての友人だからこそ、小春は許せなかった。
他人の悪口なぞ一切言わない優しかったあの頃の面影が消えてしまっていることに。
「あんた、変わったね」
「変わったのは野乃の方だよ。凄く嫌いになった変わり方したね」
「……っ、馬鹿にしてんのか!」
「してるよ。他人の悪口言ったり、見えない所で他人のガットを切ったりする姑息な人を馬鹿にして悪い?」
なんだか芝居の掛かったような口調で責め立てる小春が明里には少し変に映る。
恐る恐る振り返って野乃の反応を窺う。
そこには鋭い形相で小春と相対する野乃の顔が映った。
「あんた……知ってたの?」
「部室で先輩達と話しているの聞いた。マジでやることダサいから止めた方がいいよ。あと先生にも言ってあるから」
「証拠でもあんの?」
「あるよ。この間の放課後、懲りずに切っていたから写真撮って先生に提出した。イジメの現場ですって。週明けに先生から何か言われるかもね」
「……っ!ふざけんな!」
「ふざけているのはどっち?単なる悪ふざけだったとしても流石にやり過ぎだし……第一、明里が野乃に何かした?」
言葉巧みに責める小春に野乃は言葉を詰まらせた。
「何かされた訳じゃないのにあんなことしてたんでしょ」
「違う。そいつが先輩達を……」
「先輩達を試合でボコボコにした?練習でいつも手を抜いて、サボってばかりいる人達が何年も真剣にバドミントンと向き合ってきた明里に勝てるとでも?」
「……」
「そういうのがダサいんだよ。野乃も那柚先輩達も人の所為にして、勝手にイラついて、八つ当たりして……ホントダサい。辞めるならそっちが辞めて欲しいよ!」
野乃は物言いたげな目で口を開いては閉ざす。
「……小春、あんたなんてもう友達でもなんでもない」
「奇遇だね。私もそう思う」
「ちっ、マジで覚えてろ」
嫌悪感丸出しの顔で鋭く舌打つ。
明里ではなく小春に対して睨みを利かせると体育館へと戻っていく。
変わってしまった野乃に「さよなら」と小さく告げる。
全てを終わらせた小春は深く息を吐いて気持ちを落ち着かせる。
「良かったのあれで?」
「いいよ。これで野乃とは別れられる」
「良くはないでしょ。二人は……」
「友達じゃない。私の知ってる野乃はもう居ない」
せめて、非を認めて謝罪してくれたらまだ考え直した。
しかし、野乃は決して非を認めようとはせず、あまつさえイジメを肯定しようともした。
そんな風に変わってしまった野乃をもう友人とは呼びたくない。
「それで、ガットを切ったって話。本当に先生には言ったの?」
「言ってないよ」
「嘘なんだ」
「あぁ言って脅しをし掛けた方が効果的かなって」
「小春は駆け引きが上手いね。ネット前もだけど」
「それ褒めてる?」
「褒めてるよ」
お互いに顔を見合ってクスリと笑い合う。
「さてと、戻って帰る仕度しよっか」
水道場の横に立て掛けたラケットを手に荷物の置いてある方へ向かう。
「小春」
呼び止めた明里の声に反応して振り返る。
「私は小春の友達だよ」
「うん。知ってる」
「残り時間は少ないかもしれないけど……あと少しだけバドミントンを一緒にしよう」
明里の真っ直ぐな言葉に「当たり前じゃん」と笑って見せた。
そのまま踵を返し、一人体育館へと先に戻っていった小春は手を強く握り締め、自分にしか聞こえない声で「ごめん」と呟いた。
その日を最後に小春は部活動はおろか、学校にすら来なくなった。
二人はちゃんとした別れを言えないまま、夏休みへと入り……小春は転校した。