百〇四幕 IF/明里と小春③
中学生になって初の定期試験の緊張感から解放されたお昼休みの時間、小春は時折訪れるテニスコート付近に生えた大きな木の下のベンチで、一人気ままに昼食を取ろうと足を運ぶ。
すると、普段は居ない筈の先客の影がそこにあった。
「あれ、先客がいる……って、あれは……」
そこ居たのは思い詰めた顔で俯く一人の少女。
自身のお手製弁当らしき美味しそうな玉子焼きを箸では掴んだまま口には入れずに、どこか遠くをぼんやりと見詰めたまま座り尽くしていた。
その人物の正体に気付いた小春はゆっくりと近付いて、知り合いの正面に立つ。
「あのー、そこは私の席なんだけどなー」
「え、ごめんなさい。直ぐにどきま……せん!」
慌ただしく顔を挙げて小春に気付いた明里はキッパリとした顔で退かないことを告げる。
「私の顔を見るなり堂々と……ま、いいや、もうちょい端に寄って」
スペースを空けるように伝えると明里はあっさりと端に寄る。
中身が全く減っていない弁当を拝見しつつも、目線を明里の頬に向ける。
「どうかした?」
「どうもしてない……それより、どうかしているのはそっちなんじゃないの?お弁当、進んでないみたいだし」
「暑くて、少し食欲ない」
「じゃあ、その玉子焼きはもらうね」
箸の触れていないもう一つの玉子焼きを奪おうと箸を伸ばすもその寸前で止められる。
「ちょ……一つくらい頂戴よ」
「それは私の自慢の一品なの。二つとも私の」
「なら食べさせてみなさいよ。自画自賛する玉子焼きを!」
そう言って無理矢理、残りの玉子焼きを奪うように口の中へと運ぶ。
すると下の中で常温の出汁巻き玉子が舌で溶けるように広がる。
「なにこれ美味しい!明里が料理出来るって噂、本当だったんだ」
「両親がよく出張で居ないから。最近は私が代わり夕ご飯を作ったりしているから……腕には少し自信ある」
「明里は良いママになるよー」
「誰のママよ」
「うーん、私とか?」
「もれなく姑さんが付いてくるけどいいの?」
「妹ちゃんを姑って怒るよ、香織ちゃん」
「冗談だって。それより、どうしてここに?」
「ここ、私のお気に入りベンチだから……たまに一人になりたい時はここに。そういう明里は?」
「私も似たようなものだよ。ちょっと考え事したくて」
「そっか」
テスト期間中、暫く部活以外であまり会って居なかったからか、自然と会話が続かなかった。
いや、迷っていると言った方が正しい。
明里が抱える悩み……あるいは嫌な事。
その一部を知ってしまったが故に気付いていないフリを続けるべきか迷う。
しかし、そんな小春の奥ゆかしい態度を明里は容易に見抜く。
「あのさ、小春。もしも、私が部活を辞めたいって言ったらどうする?」
「……部活、辞めたいの?」
「……うん。私、みんなから嫌われているみたいだから。なんだか居心地悪くて」
突然、そう切り出した明里の言葉に『そんなことはない!』と自信を持って返すことが出来なかった。かといって肯定も出来ない複雑な心境が小春の判断を鈍らせる。
「否定……しないんだね」
「私は嫌いじゃない。私は明里のことは好きだよ」
「知ってる」
「なら、いいじゃん!私や舞彩と愛唯だって明里のこと嫌いじゃない。それに嫌っているのは野乃や先輩達であって……みんなじゃない!」
自分でも訳が分からず……気付けば声を荒げていた。
何に対して憤りを覚えているのかは分からない。
けれども、許せなかった。
明里の自嘲気味な言葉に。
諦めた顔に。
嫌っているみんなの中に私が含まれていたかもしれないことに……
「……っ!なんでそうやっていつも自分から折れて戦おうとしないの?」
「戦ってどうするの?私は何もしていないのに嫌われているんだよ。どうしようもないじゃん」
「嫌ってない!私や三輪先輩達は明里を嫌っている風な素振り見せてる?嫌っているのはどう見たって野乃と那柚先輩達だけ。みんなじゃない!そこだけは訂正して」
小春は物凄く嫌だった。
自分の想いが明里に届いていない様でいて、野乃達とまるで同然と扱われている様な引っ掛かりを覚える言葉にどうしても我慢に耐えられなかった。
思わず立ち上がって息を荒げる自分を客観的に見つめ直して冷静になりつつ……一先ず、座り直して話を聞くことにした。
「ごめん」
「いいよ。それより、野乃から嫌がらせ受けているんでしょ。ガットを切られたって話も知ってる」
「いつから?」
「テスト前、明里がガットを張り替えに行った日に……部室で那柚先輩達が明里の陰口言ってるの偶然にも聞いちゃって……ごめん、私はあの時に何も否定出来なかった」
言いたくても言えなかった。
自らの保身もあってか、先輩達や野乃にたてつくことがどうにも怖くて仕方がなかった。
それに自分の出しゃばる行為が明里を反って傷つけることも想定してしまい……思うように心が体を動かせなかった。
「小春が謝る必要はないよ」
「でも、このままじゃ……」
「多分、私が諦める方が早い。私が部活を辞めればそれが一番なんだよ」
あっさりと述べる主観的な結論に小春は再び怒りを滲ませる。
「それ本気で言ってるの?」
「何度も考えたよ。でも、そうする方が……」
「良くない。絶対にそれだけは私が許さない!」
「無理だよ。余計にややこしくなるだけなんだから……」
「辞めてどうするの?バトミントンは?部活は?私との勝負は?そうやっていつも自分の気持ちを押し殺して、他人にばかり気を遣って明里は満足なわけ!?」
「満足じゃないよ!」
初めてだった。
大人しい明里がこんなにも大きく感情を表に出して主張する姿を小春は初めて目の当たりにした。
「私だって続けたい。でも、私が居たらみんなが楽しくなる。それにもう……誰かに嫌われるのは嫌なんだよ……」
弱々しく己の想いの丈を語った明里は悔しそうに涙をボロボロと流す。
小春同様に……いや、それ以上に複雑だった胸中を誰にも明かさずに一人で抱え続けたことで心身がとっくに限界を迎え掛けていた。
自身の愛用するラケットを見知らぬ誰かに傷つけられ、身に覚えのない陰口を裏で叩く人物と共に同じスポーツに励む。そんな芯の強い心を明里は持ち合わせていない。
それは小春だって同じ。
あんなことが自分にふりかかっていたと考えるだけでも気分を害する。
その上、たった一人では立ち向かう気にはなれない。
回りに心から頼れる仲間が少ない小春にとっては敵わない戦だと目に見えている。
でも、明里はその点まだ恵まれている方であった。
自分を慕う仲の良い妹の存在が辛うじて心を学校というこの場に繋ぎ止めていた。
無論、部活動以外でも明里には友人と呼ぶべき存在はいる。
それも悩みを共有出来て解決してくれる心優しい友が小春の他にも……だから、部活という人間関係だけを切ればこの学校生活で大した支障はない。
嫌な時間だけを切り離して、あとは彼女達と関わらずに済めば解決する話。
自分が折れれば全て解決される。
そんな弱気な解決策に小春は異を唱えられなかった。
小春もまた明里の悩みを解決するにはそうするのが一番の最善策かもしれないと思ってしまったから。野乃や那柚先輩達と和解を模索するよりも。
でも……やはり……
「決めるのはまだ早いでしょ。先生や部長に相談すれななんとか……」
「いいんだよ、小春。心配してくれるのは嬉しいんだけど……もう決めたことだから」
「え……」
目を腫らして泣き止んだ明里は食べ掛けの弁当を箱の蓋を閉じ、巾着にしまって立ち上がる。
「ごめん。今日は帰る……先生にも同じように言われたけど、もう私の意志は変わらない。ごめんね、じゃあまた」
作り笑いを浮かべ、颯爽と校舎へと戻って行く。
そんな明里の背を止めることなんて出来ないまま、小春はただ見送ることしか出来なかった。
「……あぁ、もう!明里のバカ!!」
なんだか物凄く悔しかった。
明里の諦め気味な態度には勿論のこと……自分があまりにも無力であることにも。
ただ、それ以上にどうしようもなく悲しかった。
部活動中、入部してからずっといつも直ぐ傍に居て、接し続けていた筈なのに、明里には心のどこかで裏切られるのかもしれないと思われていた。だから、相談の一つも投げかけてくれず、一人でずっと悩みを抱えたままいつものように折れる選択を自らに下した。
そんな自分勝手で、諦めが早い明里に再び「バカっ!」と強く叫ぶ。
それと同時に悔し混じりの涙を人知れずに流した。
♢
「ただいま……」
元気のない声で帰宅したことを告げると母が玄関での音を聞き、リビングから顔を出す。
「小春、おかえりなさい」
「ただいま」
母の横を通り抜け、自分の部屋へと直接向かおうとする。
「小春、ちょっと待って」
「……どうしたの?」
「あのね。少しお話しがあるの」
大事な話。
母の緊張を含んだ言葉に自然と足が止まるとそのままリビングへと二人で入る。
お茶を用意してくれたテーブルの椅子に腰掛け、母は意を決して用件を伝える。
「小春、急な話しでごめんね。お父さん、転勤することになったの」
「え、転勤?いつから?」
「九月には埼玉県の方の会社に異動になるの。それでね……お父さんの転勤に伴って引っ越しをしようと思っているの」
埼玉であれば今の家からでも全然通えないことはない。
神奈川の湘南や藤沢から新宿までを繋ぐ私鉄から埼玉と東京圏を走る埼京線に乗り換えれば埼玉県内の会社には通える。しかし、父の転勤先は埼玉の外れの方に位置するため、現在の家からだと通勤時間が長い上にかなり通い辛いとのこと。
だから、両親は今の住んでいるマンションを引き払って、向こうで新しい一軒家を買おうと考えているようであった。
「一応、お母さんとお父さんはそういう風に話し合って決めたんだけど……小春にも聞いておこうと思って」
「それって、つまり……転校するってことだよね」
母は首を縦に振る。
「今の学校もまだ入学したばかりだし……一年生の内ならまだどうにかなると思って。でも、小学校の頃から仲良くしていた野乃ちゃんとかとは離れちゃうけど……」
「大丈夫。お父さんの転勤なら仕方ないよ」
「本当にいいの?部活でも仲良くしている子とかもいるんでしょ?」
「うん。大丈夫……」
別にもう野乃とは友達でも何でもない。
それに明里が部活を辞めると言うのであれば……学校での関わりも自然と減ってくるに違いない。
自分らしくもないそんな弱気な後押しが両親の転勤、転校、引っ越しという話に乗ることができた。
「ありがとう小春。それと、本当にごめんね」
「いいよ。お母さん、仕方ないって分かっているから……」
どうしようもないことはない。
この転校だって私がしたくないとごねれば無かったことに出来るかもしれない。
明里の悩みだって同じ。
一人じゃなくて、誰かとみんなで掛け合えば野乃や先輩達から嫌味を言われなくなるように済むかもしれない。そうすれば、明里は部活を辞めずに大好きなバドミントンを続けられる。
けれども……それはあまりにも理想的な考えでしかない。
部活内でも人望の厚さで言えば、友人の数が圧倒的に多い野乃の方が有利。
明里と仲の良い舞彩や愛唯も私みたく率先して戦おうとはしないだろう。
あの時の私と同じで……保身を気にして、上手く掛け合ってくれないと思う。
恐らく、明里もそう考えた上であの答えを出した。
自分で諦めて、逃げた方が何事もなく解決する。
下手に事を荒立てるよりもひっそりと影を潜めた学校生活を仲の良いクラスの友人や自分をよく慕ってくれる妹達と送れればそれでいい。
部活での関わりなんて……そう大したものではないのだから。
私が明里の立場だったら、そう考えているかもしれない。
「小春?」
「ううん。何でもない、私着替えてくるね」
口では「大丈夫」と言っても転校に色々と思う所はある。
それを母に悟られたくない私はテーブルのお茶に口を付けずに部屋へと戻った。
制服を脱ぎ、下着姿になった私はラケットを掛けた横に飾ってある一枚の写真を手にする。
これは先月の団体戦での時、私と明里が初めてペアを組んで勝利を収めた直後に撮られた写真。
殆ど明里任せの試合ではあったものの、二人で手にした勝利には違いない。
目標を同じする者と一生懸命に何か取り組むこと。
自分一人では勝てなくても、二人なら挑戦出来ることの楽しさを……私は明里を通じて知った。
そして、好きになったし……憧れた。
その時に私の中で三津谷明里という人間は部活動の友人という関係から大きく変わった。
目標であり、ライバルであり……これからも仲良くしていきたい友人であると強く感じた。
しかし……それももう終わり。
私が居なくなることで全て終わる。
でも、明里に部活動だけは辞めさせない。
それだけはどうしても譲れなかった。
「やっぱり、私は挑戦する明里が好きなんだ……だから、私が前を向かせる」
下ばかり向く友人の顔をいつもみたいな笑顔に変えられるのであれば何だってする。
例え、学校中の人達から嫌われたとしても構わない。
例え……明里から嫌われることになったとしても。