百〇三幕 IF/明里と小春②
高温多湿の雨の日。
渡り廊下で濡れていないタイルの中央を駆ける小春の姿があった。
掃除当番から解放され、遅刻確実の部活に出来るだけ早く参加しようと体育館までの道のりを駆ける。その道中、体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下で偶然にも傘をさした明里と出会う。
「あれ……明里?」
小春は明里の姿を見て不思議に思った。
今日はいつもの体操着ではなく夏服の制服で鞄とラケットケースを肩に掛けていたのだから。
いや、不思議に思ったのはそうじゃない。
明里が纏っている雰囲気がどうにもいつもと違って見えた。
雨で空気がジメジメしているからだろうか。
普段の明るさはなく、今日は少しばかり淀んだ暗さを感じる。
「ん、小春。今日は遅いね」
「掃除当番だったから……それより、今日は部活行かないの?」
「うん。ガット切れちゃったみたいで張り替えないといけないんだ」
「そうなんだ……」
「だから、今日の自主練は付き合えない」
「仕方ないよ。ガット切れちゃったら打てないもんね。あれ、でもこの間も張り替えていなかった?」
つい、先週の土曜日に行われた練習試合。
そこでも明里は試合の最中にガットが切れる問題が生じ、予備のラケットを使っていた。
「先週に続いて今日もだなんて……不運だね」
「仕方ないよ。そういうもんだし」
「先生には言ったの?」
「もう言った。今は……」
「お姉ちゃん!お待たせ……って、あれお話中だった?」
明里と瓜二つの顔をした妹の香織が奥の方から慌ただしく寄ってくる。
少しばかり無愛想な明里とは違い、可愛い笑顔を貼り付け、まるで読者モデルの世界から飛び出てきたかのような愛らしいルックス。
隣のクラスでも異彩の輝きを放つと噂される香織の容姿に多少なりとも小春は目を惹かれる。
「確か、幸村さんだよね。小学校同じだった」
「う、うん。何度か一緒のクラスになったことあったよね」
「だね。中学校で話すのはかなり久し振りだけど……お姉ちゃんと話しているからそんな気はしないかな?」
明里と香織は髪型で簡単に見分けがつく。
ショートカットなのが明里でロングヘアーなのが香織。
小学校までは全く同じ髪型をしていたから中々見分けるのが難しかったが、明里の方が中学校入学のタイミングで髪を大胆に切ったからか以降は直ぐに見分けがつくようになった。
「二人は似ているけど、全然違うから。あんまりそうとは思わないかな」
「そっか。これからもお姉ちゃんと仲良くしてあげてください」
「香織。余計な事言わない」
「はーい。ごめんなさい」
仲睦まじい二人のやり取りを見せ付けられる。
そんな二人に小春は『いいな』と内心で声を漏らす。
「じゃあ、小春……また」
「うん。また」
「あ、お姉ちゃん。傘ないから入れてー」
「どうぞ」
明里の傘に割って入る形で二人は一つの小さな傘に収まるよう肩を寄せ合って帰る。
そんな二人を見送った小春は荷物を置いて渡り廊下の一番端の方に二人組で上体起こしに取り組む友人達を見つけて並ぶ。
上体起こしをしている小柄なツインテールの少女が愛唯で両足に腕を回して抑えているポニーテール少女が舞彩。二人とも小春の部活内における友人で、明里とはクラスメイトの関係である。
「あれゆっきー、今日は一人?」
「うん。明里はガット張りに帰るって言うから」
「そっか、じゃあ今日は私達とやる?」
「うん。お願い」
部活動内での友人は少ない。
そもそも、校内でも友人は数える程度でしか居らず、小学校でも仲が良いと思っていた友人も一緒に部活動へ入ったタイミングで新たな友人を作り、今はそっちのグループに深く溶け込んでいる。
そこに付いていけなかった小春は明里と同じクラスメイトで交流のある女子生徒達と部活中は過ごすことを決めていた。
「はぁー、私達いつまでこうして自主練していればいいのかな?」
上体起こしの抑える側の生徒が不満を漏らす。
「先輩達が引退してからでしょ。平日練習は使えるコートの幅が限られているから仕方ないって」
「そうは言ってもさー。土日連だって結局のところ、上級生の先輩達ばっかり試合やってて私達はいつも審判とか自主練させられてるの、不公平だよ」
「その気持ちは分からなくはないけど、先輩達に混ざる程私達は上手くないから」
「だね~。その点、明里やゆっきーは上手くて羨ましいよ。明里に関して言えば、二年生で時期部長候補の田戸先輩と競るくらいだし……正直言って、敵わないよ」
「同意」
二人の主張には小春も内心で首を縦に振らざるを得なかった。
凄いスピードで成長していくライバルの背を追い越すビジョンが全くと言って見えない。
むしろ、その差は増す一方であった。
「妹は読者モデルで校内随一の人気者、姉は運動神経抜群の天然ガール……あの姉妹、本当に羨ましい」
「天然ガールって……まぁ最近の明里を見ていればそう思うよね」
「最近の明里?」
何か特別に変わった様子は見られないが……同じクラスの二人には違いが分かるようだ。
「教室で席に着いている時とかなんか上の空って感じでさ。時折、難しい顔をして思い悩んでいるのかと思いきや真面目な顔で今日の夕ご飯、何を作ろうか考えていた……とか言い出して、てか明里って料理するんだ。ママじゃん」
「突っ込むとこはそこじゃないと思うけど……妹の香織ちゃんが凄い絶賛するくらいだから美味しいらしいんじゃない?弁当も自分でたまに作っているって言ってたし」
「マジ、ママじゃん」
明里の料理を食べてみたい気持ちは小春にも共有出来たが、一先ず脱線しかけていた話を戻す。
「まぁ、明里がよく分からないっいうのはいつものことだし……本人に聞いても教えてはくれないでしょ。自分の事となると頑なに口を閉ざして一人で悩みを抱えるからなー」
「だね。それよりも腹筋二十回やったからそろそろ交代しない?」
「まだ、二十回だよ」
「入部したての頃、一回も出来なかった私に比べたら成長した方でしょ」
「はいはい。あと、十回!」
「おにー!!」
ヒーヒー言いながらも一セット三十回の腹筋、残り十回分を続けて行う。
そんな彼女達の筋トレを待つ小春に体育館の方から部長の三輪に声を掛けられる。
「おーい、小春!」
「はい!」
「すまんが部室から新しいシャトルを三セット用意してくれ」
「分かりましたー」
練習に参加出来る声掛けではなく、雑用に使われたことに少しばかり悔みながらも立ち上がって部室のある格技場まで渡り廊下で練習する他の部員達の横を抜けて進む。
電気の付いていない部室のドアの前に立ち、部長の三輪から受け取った鍵を指し込もうとする直前……中の方からふと声が聞こえた。
「……誰かいるのかな?」
笑い声……の様な音が届き。
開けるのを躊躇って暫し静かなドアの前に立って耳を傾ける。
「あんた、また三津谷のガットを切ったの?面白過ぎ」
「この間は切らないで削っただけなんですけど、今回はやり過ぎて思わず切っちゃいました」
「うわー悪い子だなー。ま、三津谷嫌いだから全然いいんだけど」
声からして恐らくは上級生の先輩達と小春の小学校からの友人でもある望月野乃。
「うそ……野乃が小春のガットを……」
信じたくない事実に小春はドアの前で嫌な混乱に見舞われる。
「那柚ってば三津谷に校内戦で負けたからって逆恨みし過ぎでしょ」
「先輩相手でもさ、流石に手加減とかするでしょ。なのにあいつ、私をボコボコにするみたいにストレートで勝ちやがって……マジでうぜぇ。あと顔が良いのも腹立つ」
「ま、妹の三津谷香織と同じ顔ですから。でも、根は暗くて陰気臭いですよ」
「分かるわー。なんか愛想がないっていうか、全然可愛くないんだよね。それに多分、私達が嫌ってんの気付いているだろうし」
「あの妙に気を遣っている感じとか?今更、媚びようとしても無駄だっつーの」
次から次へと飛び交う友人の悪口に思わず耳を塞ぎたくなるも、それ以上に小春はこのドアを開いて『そんなことはない』と飛び込んで否定したくなる気持ちで一杯だった。
違う……明里は全然そんな子じゃない。
根は明るくて、優しい真面目で努力家な女の子。
ただ自分に正直じゃなくて、他人との距離感を図るのが不器用なだけで決して悪意がある訳じゃない。
そんな明里は全然可愛くなくなんかない!
少なからず陰口を叩くあんた達とは全然違う!
そう言ってやりたい気持ちを口にする寸前で押し留め、大きく息を吐いてゆっくりとドアを引く。
薄暗い部室で他人の悪口を肴にして談笑に耽る先輩達の目がドアの音に反応して一斉に向けられた。
「うわっ、びっくりしたー。先生かと思ったじゃん」
「小春、脅かさないでよ」
「……すいません。三輪先輩に新しいシャトルを持ってくるように言われまして」
「そなの。確か、その辺に……あった、これ新しいシャトルだから持って行きな」
明里の悪口を叩いていた筆頭の先輩からシャトルの入った筒を三本受け取る。
「ありがとうございます」
「お安いご用よ。それと私達がサボってることは三輪先輩にはナイショね」
「はい。それでは失礼します」
居心地の悪さから早めに用事を切り上げ、小春は部室のドアを再び開ける。
その去り際、不意に目が合った野乃に対してだけ少しばかりの睨みを利かせて部室を後にした。