2.せめて町に捨てて欲しかったです
「んんっ……」
意識を取り戻し、最初に聞こえたのはかすかな水音。
息を吸うとむせそうなほどに、濃密な緑の気配を感じた。
「え、私……」
呼吸をしている。声が出ている。
私、崖から落ちて死んだんじゃなかったっけ?
混乱しつつ恐る恐る、私は瞼を開いた。
「……森だ……」
視界いっぱいに、木々がそびえ立っている。
ずいぶんと大きな木だ。
うんと見上げないと、てっぺんが見えなかった。
崖の下に、こんなにたくさん、立派な木は生えていなかったような……。
疑問に思いながらも、私は地面へと手をついた。
どうやら、木の幹にもたれかかるようにして気絶していたようだ。
立ち上がり、周囲を見回そうとしたところで、
「近い……?」
強い違和感。立ち上がってなお、地面までの距離が近すぎる。
まるで小さな子供が見ている視界のようだ。
「どういうこ……っ‼」
目まいと共に、私は再び座り込んだ。
私は、そう、私は。
ふらつく頭を抱えながら、私はよろよろと立ち上がった。
小さく聞こえる水音、小川へと向かい歩き、川面を覗き込んだ。
細い手足、赤味がかった金髪。こそげた頬とこぼれそうに大きな琥珀色の瞳。
「私はリナリア。この前、九歳になったばかり……」
スポンジに水が染み込むように。
私の記憶が――生まれ変わってからの毎日が、頭に蘇ってきた。
「そうだ、私、おじさんに捨てられたんだ」
途方に暮れ呟く。
思い出した過去は、うなだれるしかないもののようだ。
☆☆☆☆
高瀬里奈だった私は、リナリアとして生まれ変わった。
里奈とリナリア。
前世と今世で名前が似ているのは偶然なのか、なにか意味があるのか。
私にはわからないし、聞けそうな相手も既にいなかった。
私が3歳の時、両親はモンスターに殺されてしまったらしい。
モンスター、そう、モンスターだ。
生まれ変わったここは、どうやら地球とは違う世界のようで、当たり前にモンスターが存在している。
建物や服装、食事なんかは昔のヨーロッパに似ている気がするけど、行動範囲が限られていたのでよくわからなかった。
孤児となった私は、養い親である叔母夫婦に自由を制限されていたのだ。
「こき使われてたよね、私……」
朝一番に井戸へ水汲みに行き、眠るのは家で一番遅い生活。
一つ年上の、叔母夫婦の娘と比べても食事量はずっと少なかった。
空腹でミスをすればぶたれ、ミスをしなくても罵られる。
理不尽田な毎日に、けれど疑問を抱くことさえなく、ただ言いつけられる仕事をこなしていたのだ。
叔母夫婦は私を嫌っていたし、その娘も私を馬鹿にしていた。
唯一まともに会話があったのは、私が子守をしていた、三つ年下の叔母夫婦の息子・ユアンくらいだ。
「村の人たちも、見て見ぬフリだったもんね」
叔母夫婦は村の中では裕福で、発言力が強い家だった。
そんな彼らの機嫌を損ねないよう、村人たちも私に冷たかった。
友人はもちろん、知人と呼べる相手もいない。
誰とも目を合わせないよう、こそこそと背中を丸め生きていた。
「生まれ変わっても不運って、もしかして呪われてるの……?」
ありえない話じゃなかった。
この世界には、魔法が存在している。
私は見たことはないけれど、村の人たちが魔法使いの噂を話していたなぁと思っていると、ぐぅぅとお腹が音を鳴らす。
丸一日、私は何も口にしていなかった。
食事も無く徹夜で働かされた後、おじさんに馬車に乗せられ、薪拾いをして来いと森に放り出された。 薪を集めるうち疲労と睡魔が限界に達し、気絶するように眠り込んだ。
そして目を覚ますと、おじさんの姿はどこにも無かった。
森の中一人呆然と座り込んでいたところ、前世の記憶を思い出したようだ。
「捨てられた……」
胸の奥で、心臓がちぢこまった気がする。
心臓が小さくなった隙間に、冷たさがじわじわと染み込んでくる。
捨てられて、死を望まれたことに気づいて。
体が震えるのを止められなかった。
「っ……!」
きゅっと唇を結んだ。
良かった、涙は出ていない。
食事を抜かれるのもぶたれるのも、嫌われるのはなれっこだった。
大丈夫、辛くても大丈夫。
私はまだ生きてる。死んで終わりのはずが、なんの偶然か前世を思い出せたんだ。
前世の記憶のおかげもあり、泣きわめき体力を消耗することは避けられそうだった。
「……川を見つけられたのは、かなりラッキーだよね」
川面を見つめ、震えを誤魔化すように呟く。
今は夕方。このまま何もしなければ、明日の朝には死んでいるかもしれない。
森の中、着の身着のまま、空腹を抱えた9歳の私。
泣きたいけど泣けない。泣かない。
絶望から必死に目を反らして、生き延びる術を考える。
「水があれば人間、三日くらいは生き延びられるよね……?」
生水を飲むのは怖いけど、他に選択肢は無かった。
ここは住んでいた村から馬車に揺られ数時間、更に馬車を降り森に入ってからも一時間以上歩いた場所だ。
土地勘はなく、外へ向かう道筋はわからない。
モンスターや何か危険な生き物がいるかも、何もかもわからない場所だ。
「……そう簡単に帰ってこられる場所に、私を捨てるはずはないよね」
考えれば考える程、嫌なことしか思い当たらなかった。
普段とは違う場所で薪拾いを命じられた時から、嫌な予感はしていた。
が、疲労と空腹に鈍った体で逃げ出す気力は無く、ただ命じられるままに来てしまったのだ。
「そういえばどうして私、捨てられたんだろう……」
口減らしだろうか?
でも、今年は凶作では無かったし、叔母夫婦はそこそこ豊かだったはずだ。
……気に食わないから目障りだからと捨てられた。
それが一番ありそうだった。
「捨てるにしても、せめて町に捨ててくれればよかったのに」
空腹に鳴るお腹をなだめながら、何か食べられるものはないかと探す。
川から離れすぎないよう気を付けつつ、しばらく探索を続けていると、
「血……?」
かすかに、鉄さびに似た匂いを感じた。
傷を負い狂暴になった動物と遭遇してはたまらない。
注意しつつ進む私の耳に、小さな声が聞こえた。
「……子犬?」
茂みのかげに、小さな動物がうずくまっているようだ