1.不幸は連続してやってくる
目の前の光景は一体なんなのだろう?
動揺する私の手から、ケーキの箱が滑り落ちていった。
ぐしゃり、と。
箱がひしゃげる音と一緒に、私の心も潰れてしまったようだ。
「どういう、こと、なの……?」
唇が震え、上手く言葉を吐き出せなかった。
靴下ごしに触れたフローリングの床が冷たくて、全身の熱が奪われていくようだ。
婚約者である和樹のマンション。
玄関で見慣れない女物の靴を確認した時から、嫌な予感はしていた。
そしていざ、リビング兼ダイニングへの扉を開けたところで、私は固まってしまっていた。
「……どうして和樹が、紗香と一緒にいるの?」
指を絡ませソファに腰かけて。
恋人同士のように身を寄せ合う二人を凝視していると、和樹が気まずそうに口を開いた。
「どうして、はこっちのセリフだ。おまえ今日、バイトで遅くなるんじゃなかったのかよ……?」
「っ……!!」
視界が揺れる。
ぐらぐらと回る。
吐き気と一緒に、腹の底から叫びが飛び出してきた。
「紗香と浮気してたの⁉」
「きゃっ⁉」
「っちっ! 叫ぶなよ紗香が怯えてるだろう⁉」
和樹が舌打ちし、紗香の肩を抱き寄せている。
まるで、私から紗香を庇うかのようなその仕草に。
心のどこかが、ひび割れていくのを感じてしまった。
婚約者である和樹と、半年前まで勤めていた会社の後輩の紗香。
見知った二人の顔が、今はまるで知らない相手に見えて仕方ない。
「……和樹、教えて。どうして紗香と浮気したの? 私達、結婚しようって、そう約束して婚約してた筈だよね?」
和樹と出会ったのは高校時代のことだ。
2年、3年とクラスが同じで、音楽の趣味も似ていて、気が付けば仲良くなっていた。
恋人になってから7年間。
社会人になってからは忙しく、会えない時間も多かったけど、ゆくゆくは結婚しようと約束していたはずだ。
「……あんなのはただの出まかせの言葉だ」
「何度も言っていたのに、全部嘘だったの……?」
和樹に視線をそらされてしまった。
気まずそうに、言い訳するようにこちらを見ている。
「あれは、その、おまえの機嫌を良くするためだけに言ってただけだ。ほら、だってそうだろ? 俺、おまえの家族には一言も、婚約するなんて言ってないだろう? だから俺たち、別に婚約してないというかその、社会的な義務とか、賠償金なんかも発生しないはずだ」
「っ……!」
私は唇を噛みしめた。
和樹の言っていることは本当だ。
私の両親は早くに亡くなっていて、育ての親の親戚とも疎遠になっている。
恋人だった和樹は、そんな私の身の上話を知っていた。
私に頼れる家族がいないと知っていたからこそ、婚約の件について有耶無耶にしようとしているのだ。
「最低……」
「っ、なんだよっ……!!」
ぽつりとつぶやくと、和樹の顔色が赤くなっていく。
「だいたいおまえ、勘違いすんなよ!! 俺の本命は紗香で、おまえの方が浮気相手なんだよ!!」
「私が浮気相手……」
心に走った亀裂が、深くなっていくのを感じた。
粉々に潰れて崩れて。
和樹への愛情が怒りと憎しみ、そして虚しさへと変わっていった。
「……いつからなの? いつの間に、私に隠れて紗香と恋人になってたの?」
「別にいつだっていいだろ!? おまえだって、俺に隠してることあったじゃねーかっ!!」
「隠し事……?」
さっぱり心当たりがなかった。
もちろん和樹にだって、心の中全てを打ちあけていたわけじゃないけれど。
人に責められるような隠し事は、私には何も無いはずだ。
「すっとぼけるな隠したって無駄だ!! おまえ、俺の悪口を散々、会社でまき散らしてたんだろう⁉」
「してない。そんなこと私してないよ」
「嘘つけ!! おまえが俺のこと貶してるって、紗香が心配してわざわざ忠告してくれたんだ!!」
「あぁ、そういうこと……」
ため息をつき、私は脱力してしまった。
会社の後輩だった紗香は、私を介して一度だけ、和樹に会っただけの関係のはずだ。
そんな紗香がどうやって、和樹の恋人になったのか疑問だったけど、わかれば簡単なことだった。
和樹へと忠告するフリをして近づき親密になり、私との仲を引き裂いたのだ。
「和樹は恋人の私のことより、紗香のことを信じて選んだのね」
「わ、私そんなつもりはっ……!!」
紗香が顔を青くし弁明した。
怯えた表情だが、瞳の奥にはこちらを見下すような色が見え隠れしている。
「私はただ、和樹さんが心配だったんです。和樹さん、会社で里奈さんが何をしているかも、知らなかったみたいだったから……」
「私が会社で……?」
「まだしらばっくれるつもりか?」
和樹が軽蔑を宿した瞳で、私を睨みつけてくる。
「おまえ、後輩の紗香のこと、虐めまくってたんだろう? 会社をクビになったのも、虐めがバレたからだって聞いたぞ」
「違うよ。私がクビになったのは、会社の経営が傾いて人員整理があったからって言ったよね? 紗香のことを虐めてなんていないわ」
むしろ私は、紗香を助けていたはずだ。
紗香は仕事ができるとは言えないタイプで、私は彼女のフォローに奔走していた。
元からブラック気味な会社だったけど、紗香の指導役になってからはますます忙しくなっている。
そのせいで和樹との間にも溝ができ、紗香に付け込まれてしまったようだ。
「人員整理で真っ先に候補にあがるってことは、おまえに何か問題があったってことだろ。紗香を虐めてたこと、会社の人間も気づいてたんじゃねーのか?」
「誤解よ。繰り返すけど、私は紗香を虐めてなんかいないわ」
言いつつも、私は半ば諦めていた。
私がクビ切り対象になった原因の一つは紗香だ。
彼女のフォローに時間を取られ、自分の業務が滞りがちになってしまっていた。
もちろん私だって上司に何度か訴えていたけど、上司の多くは紗香の味方だった。
美人で甘え上手の紗香は、男性からの受けがとても良いタイプだ。
和樹もすっかり紗香を信用しているようで、今更私が何を言おうと無駄なようだった。
「……言いたいことはそれだけか?」
黙り込んだ私に、和樹が鼻を鳴らした。
「おまえはもう、俺の恋人でも婚約者でも何もないんだ。これ以上紗香を怯えさせないよう、さっさと出て行ってくれ」
☆☆☆☆
「これからどうしよう……」
言葉と共に、白い息が空気へと溶けていった。
和樹のアパートを飛び出してから、何かを考えるでもなく歩いて。
気が付いた時には、近くにある公園へと来ていた。
ちか、ちかと。
電灯が瞬き、地面に私の影を落としている。
女の一人歩きは危ない。早く帰らなきゃ。
そう思っても足は、鉛をくくりつけられたように重かった。
「はぁぁ~~~~っ」
ため息と一緒に、体の重さも何もかも、消えてなくなってしまえばいいのに。
後ろ向き思考を全開に、体の前の手すりを握り込んだ。
公園は高台に位置していて、手すりの向こうはちょっとした崖になっている。
ぼんやりと夜景を見下ろしながら、虚ろに過去を思い出す。
私、高瀬里奈は、なかなかに運が悪かった。
一番の不幸は、両親が二人まとめて事故に会い、帰らぬ人となってしまったこと。
残された十歳の私を引き取ってくれたのは親戚だ。
両親の保険金があったから、金銭的な迷惑はかけていないはずだけど、やはり肩身は狭かった。
家庭に入り込んできた異物、私のことを厄介に思っているのは明確で、社会人となった今はもうほとんど、顔を合わせない関係だ。
親戚にこれ以上迷惑をかけないようにと、就職活動を私は頑張った。
頑張ったけど、それでも結果はついてこなかった。
第一志望の会社の面接日の当日、高熱の出る風邪を引いてしまい。
別の日には面接会場へと向かう電車が遅れたりと、なにかと私は不運だった。
「それでもどうにか地元の会社から内定が出て、働いて暮らしていたけど……」
その会社も今や元職場になり、再就職先を探す生活だ。
バイト代は家賃と生活費に消え、貯蓄も底をついている。
職無し、貯金無し、恋人も無し。
無い無い尽くしだった。
「……ははは、あははは、は……」
もう笑うしかなかった。
瞳は乾いたまま。
何かと不幸が多かった人生のせいで、涙腺は固くなっていた。
泣きたいような、泣かなくてよかったような。
よくわからないまま笑っていると、
「おいあんた」
「ひっ⁉」
肩を叩かれ振り向くと男性がいた。
金色に頭を染めていて、いかにも柄が悪そうだ。
思わず固まっていると、男性が眉を寄せた。
「飛び降りはやめとけ。早まるんじゃねーよ」
「あ……」
崖を前にして一人、乾いた笑い声をあげていた私。
自殺志願者ではないかと、勘違いされてしまったようだ。
「まぎらわしくてごめんなさい。夜景を見ていただけです」
「夜景を? あの顔でか?」
ずいぶんと私は、酷い顔をしていたらしい。
男性は肩から手を外しつつも、心配そうにこちらを見ている。
柄の悪い見た目につい警戒してしまったけど、優しい人のようだ。
誤解してしまい申し訳なかった。
「なんか思い詰めてるみたいだけど、本当に大丈夫か?」
「……大丈夫です」
話しているうちに、少し気分がマシになってきた。
見ず知らずの私を気遣ってくれた男性。
人の善意に触れ、人生捨てたものじゃないな、なんて、そんな言葉が心に思い浮かんだ。
「嫌なことがあって落ち込んでいたけど、夜景を見ていたら楽になってきました」
空元気も元気のうち。
私は明るい声を出すと、夜景を見下ろし口を開いた。
「夜景、綺麗ですよね。特にここらへんからの眺めがいいです」
手すりに体重をかけ少し身を乗り出すように、町を見下ろしたところ。
ばきん、と。
何かが砕ける音がして。
「なっ⁉」
傾ぐ体。
驚いた男性の声と浮遊感。
こちらに伸ばされる手、届かなくて。
「~~~~~っ!!」
全身に衝撃、暗転する視界。
体がこなごなになった様に痛くて、しかしすぐに何も感じなくなってしまう。
死ぬ。
理解できてしまった。
手すりが私の体重を支えられず折れ、崖から落ちてしまって。
もう助からないのだと、薄れゆく意識の中で感じていた。
……私、最後まで、とことんついてないなぁ。
不運続きの人生で……。
あぁ、でも、こちらを心配してくれた、親切な男性を巻き込まなかったのだけは幸運だったかもしれない。
「…………」
声は出ず、息もできない。
なのに苦しくなくて、何もわからなくなっていく。
暗くくらく、すべててがとおくなっていき、
――――その日私は、命を落としたのだった。