後編
「My name is Cryve」
桜井もみじ☆
はじめまして、桜井もみじ☆です。
特技は書道と英会話、好きな服は着物です。
苦手なものは待つ事です。
よろしくお願いしますm{ }m
はじめて小説を投稿するので、何か不備があったら教えてください。
昔、不幸な身の上にしてしまった主人公のクライブに
心から幸せだと言ってもらえるような小説にしたくて、
いろいろ考えて書きました。
次の町には本当に海があった。
山を抜けてすぐに大きな青い海が広がって、昨日感じた塩の匂いがする湿った風が吹き付けてきた。
木の橋がたくさんあって、そこに馬車みたいな変わった乗り物が並んでいる。それが船だってベンが教えてくれた。これで馬車みたいにいろんなところへ行けるんだって。馬も繋いでないのに、すごい不思議な乗り物だ。水に浮いてる、すごい。
泊まれそうなお店もいっぱいあった。
俺はどうしても海の近くがいいと言って、ちょっとおしゃれな高い宿を選んだ。
道を挟んだ向かいがすぐ海なんだ。窓からも海が見える。一階にはピッカピカの黒いピアノがあった。おしゃれ過ぎて、今までの町みたいな活気のある曲よりもしっとりした静かな曲が多く流れていた。
荷物を置いたら、俺はビンだけ持って、すぐに外に出た。
着ていたローブを脱ぎ、ブーツと靴下を砂地に置いて、ビンを抱えたまま、真っ先に海に向かって行った。
川と同じように水は冷たい。透き通っていて、下の砂とか魚も見えるんだ。それに川と違って、すごい力で押し流されそうになる。何度も何度も前へ後ろへ。変な感じ。でもこの力強く響く音は好きだ。
海と空がくっついてる遠い先の先の方がすいへいせんって、馬車でジャスティスが言ってたっけ? どっちも同じ色だから境目なんて分かんないや。でもきっと陽の光がキラキラする方が海だ。
しゃがみ込んでビンを砂に半分埋めたら、ざぱーって水が砂をさらっていった。流石にコインがいっぱい入ってるから、ビンは流れなかったけど、でもすごい。
追いついてきたジャスティスも同じように、ばしゃばしゃと海に入って行って、冷たいと言いながら、水を蹴り上げた。水滴がこっちにも飛んでくる。
水は川と同じで透明だから、いつもみたいにその水を両手ですくい上げてすすった。水が塩辛くて思わず噴き出したけど、ジャスティスは一人で笑っていた。
「これで料理出来そう!」
荷卸しをしていたメルディが、早く手伝ってと呼ぶから俺は戻った。ブーツとかビンとかローブを抱えて、裸足で歩いた。道には足跡が残っていて、それがなんだか面白かった。同じようにジャスティスが追いかけてくる。足跡が並んでて、やっぱり面白い。
「クライブ、しんどくない?」
「大丈夫」
俺はそう答えると、食料品の入ってた箱を担いで、宿の二階まで上がる。
広い部屋だ。一人一部屋のベッドルームがあるみたい。しかもすごくきれい。高いだけはある。入ってすぐの大きな部屋には六人分の椅子が並んだテーブルがあって、両端にベッドルームが三つずつ並んでる。一部屋多いや。
俺は真っ直ぐ正面の窓まで走って行った。
カーテンを開けたら、海が良く見えた。ざぱーって音がする。
「洗濯物出しといてよ」
ジャスティスに言われて、俺はうなづいた。
窓の下のフカフカの赤いソファーも大きい。ここで十分寝れそう。体重をかけたら大きく揺れた。
メルディが俺の隣りに座ると、フードをかぶせてきた。
「かぶってな、ここは人が多いから」
俺は大人しくフードを深くかぶると、メルディを見た。
メルディは少し懐かしそうな顔をして、海を見ていた。風に吹かれて、気持ちよさそうな顔をしている。きっとメルディは海なんて見慣れてるんだろうな。
どうしてだろう? 理由もないのに、胸がドキドキするんだ。楽しいんだ。それにうれしい。まるでこの海みたいにキラキラしてる。それになにもかも全てが色鮮やかに見えるんだ。色鉛筆を床にぶちまけたみたいだ。
このままメルディのそばに座っていたいな。
それだけなのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるんだろう。もしかして、あのヤバい色の薬、飲まなきゃいけないのかな? あれ、飲みたくないな。
ジャスティスが俺を見下ろして、きっぱり言った。
「ちゃんとピアノ弾いて、稼いできてからくつろいでくれる?」
メルディが噴き出した。
「確かに! この宿、高いんだからね」
俺は仕方なく立ち上がると伸びをした。
何を弾こう。どんな曲だったらみんなが喜んでくれるんだろう? きっと楽しい曲はこの店に合わないよな。でも今は楽しい曲を弾きたいな。
俺はメルディに言った。
「聞いてて」
そして真っ直ぐ部屋を出ると、廊下を突っ切り、階段を駆け下りた。
おしゃれな飲み屋には、俺の恰好は似合わないかもしれない。少し不安になりながら、店主のおじさんに尋ねた。
「ピアノ、弾いてもいいですか?」
「いいよ、大歓迎。次どうぞ」
俺はワクワクしながら、きれいなピアノを眺める。
今の人はすごく落ち着いた曲を弾いている。歌ってる女の人がいて、それもすごくきれいだった。ただ、こんなに明るい街なのに、歌詞も曲もくるしくなるんだ。きっとこの曲を作った人は人を泣かせるような歌にしたかったんだろうな。
お客さんの中には泣いている人もいた。
俺もやってやるんだ。
両手をぐーぱーしていると、メルディとベンが降りてきた。後ろにはレイチェルとジャスティスもいる。大丈夫。この間、前の町で聞いた落ち着いた曲を弾いてみよう。あれなら涙なんて出ないから。
メルディが俺に言った。
「頑張れ」
うれしくて、俺はうなづいた。
俺はあいたばっかりのピアノに向かって、ゆっくりゆっくり歩いた。
この瞬間は好きじゃない。
お客さんみんなに、本当に出来るのかって見られてるみたいで居心地が悪いから。
でも、思い出すんだ。音楽室のドアに手をかけたあの日みたいに、きっと胸がドキドキして、楽しくなるって。あのピアノに向かってると思ったら、何にも心配いらないんだ。
ピアノの前で一回お辞儀をする。これはレイチェルにした方がいいって言われたからだ。なんかよく分かんないけど、れーぎなんだって。確かにした方がチップをもらえる。
顔を上げると、お客さんはまだ泣いていた。俺は椅子に腰かけて、少し考える。
まずは少し静かな曲から始めようかな。いきなりじゃ、いい曲でもイマイチに感じるかもしれないから。
ピカピカのピアノに指を滑らせて目を閉じる。深呼吸をして、そして、鍵盤を叩いた。
きれいな音だ。懐かしい。この間の宿のピアノとは全く違う、すごくきれいな透き通った音がする。まるで海みたいに広く響く。弾いていて、気持ちがいいくらい、どの音もきれいなんだ。
胸がドキドキする。楽しくて、苦しいくらいだ。
弾きながらぱっと顔を上げたら、メルディがこっちを見ていた。
それがうれしくて、ただ楽しくて、俺は夢中で鍵盤を叩いた。
店中に響くきれいな音がどれもすごく透き通ってるんだ。でも色鮮やかに聞こえる。秋の楓の葉っぱみたいだ。そう、色づく森の楓の木々みたいに。
最後の音を叩くのはいつも、もったいない気がしてしまう。でも終わらない曲なんてないから、俺は最後の音を弾く。だんだん消えていく音が今度は拍手に変わる。
この瞬間は好きだ。
気に入ってもらえたんだって思うと、胸が潰れそうなくらい苦しくなる。これがうれしいだって、教えてくれたメルディもちゃんと聞いてくれてる。すごくうれしい。
拍手が止んだら二曲目、今度は明るく楽しい曲を弾く。
鍵盤を叩く指が軽い。まるで踊ってるみたいに自由に鍵盤を走っていくんだ。それが楽しくて俺は笑った。
もっと早く、村を出たら良かった。こんなに楽しいものがあるって知ってたら、あんなところ、さっさと出ていたのにな。
気付いたら隣りで、さっきの歌ってた人が笑顔で歌っていた。
俺はこの曲の歌詞を知らないけど、この人は知ってるみたいだ。有名な歌なのかな? その声に合わせて指を走らせていく。きれいな声だ。強く、弱く、響く音どれも透き通って聞こえる。まるで海みたい。波みたいに引いていったと思ったらざばっと押してくるんだ。
顔を上げたらまた一人、今度は知らない楽器を弾いていた。どんどん増えてくる。
どれもすごくいい音がするんだ。楽しい。楽しくて仕方がない。
だから、この曲の最後はすごくもったいないと思った。終わらせちゃうのかって。
でも顔を上げたら、全然知らない人達がみんな俺を見ていた。息を合わせて、俺は最後の音を弾いた。音が溶けるように消えていくと、今度は拍手の音がたくさん降ってくる。
俺は立ち上がるとお辞儀をして、一緒に弾いてくれた人達と握手をした。
「凄くよかったよ」
歌ってた女の人がそう笑う。
知らない楽器を弾いてた人達も同じように言ってくれた。
胸が苦しいな。ドキドキして止まらないんだ。でもこの苦しいのは嫌いなやつじゃない。うれしくて、楽しくて、苦しいんだ。ここでピアノを弾けて、本当によかった。
俺は笑って、ありがとうと返すのが精一杯だった。
いつも通りテーブルを回ってチップを貰ったけど、今日はいつになく多かった。高い店だから? それにしたって分厚い札束になった。こんなの見た事ない。それにメルディとみんなが座ってるテーブルに戻った後も、直接チップをくれる人がたくさんいた。みんな笑ってた。それに、カウンターにいたおじさんがオレンジジュースをおごってくれた。
メルディが笑顔で俺の背中を叩いた。
「凄いじゃん、どこで覚えたんだい?」
「この前、町で聞いたよ」
「そうじゃなくて、それをどこで練習したんだい?」
俺はオレンジジュースを見つめた。
そういえば、俺、どうしてあの曲弾けたのかな?
「なんとなく」
俺はそう答えた。
「なんとなくであんなに弾けんの?」
メルディは俺を見つめる。
どうしてだろう。なんか苦しい。
「俺だって、どうして弾けるのかなんて分からないよ」
胸が苦しい。ドキドキがもっと大きくなってくる。息も出来ないくらい、胸が痛む。なんでかな? 苦しいんだ。
俺はすぐ前にいたジャスティスの服の袖を引っ張った。
「苦しい」
ジャスティスは慌てた様子で、ポケットからあのビンをいくつか出すと、コルクを抜いて、俺に押し付けた。嫌だなって思ってたら、無理矢理口にねじ込んできた。
「ちゃんと飲んで」
飲んでどうこうなるとは思えないけど、俺は大人しくそれを飲み干すと、オレンジジュースで流し込んだ。気分が悪くなったりはしないみたいだけど、苦しいのは治らなかった。少し待ったけど、本当に全く効果なし。
結局俺はジャスティスに、部屋に連れ戻された。
ベンが心配してついてきてくれたのがうれしかった。
ベッドに寝かされてる時に、ジャスティスが言った。
「顔、赤いよ」
なんでだろ? 大人しくベッドに横になる。
まだドキドキする。でもこれをどう言えばジャスティスに伝わるんだろう。俺には苦しいとしか言えない。ぎゅうって苦しくなるんだ。
突然、ベンが言った。
「クライブはどんなふうに苦しいんだよ?」
俺は考えた。
うれしいとか楽しいに似てるけど、でももっと苦しい感じがする。胸の奥がぎゅうってするように痛い。まるで潰されてるみたい。
答えられないでいたら、ベンがベッドに座って、ジャスティスに言った。
「案外ただの恋かもしんねぇぞ」
「恋? クライブが?」
ジャスティスはそう言って、バカにしたような顔で俺を見下ろしてくる。
「なんだよ、それ?」
俺は二人に尋ねた。
ベンが困った顔をした。
「お前、恋って分かんねぇの?」
「だから聞いてるんだけど」
俺はむっとしてベンをにらんだ。
ジャスティスがそんなの無視してニコニコしながら話し始めた。
「まるで苺のタルトみたいな感じじゃない? こう、甘酸っぱくって切ないっていうか、なんていうかさ~。苺みたいに甘いんだけど、酸っぱくって、食べきっちゃったらもったいないなって思うくらい好きになるの」
コイツ、例えがお菓子ってなんだよ? 苺のタルトを食ったってこんなに苦しくならねぇっつの。確かにジャスティスのタルトは最高に美味いと思うけど。
「ジャスティスの例え、分かりづら過ぎ」
ベンが呟いた。
「誰かの事が凄く好きになるんだよ。分かる?」
「全然」
ジャスティスはそう笑った。
「レイチェルと一緒にいるだけで、ドキドキしちゃってさ、心臓が爆発しちゃうんじゃないかってくらい苦しくなるんだよ? でもその苦しいのも愛おしいくらい、好きで好きで苦しくなるんだ」
ベンが鼻で笑った。
ジャスティスは全然気にしない。
「手を繋いでるだけで幸せなんだよ? 凄くない?」
「分かんねぇ」
ベンは俺の頭をぺちっと軽く叩いた。
「クライブは一回、本でも読んで勉強しろ」
「読めないから勉強出来ねぇよ」
俺は呟いた。
本当になんでなんだろ。俺も文字くらい読めたらいいのに。ちゃんと学校に行きたかったな。そしたらこんな事でジャスティスなんかにバカにされたりしなかったのに。
そう思ったらなんか悔しくて、ジャスティスには背中を向けた。
そりゃメルディといたら楽しいよ。一緒にいてくれるし、嫌な事しないんだから。それにあったかいし、そばにいられるとうれしい。
だけど、ベンといたって楽しいし、うれしい。
確かにベンがいくらそばにいて笑ってくれても、メルディが一緒にいる時みたいにはならない。今だって、本当は下でメルディと一緒に座ってたかった。一緒にいられないとなんだか寒いんだ。
「オレ、てっきりメルディが好きなんだと思ってたのになぁ」
ジャスティスが言った。
「いっつも一緒にいるし、メルディとは話すじゃん。オレとは話してくれないのに」
「そうか? オレにも言ってくれるぞ」
「そうじゃなくて。さっきなんて、見ててって凄く嬉しそうに言ってたじゃん」
ジャスティスは笑った。
「あれ、メルディに見ててほしかったんじゃないの?」
そうだ。メルディに見ててほしかったんだ。
俺ははっとして頭を抱えた。
俺、メルディに笑ってほしかったんだ。それだけだった。だからメルディが笑って背中を叩いてくれてうれしかった。心臓が大きくはねた気がした。
「こいだったらどうなるんだよ?」
俺は二人に尋ねた。
「どうって、一緒にいたければいればいいんじゃないかな?」
ジャスティスはそう言った。
「ジャスティスってめちゃくちゃ単純なんだな」
ベンが笑う。
「もっと複雑なもんだってあるだろ? 訳があって一緒にいられないとか、先立たれちゃったりとか」
俺は起き上がった。
「そんなの嫌だ」
二人が俺を見た。ジャスティスはニヤニヤするし、ベンは思いっきり噴き出した。
何? すごく失礼なんだけど。二人して酷い。
「それが恋だよ、クライブ」
ベンは俺の頭を撫でた。
一晩考えたけど、やっぱり俺はメルディと一緒にいたい。このままピアノを弾いて、旅をして、一緒にいるだけでいい。それ以外、なんにもいらない。
もしそれが出来なくなったらって思ったら、苦しくて涙が出て、眠れなかった。胸が潰れそうなくらい痛くて、またあの薬を飲んだけど、やっぱり効かなかった。ジャスティスもベンも病気なんかじゃないって言ってたけど、苦しくてたまらない。
朝早く、俺はベッドを抜け出して、海まで行った。
気晴らしになるかと思ったけど、朝焼けに照らされた海を見てたって、全然気分は晴れなかった。きれいなんだけど、それだけ。もやもやしたまま、どんよりした曇りの日の空みたいな気分だ。
俺は船の前に座って、ぼんやりと海を眺めていた。
みんな寝てるし、誰もいない。静かだった。
メルディに会う前は、世界はあんなに味気なかったし、こんなに苦しくなんてならなかった。なのに今はキラキラしていて、毎日が楽しい。ちょっとした事でうれしくなって、笑っちゃうんだ。きっとこんなにうれしくなった事も、楽しくなった事も、笑った事もなかった。
俺はただ、一緒にいたいだけなんだ。それ以外、なんにもいらない。
でも、メルディもベンも悪魔なんだ。
もしかしたら、突然今までの事なんて全部嘘だって言って、村の奴らみたいに冷たい目で笑うかもしれない。他の悪魔や魔物に捕まって、また地下に閉じ込められるかもしれない。レイチェルだってそう。魔女だ、村の奴らと同じように。
今まではそれでもよかったんだ。必要としてもらえるだけでうれしかったんだ。
メルディは一緒にいてくれるかな? 俺が嫌になるまでいてくれるって、本当かな?
そんなのいくら考えたって答えがないのは分かってるのに、頭から離れないんだ。
気付けば、人が俺の前を通り過ぎて行った。もう日が昇ってる。船が一つ、出て行った。
「クライブ、何してるの?」
珍しい、レイチェルだ。一人の時に俺に声なんてかけてこないのに。
「なんにも」
俺は答えた。
レイチェルは俺の隣りに座った。
「今日は早起きなんだね」
「眠れなかった」
レイチェルは笑っていた。
どうしてレイチェルは苦しくないんだろ? ジャスティスと一緒にいられなくなったらって思わないのかな? どうして笑っていられるんだろう?
「レイチェルはジャスティスが好きなんだろ?」
俺は尋ねた。
レイチェルはイラッとするくらい、笑顔で真っ赤になっていた。なんかジャスティスに似てるよな、こういうところ。能天気だし、へにゃへにゃ笑ってるところとかも。
「そうだよ、好きだよ」
レイチェルはぼそっと答えた。
「じゃあ、『こい』してんの?」
俺はレイチェルを見た。
「してるよ」
レイチェルは笑った。
黄緑色の髪が揺れる。同じくらいの背で、小さな肩。やっぱりジャスティスとはちょっと違う。女の子なんだなって思う。でもやっぱり魔女なんだな。俺もこんな色の髪に生まれてたら、学校にちゃんと行けてたのかな?
俺は海を見た。今日も真っ青できれいだ。
「俺、メルディと一緒にいたいんだ」
レイチェルが俺を見て、にこっと微笑む。
「それだけでいいのに、苦しいんだ」
俺は胸を押さえた。今もズキズキする。苦しいし、痛い。全然良くならない。
「どうしたら苦しくなくなる?」
俺が尋ねると、レイチェルはすごく赤くなった。そして笑った。白い手が俺の頭を撫でる。同じ手でもメルディじゃなかったらこんなにイラッとするもんなのかな?
「そんなの無理だよ」
「どうして?」
「だって私もまだ苦しいもの」
レイチェルは静かに言った。
「私もね、ジャスティスとずっと一緒にいたいな。でも私はクライブより欲張りだから、ジャスティスが他の人といたら羨ましくなっちゃうの」
レイチェルは俺を見て、ふにゃふにゃした笑顔を浮かべる。
「ホントはね、ジャスティスがクライブと一緒にいるのも羨ましいんだよ」
レイチェルは俺に言った。
「だからクライブだって、私にとっては恋敵なんだから」
「なにそれ?」
「敵だよ敵」
レイチェルはすごく楽しそうに笑った。俺、そんなにおかしな事言ったのかな?
「クライブはジャスティスと違って純粋だよね! そういうところってジャスティスより可愛いと思うよ」
「どこら辺が? 全然分かんねぇ」
「恋が何かも知らなくて、好きって感情と苦しいのが違うって分かんないところとか。あとね、ピアノを弾いてるところとかはずっとずっと可愛いと思うよ」
全然分かんないけど、レイチェルにかわいいって思われてたんだ。なんかすごい嫌だな。せめてカッコいいって言ってほしかった。そもそもピアノ弾いてるところがかわいいってなんだよ? そこ、カッコいいに訂正してほしい。
俺は何か文句を言おうと顔を上げた。
そしたら腕がもげるんじゃないかってくらいの勢いで引っ張られた。痛いわと思ったけど、ジャスティスが見た事ないくらい怒ってるもんだから、文句も引っ込んだ。
「クライブ、何やってんの?」
ジャスティスが言った。
「何って?」
レイチェルが真っ赤な顔をして、首を横に振る。絶対言っちゃだめと口を動かす。
「昨日はメルディの事ばっかり言ってたのに!」
ジャスティスはそう言って、俺を押しのけるとレイチェルの隣りに座った。
「なんの話?」
聞いた事ないくらい低い声で、ジャスティスは言った。
「ジャスティスの話だよ。別におかしな事してないよ」
レイチェルがジャスティスに言った。
ジャスティスが俺をにらみつける。
「本当?」
俺はゆっくりうなづいた。嘘じゃないし。
「ジャスティスの事、聞いただけだよ」
レイチェルがジャスティスに言った。
「だったらなんでそんなに距離近いの?」
「だって聞かれたら恥ずかしいじゃない」
レイチェルは嘘をつくのが上手い。笑顔でさらさらと嘘をつく。
「ジャスティスこそ、こんなところで何してるの?」
「買い出しのつもりだったんだけど、あんまり仲が良さそうだからさ」
ジャスティスはまだ低い声で、こっちをにらむ。
コイツ、こんな声出るんだな。ケンカしても、こんな事は言われた事ないよ。っつか、どっからそんな声出てるんだよ。
俺は少しジャスティスから離れて座りなおした。勢いで脱げたフードもかぶりなおした。
「あたいも知りたいね。何してたんだい?」
今度はメルディが俺の肩を叩いた。
顔から火が出るんじゃないかって思うくらい、自分でも真っ赤になるのが分かった。どうしよう。メルディの顔なんて見られない。
「二人とも、空気読んでよね」
レイチェルが急に言った。
「恋バナに決まってるでしょ? 何? しちゃ悪いの?」
ジャスティスもメルディもそろって黙る。
「恋人のお兄ちゃんに恋人の話もしちゃいけないっての? ならいいわ、私、クライブに乗り換えるから」
レイチェルはペラペラとまくし立てる。
「だってジャスティスと違って、クライブはそんな事言わないもん。私がちょっと誰かと話してたって怒んないわよ」
真っ青な顔をしたジャスティスが、口をあんぐりと開けて凍り付いた。本当にびっくりしたら人間って動けなくなるもんなんだな。
俺は割と冷静にジャスティスを眺めていた。
レイチェルは満足げに微笑むとすくっと立ち上がり、今度は俺の手を掴んで引っ張った。
「行こう」
「え?」
俺はどうしていいんだか分かんないまま、レイチェルを見上げた。
レイチェルは笑ってた。
笑ってたけど、目が笑ってない。こっちもジャスティスに負けず劣らず怖い。
「レイチェル、本気?」
メルディは目を見開いて、レイチェルに尋ねた。
もう本当に、目玉乾燥するんじゃないかってくらい開けてた。
「本気よ。おんなじ顔だし、どっちでも一緒だと思うけど」
「そんな事ないと思うけど」
俺もそう思う。ジャスティスなんかと似てるとは言われたくない。でも口出しするほどの勇気はなかった。
でも珍しく、ジャスティスが割り込んできた。
「そんなの嫌だよ」
ジャスティスがレイチェルの腕にすがるようにしがみついた。
これもう、傍から見たらただのコントじゃん。なんかバカバカしくなってきた。何やってんの? 俺達、ふざけてるわけじゃないんだけど。
「オレ、レイチェルがいなくちゃ生きてけない!」
ジャスティスがあんまりにもデカい声で叫ぶもんだから、近くにいた人、みんながこっちを見た。もう本当にやめてくんないかな。恥ずかしいっつの。
「それ本当?」
レイチェルがジャスティスに尋ねた。
肩が震えてる。なんか笑ってんじゃん。ジャスティスの事、バカにしてんの?
「嘘なんかつかないよ」
ジャスティスが目をうるうるさせたら、レイチェルは満足そうに微笑んで、嘘に決まってるじゃないと笑った。びっくりした?とメルディに尋ねる。
「びっくりしたよ、もうやめとくれよ」
メルディはそう言って、すとんとその場に座り込んだ。そして俺の肩を引き寄せた。
「心臓に悪いよ、二人して」
メルディの声は、すごくか細くて、いつもと違って聞こえた。きっと耳元で言ったりするからだ。また苦しくなる。息も出来ないくらい。
レイチェルが俺を見つめる。
「あ~あ、メルディはいいな」
ジャスティスも俺も意味が分かんなくて茫然とレイチェルを見ていた。メルディだけが不思議そうな顔をしている。
「ジャスティスもクライブくらい可愛い事、言ってくれたらいいのに。羨ましいなぁ」
「なにそれ?」
ジャスティスが一番に食いついた。
「ジャスティスはまだ私に、ずっと一緒にいたいって言ってくれてないもの」
レイチェルはジャスティスの手を引っ張ると笑った。
「邪魔者は退散しようか」
今は置いてかないでほしいんだけど!
一瞬手を伸ばして言おうとしたけど、メルディが遮るように呟いた。
「それ、本当かい?」
声なんて出なかった。見られてるし、なんか恥ずかしいし。俺は黙ってうなづいた。
メルディはふふふと悪魔らしく笑った。
「いいよ、ずっと一緒だ」
メルディはそう言って、強くぎゅってした。
俺はレイチェルのそばにいた。
だってメルディは俺の顔をつついたり、急にぎゅってしたり、意地悪ばっかりするから。そして最後は悪魔らしく怪しく微笑むんだ。
その度に息も出来ないくらい苦しくて仕方がないから、レイチェルのそばに避難してるんだ。レイチェルはベンみたいにからかってこないもん。ここならレイチェルが二人を止めてくれる。
でもおまけみたいにくっついてくるジャスティスがちょっと鬱陶しい。まだ今朝の事で疑ってるらしい。
「どうしてメルディのところに行かないの?」
レイチェルが洗濯物を畳みながら、俺を見る。
「嫌がらせされたんだったら、私がぶん殴ってあげるよ」
「だったらメルディをどうにかして」
俺はベッドに座ったまま頭を抱えた。本当にこのままじゃ俺がどうにかなっちゃいそう。
「浮かれてるだけだから、そのうちなくなるよ」
「それっていつ?」
「う~ん、なんとも言えないなぁ」
レイチェルは笑った。
「俺、あのぎゅっとされるの嫌だ」
「なんで?」
「苦しくなるから」
レイチェルは洗濯物を放り出して、俺に飛びつく。嫌って言ってんのに。
「可愛い!」
俺はこっちを見ていたジャスティスに、助けろと言ってレイチェルを押しのける。
ジャスティスがまた目をうるうるさせながら、割り込んできてレイチェルにしがみつく。
「なんでオレじゃダメなの?」
「ジャスティスと違って、そういうところが可愛いじゃない」
「なにそれ、クライブずるい!」
「なんで俺がずるいの?」
もう訳分かんねぇや。
俺はそっぽ向いて、レイチェルから少し離れる。ジャスティスが面倒くさい。
「それってクライブが好きだからするんだよ?」
レイチェルはジャスティスを押しのけて、俺の隣りに座る。
もう本当にやめてくれないかな? ジャスティスの視線が痛い。
「ぎゅっとしてもらっても嬉しくないの?」
レイチェルは本当に不思議そうな顔をしていた。
顔が近いからまた、ジャスティスににらまれる。
「分かんない」
レイチェルはベッドに座って、俺の顔をのぞきこんでくる。
ジャスティスは真顔で俺を見る。
「クライブはどうしたいの?」
「分かんない」
俺はそう答える。
だって本当にそばに座ってられたら、それでよかったんだ。なのにこんな事になるんだ。もう分かんねぇよ。どうしたいかなんて。
レイチェルが俺の頭を撫でた。
「クライブはずっと一緒にいたいだけなの?」
顔を上げたら、レイチェルもジャスティスも丸い目をこっちに向けていた。すごく不思議そうな顔をしてる。
「キスもハグもいらないの?」
ジャスティスが言った。
「なにそれ?」
俺はジャスティスに聞き返した。
レイチェルが真っ赤な顔をしてベッドの上を転がる。
とうとう頭がおかしくなっちゃったのかも。絶対、ジャスティスなんかと一緒にいるからだ。やめとけばいいのに。料理が出来るだけだし、おすすめしない。
「ダメだよジャスティス、こんなに純粋なのにそんな事を教えちゃ」
レイチェルが何か言おうとしたジャスティスを、羽交い絞めにして微笑む。真っ赤な顔をして、一体何がそんなに面白いんだか。二人そろってニヤニヤするのが鬱陶しい。本当、悪いところばかり似てきて、マジで面倒くさい。
ジャスティスは俺を真っ直ぐ見つめて、柔らかい声で言った。
「何がそんなに嫌なのか分かんないけど、メルディはクライブの事が好きなんだよ。好きだからするんだよ」
「だったら元のままがよかった」
「本当に? メルディは他の誰かのものになっちゃうかもしれないんだよ?」
ジャスティスは立ち上がって、俺の正面に立つ。俺をじっと見下ろしてくる。
「クライブの言うずっと一緒は、それじゃ叶わないんだよ?」
「でもこんなの嫌だ」
こんな事なら、『こい』なんてしたくなかった。苦しいだけじゃん。何がそんなにいいんだよ? むしろ、いいところなんかある?
急にレイチェルが笑った。
「メルディには、私からちゃんと言っておくよ」
そしてレイチェルはひょっこりと立ち上がると、俺とジャスティスを見下ろしてにっこりしながら、ゆっくりドアのところまで歩いていく。
「じゃ、洗濯物よろしくね」
俺はぼんやりレイチェルを見ていた。
ジャスティスに思い切り小突かれる。地味に痛い。
「見とれないでよ、オレのだよ!」
レイチェルはクスクス笑って、そのまま部屋を出て行った。そしてドアを開けっぱなしでメルディを呼ぶ。
「ねぇ、メルディ」
「なんだい?」
どう考えても不機嫌な声のメルディが答える。
ああ、もう嫌だ。絶対怒ってる。
俺はくるっと洗濯物に向き合うと、ひとつずつ畳むことにした。隣りでギャーギャー喚くジャスティスがちょっと鬱陶しい。二人の声が聞こえてくるけど、俺は聞こえないふりをして洗濯物を畳む。もう一心不乱に畳んだ。でもレイチェルの声はデカい。ここまで聞こえてくる。
「だってクライブ、キスもハグも分かんないんだよ?」
ジャスティスがクスクス笑う。
マジ、なんなんだよコイツ。もう本当に消えちゃいたい。
「レイチェル、それ本当?」
「本当だよ」
メルディがズカズカ部屋に入ってきた。
後ろでニヤニヤしてるレイチェルが、静かにこっちを見てる。
なんでこいつらこういうところばっかり似てんの?
俺はジャスティスを盾にして、視線をそらした。
「クライブ、ちょっと」
「嫌だ」
俺はきっぱり断った。
ちょっとの後にどんな言葉が付くとしても、今は嫌だ。無理。絶対無理。
ジャスティスが急に立ち上がった。そのままこっちを向くと、俺の腕を掴んで引っ張る。予想してなかったから、俺はベッドから滑り落ちてしりもちをついた。
ああ、絶望ってこんな事を言うんだろうな。
俺はニヤニヤしながら俺の事を見てる約二名のせいで、せっかく避難していたのにメルディに押し付けられるんだから。何されるんだろ? 苦しいのは嫌だな。
でも意外な事に、メルディは俺を起こすと黙って手を引っ張った。無理矢理なんかじゃなく、俺が歩くのを待ってる。こっちを見ないけど、もう怒ってないみたいなのは分かった。
胸が苦しい。
レイチェルが俺の耳元で囁いた。
「優しくしてくださいって言うんだよ」
俺は振り向いて、レイチェルを見た。
助けを求めたつもりだったんだけど、完全に勘違いしたような顔のレイチェルはこっちを見て、拳を突き出し親指を立てる。ついでにウィンクまでした。違うから!って喉まで出かかってたけど、メルディにまた引っ張られて諦めた。
俺は大人しくメルディについていった。
メルディのベッドルームにつくと、俺はベッドに座らされた。
メルディはそのままドアをきっちり閉めて、カギまでかけた。
もう本当に絶望。なんで避難したのにこんな目に?
やっぱりレイチェルは味方じゃない。ジャスティスもレイチェルも、もうちょっといいやつだと思ってたのに。そりゃあんまり期待はしてなかったけどさ。
メルディが隣りに座る。
それだけなのに、心臓が口から出そうになる。
「あれ、本当?」
メルディはドアを見たまま呟いた。
俺はメルディを見上げた。
メルディは真っ赤な顔をして、そっぽを向いていた。
なんだよ、メルディまで。そんなに知らなかったらおかしいのか? っつかジャスティスはなんで知ってんの? 知らないのって俺だけ?
「本当だったら笑うんだろ?」
俺はメルディに背中を向けた。
「笑わないよ」
メルディはそう言って、ぎゅってしてきた。
体温が懐かしい。そんなに前じゃない筈なのに。でもそんな体温だけでも苦しくなるんだ。なんでなんだろ、嫌じゃないのに。
「からかって悪かったよ。知らなかったんだ」
メルディは静かに言った。
「じゃあ放せよ。もういいだろ?」
「なんで?」
「苦しくなるから」
俺はもたれてくるメルディを見ようとして、腕を前について振り向いた。あったかい頭が俺の左肩に乗っかっていた。その顔は海のように穏やかだった。
「なんでそんな事、言うんだい」
「俺だって分かんないよ」
メルディは顔を上げると、顔を近づけてきた。逃げようと思ったけど、左手を引っ張られる。いつもと違って、メルディはすごく乱暴な気がした。
何をされてるのか、本当に分からなかった。
ただ、頭が真っ白になって動けない。
凍り付いたみたいな気分だった。
口唇が口唇とくっついてる事は分かった。
急に我に返ったけど、気付いた時には涙がボロボロ出ていて、自分でも情けないくらい泣いていた。なのにちっとも動けなくて、怖くない筈なのに、ガタガタ震えていた。
メルディが手を放して、俺のほっぺたを撫でる。
この手が好きなのに、うれしい筈なのに……。
どうしてこんな事になったんだろう。
俺は頭を抱えた。涙を止めようとして、深呼吸をしようとした。でも全然止まらないし、息も出来てるのか分からない。苦しい。胸が痛い。
メルディは涙をぬぐってくれた。
こんなに好きなのに、どうして俺は泣いてるんだろう。泣きたくないのに。
「誰だってそうなるんだよ」
メルディの声は温かかった。
人を好きになるのって難しい。
『こい』なんて、まだよく分からない。
『あい』だってメルディは言ってたけど、それもよく分からない。
ただそれが、特別な好きなんだって事はなんとなく分かった。すごくすごく特別な好きだって。
メルディが俺に教えてくれた。苦しくて痛いなら、泣いてもいいって。何時間でも一緒にいて、泣き止むまで離れないって。それでもダメなら、どうしたらいいか考えようって。
もしかしたら、怖かったのかもしれない。メルディに突き放されたらって……。
本当に三時間も一緒にいてくれたから、ぎゅっとされるのも、もう怖くない。温かくて、うれしくて、俺はずっとメルディの肩にしがみついて泣いていた。
涙が止まって、少し落ち着いたらすっきりした。
俺はメルディの肩から顔を上げて、ベッドにちゃんと座った。
メルディもこっちを向いて座りなおす。
「落ち着いたかい?」
「もう大丈夫」
俺はそう返して、メルディに尋ねた。
「さっきの、なんて言うの?」
「どれ?」
「ぎゅってするやつ」
メルディは笑った。
「笑わないって言ったじゃん」
「ごめんごめん」
メルディの手が好きだ。
ゆっくり何度も頭を撫でてくれる。だから簡単に許せちゃうのかもしれない。
「あたいとしては、可愛いから教えたくないんだけど」
「またジャスティスに笑われるから嫌だ」
俺はメルディを真っ直ぐ見つめた。
「だって、なんて言ったらしてくれるのか分かんないじゃん」
メルディは真っ赤な顔をして、俺から目をそらす。
笑ってるんじゃなくて、照れてるんだって、やっと分かった。
「やっぱり教えない」
メルディはそうそっぽを向いて、すごくうれしそうに笑った。なんだかその顔が好きで、そんな事どうでもよくなった。
「じゃあいい」
俺は笑った。
メルディの背中は、小さいけど温かい。そこにほっぺたをくっつけてるだけでうれしいんだ。ドキドキするけど、もうそんなに嫌じゃなかった。
「落ち着いたんなら、夕飯食べに行こうか」
メルディが俺に言った。
「行く。でもその前にもう一回ぎゅってして」
「やっぱりクライブには絶対教えない」
メルディはそう言って、こっちを向くとぎゅっとしてくれた。
目を閉じると、すごく落ち着いた。もっとこうしてたいな。でも腹は減ったし、いつでもしてくれるんだって思ったらうれしかった。
「うれしいよりうれしいのってなんて言うの?」
俺は尋ねた。
「幸せかな」
「じゃあ俺、今しあわせだ」
嘘じゃない。本当にすごくすごくうれしかったんだ。これがしあわせなんだったら、俺は今、すごくしあわせだと思う。どんなごちそうよりうれしいんだから。
「それなら今まではしあわせじゃなかったのかい?」
「うん。苦しかった」
「きっと悲しかったんだね」
「じゃあ、かなしかったんだと思う」
ベッドから降りて、俺はメルディの手を握る。柔らかくて温かい。
「ピアノ、弾かなくちゃ」
俺はそう言って、ドアを開けた。
今日は違う飲み屋に行った。
昨日のピアノを聞いてた人が、その店を教えてくれたんだ。すごく有名なピアノのある店らしい。お酒とかがメインじゃなくて、音楽がメインのお店なんだって。
洗ったばっかりのローブで行こうとしたら、ベンが黒のジャケットを貸してくれた。こんなので行ったら怒られるって。でもジャケットなんて着慣れないし、少し大きいから俺は袖をまくった。ピアノを弾くんだし、これくらいは許されるよね。
その店は町の中心にあって、すごく大きかった。何人でも入れそうなくらい、大きくて広いお店にぽつんとピアノがあるんだ。宿から近かったけど、びっくりするくらい目立ってた。ドアからのぞいたら、あんなに大きいピアノがすごく小さく見えるんだ。
先に行ったレイチェルとジャスティスが店の前で待っていた。
「本当にいいのかな?」
ジャスティスがそう言って、俺を見る。
「わざわざ名刺までくれたんだよ? 大丈夫」
レイチェルがそう笑う。
俺は正直笑えなかった。
ドアから見る限り、平日の真昼間なのに満席なんだよ? このめちゃくちゃデカい店が。何にも考えてなかったから、弾く曲も思いつかない。手が震える。
固まってたらレイチェルが、俺の手を引っ張ってドアを大きく開けた。そして入口にいた大きなおじさんに名刺を渡して、昨日紹介されてきましたと平然と言う。
おじさんはすごくうれしそうだった。
「楽しみにしてたんだよ」
そう言って、俺をどう見たって従業員用の通路に案内する。
頭、真っ白なんだけど。無理だって。
「大丈夫。いつも通り弾いといで」
メルディが俺の肩を叩いて、耳元で言った。
俺はメルディを見た。
メルディはにこっと笑った。
それだけなのに、なんか大丈夫な気がするのはなんでなのかな? いける気がした。
俺は頭の中で、一番好きな明るい曲を選んだ。一番最初に教えてもらったんだ。音楽って楽しいんだって思った曲だから。
深呼吸をしてゆっくりと暗い通路を進んだ。ピアノは広い舞台の上にちょこんと乗っていた。スポットライトでキラキラしていて、すごく目立つ。
舞台の横の階段で深呼吸をする。
店の人なのかな? さっきのおじさんと同じシャツを着たお兄さんが俺の肩を叩いて行ってと言うのが聞こえた。
いつもよりずっと遠いピアノまで歩いて行って、俺はお辞儀する。まだ何にもしてないのに拍手されて、ちょっと怖い。顔を上げたら、店の隅のメルディが見えた。
大丈夫、いつも通り。俺はそう呟きながら椅子に座った。
ピッカピカに磨かれたピアノの鍵盤を撫でて、俺は目を閉じた。ここはあの日の音楽室。だから大丈夫。失敗したって誰も聞いてない。そもそもバカにされる事にも、笑われる事にも慣れてる。
俺はゆっくり目を開けて、そして一つ目の音を鳴らした。
良く響く。いい音だ。
楽しかった。こんなにきれいな音のするピアノなんてはじめてだったから。ただ鍵盤に指を乗せるだけで柔らかい透き通った音が響くんだ。夢中でピアノにかじりついて、俺はただただ鍵盤を叩いた。すごく楽しい。胸が苦しいのは、きっと楽しいからだ。
そんなに長い曲じゃないから、すぐに終わってしまうのが少しもったいない。でもいいんだ。また別の日に弾けばいいんだから。生きてたらまた弾けるんだから。ピアノはどこに行ったってあるんだから。
そうして気付いた時には、曲が終わっていた。
なんだかいつもより短く感じる。
拍手の音が聞こえてから、我に返って立ち上がった。頭を下げると、もっと大きな拍手が聞こえた。ピアノの音なんかよりずっと大きな音だ。
ドキドキする。体が重い。苦しくて、俺は少し急いで舞台を降りた。そのまま階段の下に座り込んだら、今度は立てなくなった。腰が抜けたのかと思ったけど、違った。苦しい。痛い。声も出ないくらい。
息をする度、胸を刺すように酷く痛むんだ。血なんて流れてないのにな。腹を刺した事があるんだから確かだと思う。でも今はあの時なんかとは比べられないくらい痛いんだ。
そう言えば薬はローブのポケットだ。
俺は顔を上げた。
ジャスティスが走ってきて、俺の背中を撫でる。あのビンを持っていた。
「大丈夫? 薬、飲める?」
手が震えていて、とてもじゃないけど、そんな小さなビンは持てなかった。
「しっかりして」
ジャスティスの声が聞こえて、茶色い薬が口に入ってくる。必死で飲み込んだけど、気分が悪くて吐いちゃいそうだった。不味くない筈なのに。
くらくらする。ぐーるぐると目に入ってくるものが回る。すごく揺れてる。気分がどんどん悪くなってく。額から流れて行ったのはきっと冷や汗だ。
「クライブ」
俺を呼ぶババアの声が聞こえた。
きっとげんちょうってやつだ。そうだって信じたい。
冷や汗が止まらない。
俺はジャスティスにもたれて、そのまま目を閉じた。乱暴に揺さ振られるけど、どうにも出来ない。かすれた声しか出なかったけど、なんとか言った。
「苦しい」
今度口に突っ込まれたのは、汁じゃなくて、塊だった。なんかめちゃくちゃ不味くて、飲めない。
まるで腐った肉をスモークしたみたいな、吐き気しかしない臭いが鼻を抜ける。飲んだら死にますよって言ってるような、ヤバい味しかしない。こんなの、ジャスティスが寝込んで食べるものがなくなった時に食った、冷蔵庫の奥底にあった半年前のビーフストロガノフ以来だ。あれ食った後、俺も寝込んだっけ? 一口しか食べてないのに。
それでもなんとか飲み込んだ。
舌にしつこく残る味が最悪。これならキノコまみれのポトフのがいい。ジャスティスの味付けだったら、まだ食べられる。好きじゃないけど。
「やっぱり限界だったんだよ」
親父の声が聞こえる。
「やっぱり無理をしてでも連れ戻すべきだったのよ」
今度はババアの声。
げんちょうじゃなかった。もっと最悪だ。
ジャスティスが俺の肩を揺すって、何度も何度も名前を呼ぶ。答えられる状態じゃなくて、目を閉じたまま必死で息をした。苦しいのにジャスティスがしがみついてくる。腕を回して、俺の首を締めるつもりか? そんな事しなくたって、息なんて出来てねぇよ。
メルディはどこ?
手をにぎってほしい。そばにいてほしいんだ。
どうしていつもみたいに髪を撫でてくれないの?
どうして大丈夫って言ってくれないの?
かすれたジャスティスの声が、耳元で聞こえた。
「寿命なんて嘘でしょ? 嘘だって言ってよ」
なにそれ? 俺の寿命って何?
もうピアノを弾けないの? もう旅は終わり? もうメルディと一緒にいられないの?
そんなの嫌だ。もっといろんな町に行きたい。もっともっとピアノを弾きたい。ずっとメルディと一緒にいたいよ。
まだ死にたくない。生きたい。そうだ、生きたいんだ。
生きて生きて、もっと楽しい事、うれしい事、知りたいんだ。
本が読めるくらい字を覚えて、チップだって自分で数える。ピアノだって、もっともっといろんな曲を覚えたい。美味しいお菓子も、ご飯も、もっともっと食べたい。海みたいに、俺の知らないいろんな場所を旅したい。そうしてメルディと、一緒に景色を眺めるんだ。
変なの。あんなに死にたかったのに。
ずっとずっと死にたかった。殺してほしかった。目が覚めなきゃいいって思ってた。生きるのは痛くて苦しくて、かなしかった。ずっとずっと一人で、それが当たり前だと思ってた。こんなにきれいな世界があるなんて知らなかったんだ。
今は嫌だ。生きたい。メルディと一緒に生きたい。
やっと生きたいって思ったのに……。
「俺、死ぬの?」
俺はジャスティスに尋ねた。
ジャスティスはぎゃんぎゃん泣いてて、なんにも答えない。痛いのに、俺にしがみついてくるんだ。
どうしてだろう。いつだって俺ばっかり、かなしい思いをするんだ。やっと生きたいと思ったんだ。やっと、やりたいと思った事を見つけたんだ。やっと、死にたくないと思ったんだ。なのに死ぬんだ。
言っただろ? やっぱり神様なんかいないんだ。
俺を好きでいてくれる悪魔はいるのに、神様だけはいつだって俺の事が嫌いなんだ。いつだって、俺を一人にして、俺からしあわせを取り上げて、俺にかなしい事を押し付ける。産んだらそのまま放ったらかしの、あの人達のがまだマシなくらい。神様は酷い事しかしない。
どうして、神様は俺から全部、奪ってくんだよ?
メルディと一緒にいたいだけなのに……。
他にはなんにもいらなかったのに……。
涙が止まらない。もう目を開けたってなんにも見えない。
せめてメルディの顔を見たい。なのに、たったそれだけの事すら叶えてくれない。胸が締め付けられる。すごくすごく痛い、苦しい。どこにいるんだか分からないけど、きっとそばにいる。絶対、一緒にいるって言ってくれたんだから。
俺は手を伸ばした。
ひんやりした柔らかい手が握りしめてくれる。
メルディだ。俺の一番好きな人。大好きな手だ。
「死にたくない、やっと死にたくないって思ったのに」
メルディから遠ざけるように、死神が反対側の手を引っ張ったような気がした。
瞼を開けるのが怖かった。
まだメルディに言いたい事がいっぱいあるのに、もう死んでたら? ここが天国だなんて思えないけど、地獄だったら? もう会えないなんて知りたくない。
でも手を握ってくれる、温かい体温を感じたんだ。
ただそれだけなのに、もう怖くなんかなくなってたんだ。
ゆっくりと目を開けて、一番に見つけたのは大きくて宝石みたいな、強くてきれいなメルディの目だった。泣いてる。せっかくのきれいな顔が涙でぐしゃぐしゃだ。
メルディが俺の名前を呼んだ。
大嫌いだったのに、今はこの名前も嫌いじゃない。だってメルディが何度も何度も呼んでくれるんだから。
宿のベッドだ。なんにもない部屋だけど、メルディもベンも、ジャスティスもレイチェルもいる。それだけでいっぱいだ。いっぱいなんだ。
うれしいな。そう、うれしいんだ。俺、まだ生きてる。死んでない。
窓から吹き込む冷たい風が塩辛い。
メルディが俺の左手を両手で握って、もう一回名前を呼んでくれた。温かい声だ。
俺もメルディの名前を呼んだ。
あんまり大きな声は出なかったけど、かすれた声でもメルディは気付いて、俺の額を撫でてくれた。
伝えたい事があるんだ。
好きなんだ。ここにいてくれて、俺のために泣いてくれて、俺を生かしてくれて、こんなにきれいな世界を教えてくれてありがとうって。本当はもっともっと一緒にいたいって……。
いつもみたいに隣りに座って、ジャスティスのご飯を食べて、ピアノを弾いて、馬車に乗って行くんだ。笑って、笑って、ただ普通に過ごすんだ。それだけで俺はしあわせなんだから。
「大丈夫、ここにいるよ」
メルディの涙が頬に落ちてきた。
ボロボロ涙を流してる。俺のために、泣いてくれてるんだ。
俺は右手を上げた。重いけど、大丈夫。まだ動く。
白いすべすべのメルディの頬の涙をぬぐう。俺にメルディがしてくれたように、ゆっくりゆっくり。だって、俺はそれがうれしかったんだから。
「俺のために、泣いてくれてありがとう」
声を絞り出したら、喉が焼けるように痛んだ。でもいいんだ。
「俺を生かしてくれて、ありがとう」
メルディが俺の手を握る。
「ここにいてくれて、うれしい」
ジャスティスがレイチェルの肩でわんわん泣いていた。
ジャスティスの声だけで生きてるけど、自分がいつ死んだっておかしくないって事は分かる。じゃなきゃこんなに泣いたりしない。ジャスティスだって、人よりずっとしあわせじゃなかった筈だから。泣くのは慣れてる筈だから。
ベンの後ろから、ババアと親父が顔を出した。二人はほっとしたような顔をしていたけど、何か言おうとして、でも言葉も出て来ないまま口を閉じて黙ったんだ。どうせ何も言う事なんかないんだ。いつもの事だ。
やっと気づいた。
ジャスティスがいきなり帰ろうなんて言ったのは、俺が死にそうだって聞いたからなんだって。きっとあの二人から。みんなも知ってたんだ。メルディも、ベンも、レイチェルも。
だからみんなで戻れって言ったんだ。
でも黙ってたんだ。どうして教えてくれなかったのかは分からないけど、もしかしたら言えなかったのかもしれない。俺がジャスティスだったら、きっと言えない。話せない。
「ずっと一緒って言っただろ? すぐ良くなるから、そんな事、言うんじゃないよ」
メルディの声は震えていた。
俺はメルディを見つめた。
「俺、あとどれくらい生きられるの?」
ベンが泣き出しそうな顔をしながら、俺から顔をそらした。そして、低い声で囁くように言った。
「多分、そんなに長くない」
やっぱり。俺、死ぬんだ。
分かってたけど、それでもかなしかった。神様に踏みつぶされてるみたいだ。胸が紙切れみたいにぐしゃって音を立てて潰れるような、そんな気がした。
メルディがベンに掴みかかった。
レイチェルが真っ赤に泣き腫らした目をして、二人を止める。
すごい剣幕で、黙んなって怒鳴るメルディは怖かった。
でも、きっとベンが泣いたのは、メルディが怖かったんじゃない。それが本当だからだ。
みんな、泣いてくれたんだ。不思議だ。こんな時なのに、泣いてくれる人がいるってだけでうれしくて、涙が出るんだ。いくつもいくつもこぼれてくる。
手を伸ばして、メルディに触れたら、それだけでしあわせになれるんだ。その体温が心地よくって。
「メルディ、笑ってよ」
俺は言った。
喉が痛い。声もかすれて、聞こえないような小さな音だった。
でもメルディは気付いてくれた。俺のそばに座って、泣きながら名前を呼んでくれる。
俺、死にたくない。死にたくないよ。俺、一体なんのために生まれてきたのかな。
でもせめて、俺のためにもうこれ以上泣かないでほしいんだ。俺がメルディに苦しい思いをさせるのは嫌だ。笑ってほしいんだ。
俺は今、ちゃんとしあわせなんだ。うれしいんだ。メルディがくれるこのあったかいものが『あい』なんだったら、俺だってあげたい。凍えるように寒い毎日が、今は毎日、夏みたいに暑いんだ。こんなに色鮮やかな世界を教えてくれて、そばにいてくれて、一緒にいてくれて、笑ってくれて、本当に本当にうれしいって伝えたいんだ。だから泣かないでって。
なのに、声も出ないんだ。
こんなにメルディに伝えたい事があるのに、神様は酷い。いつだって。
俺はただ、メルディの手を握り返して、泣く事しか出来なかった。
その日の夜、ジャスティスがみんなの前で話してくれた。
俺は本当は十五歳で死ぬくらい、もろい体だった事から順番に。
ババアが作っていた薬は、命を引き延ばすためのものだった事。ピアスもあの吐き気のする注射も、悪魔や魔物に狙われないように必要だった事。薬を作るのに時間がかかって、部屋にこもりきりだったんだって。
親父はそんな俺達を連れて、旅が出来なかったんだ。強かったババアと俺達をあんな村に置いていくしかなかった。たまにしか戻る事が出来なくて、本当はすごくすごくかなしかったんだって。
そして誕生日のあの日、村を出てから二人が俺達を探していた事。そのためにあの狼男達の集落で仕事をした事。ピアノが上手い真っ白な双子がいるって、噂で聞いて追ってきたんだって事も。あの誕生日の日から、俺はいつ死んだっておかしくないほど、弱ってたんだって事も。
そんな状態で狼男達にたくさん血をあげてしまったから、今、こうして寿命が来てる。
ジャスティスはずっと鼻水をぐずぐず言わせながら、ゆっくりゆっくり話した。いつになく弱々しい声で、ときどき言葉に詰まりながら、それでも全部、きちんと話してくれた。バカで、弱っちくって、泣き虫の、俺がよく知ってる弟だけど、ずっとずっと大きく見える。だって、俺の知ってるジャスティスだったら、きっと怖くて逃げ出してたから。ジャスティス、強くなったんだな。
俺は黙って聞いた。
ジャスティスはなんにも間違ってないから。
ババアは話が終わると、俺に薬を持たせた。
いつもみたいに、無理矢理飲ませようとはしない。飲みたくなければ、無理に飲めとは言わない。気休めだけど、少しは楽になるからって。
ジャスティスが持っていたのと同じ、細長いビンだ。今度は透明だった。
ババアが持ってきた薬はめちゃくちゃ不味かったけど、でも少し落ち着いた。落ち着いたから、話も少しは出来るようになった。だるいけど、そこまで痛くない。苦しいのも少し楽になった。
でもジャスティスの悲しそうな声のせいで、俺まで泣きそうになって返事なんて出来なかった。
「黙ってて、ごめんね」
ジャスティスは話の最後にそう言った。
俺は不思議で、ジャスティスの顔を見上げた。
「なんで? ジャスティスは何も悪くないのに」
「だってオレがあの時、腕を切れていたら、クライブは倒れてなかった」
おもしれーやつ。鼻水出てる。
「俺はジャスティスが腕を切らなくてよかった」
「どうして?」
「だって切ってたら、せっかく守ってやったのに、傷が残ってただろ?」
「オレだって、クライブほどじゃないかもしれないけど、怪我くらいいっぱいしてるよ」
ジャスティスはほらと包丁で切った、てのひらの傷を見せつけてくる。思ってたよりいっぱいあるからちょっと驚いた。てっきりつるつるの手をしてると思ったのに、ジャスティスは俺なんかより荒れたガサガサで傷だらけの手だった。包丁で切った傷がいっぱいあった。
そうか、こんなに傷を作りながら、毎日ご飯を作ってくれてたんだ。美味しいお菓子も、美味しいご飯も、キノコだらけのポトフもコンソメを使い過ぎのポタージュも、三日くらいかけて食べる誕生日のホールケーキも、なにもかも。
ジャスティスが俺の事を知らなかったように、俺もジャスティスの事を全然知らなかったんだ。十四年も一緒にいたっていうのに。
「でも、自分で切って痛いと思うのは、俺だけで十分だろ?」
笑える。俺が言える立場なんかじゃないのに。
ジャスティスがまた泣き出した。そんなに泣かなくたっていいのに。だってジャスティスはもう、俺がいなくたって大丈夫なんだから。そう言ったのはジャスティスなのに。
俺はジャスティスの手を借りて、上半身をなんとか起こすと、ふっかふかの枕を背中に置いた。もたれてれば、起きててもそんなにしんどくない。
「ジャスティス、代わりに手紙書いてくれよ」
「なんで?」
「俺、メルディに伝えたい事があるんだ。でも明日、起きないかもしれないから」
ジャスティスはポケットからメモ帳を出して、いいよと言った。鉛筆を握って、うなづく。
俺はゆっくり考えた。
伝えたい事がたくさんあるんだ。何から書いてもらったらいいかな?
そうだ、崖の下で死ぬのを待ってた俺を、無理矢理連れて帰って、手当してくれた事からにしよう。それからそれから、俺が死にたいって言った時に泣いてくれた事。俺を生かしてくれた事、一緒にいてくれた事、そばにいて笑ってくれた事。ピアノを聞いて笑ってくれて、好きって言ってくれた事も……。
あんなにうれしかった事、一度だってなかったよって。
ピアノだったら、どんな曲だって弾けるのに。音色に乗せれば、どんな思いも言葉にしなくたって伝えられた。きっと伝わると思うんだ。でももう鍵盤を叩けるほど指も自由に動かないな。
俺はバカだから、自分じゃ手紙も書けないけど、せめてサインは自分でしたいな。
あ、でも俺、自分の名前も書けないや。
「なあ、ジャスティス。俺の名前ってどう書くの?」
「クライブってバカだよね」
「ジャスティスばっかり、学校行きやがって。ずるい」
俺は笑った。なんか楽しくて。
ジャスティスはまず鉛筆の持ち方からはじめた。
力が上手く入らないけど、なんとか握れる。
白いメモの隅に、俺の名前を書いて見せるのが面白い。
そういや、二人でこんなふうに笑ったの、何年ぶりだろう? 学校に行く前は、こうやって二人で遊んでた。絵を描いて、木に登って、木刀を振り回して遊んだ。よくケンカもした。いつもジャスティスが先に泣いたっけ?
きっとメルディに会う前だったら、字なんて覚えたくなかった。だって俺は俺が大嫌いだったから。名前も髪も目も、この腕の傷跡も、全部大嫌いだった。
なのに今は自分の名前をなんとか紙に書こうとして、ジャスティスに笑われるのが楽しい。キラキラしてるんだ。
ジャスティスは外が明るくなってくるまで、付き合ってくれた。
長い長い手紙の最後に、俺は自分で自分の名前を書いた。『CRYVE』ってたったこれだけなのにすごく難しい。ジャスティスのきれいな字の隣りに並ぶと、なんだか少し変だ。ガタガタで、ゆがんでて、ジャスティスの字には程遠い。でも満足だった。伝えたかった事はもう全部、手紙にジャスティスが書いてくれたから。きっと顔を見て言えなかった事だって、手紙にちゃんと残したから。もう平気。眠るのも怖くなんかない。
俺はジャスティスに明日もちゃんと起こせよって、笑ってから眠った。
昼過ぎ、俺はちゃんと目を覚ました。
メルディはベッドに座っていた。外を見ていたみたいだけど、その手は俺の隣りにあって、安心した。
「俺、まだ生きてる?」
「生きてるよ」
メルディは笑った。
春の日のチェリーの花みたいに、散ってしまいそうなくらい弱々しかった。
ずっと、この顔が見たかったんだ。俺は本当に本当にうれしかった。
「また、ぎゅってしてくれる?」
「何度でも」
ジャスティスが昨日教えてくれた。
メルディが温かいのは『やさしい』からなんだって。ベンもレイチェルもそうだ。そうしてくれるからうれしいんだって。俺の事を撫でてくれる手も、そばにある体温も、柔らかい言葉も、何もかも全部、やさしいんだって。
今、俺をぎゅってしてくれるメルディは、いつだって俺にやさしくしてくれてるんだ。だから俺はメルディの事を好きになったんだ。きっと特別な好きだ。きっとこれが『こい』なんだと思う。
俺は目を開けた。
ドアの前にベンが立っていた。
「メルディもベンも、悪魔なのにやさしい」
俺はそう笑って、メルディの背中に腕を回した。
温かい。うれしい。俺は今、すごくすごくしあわせなんだよって言いたい。でもちょっと恥ずかしいな。ベンが見てる。今はやめとこう。
いつもとおんなじ真っ黒なベンは、金づちより重そうな、分厚い本を持っていた。メモみたいな紙がたくさん挟まってる。何か書いてあるけど、俺には読めない。俺が分かるのは自分の名前だけだから。ベンは俺の足元に座ると、本を広げた。
メルディがそれを見下ろして、それはだめだと呟いた。
「それはだめだ。ベン、あたいは嫌だ」
「じゃあお前、他に案でもあんのか?」
ベンはそう言って、俺に本を見せる。
なんか魔法陣みたいな絵と米粒みたいな小さい字が並んでた。読めたとしても、これは読みたくないな。全然面白くなさそうなんだもん。
「俺、字は読めないよ」
「じゃあ読んでやるよ」
ベンは本を自分に向けると、上から読み始める。
「禁忌、人間と人間の全てを取引」
「なにそれ?」
「やっちゃいけませんって書いてんの。ベン、もうやめな」
メルディがベンに言った。
俺はメルディの腕を捕まえて、力こそなかったけど引っ張った。するっと手から抜けちゃったけど。大好きなその手を捕まえてる事も出来ないんだ。かなしいな。
メルディは気付いたのに無視して、ベンを止めようとして立ち上がる。ベンはひょいっとそれを、かわして俺を見た。
「要はクライブとオレ達、悪魔は取引をする事が出来るんだ」
ベンはメルディを押しのけて、俺の前に座った。
「魔女や魔法使いがする取引は、死後、その魂を悪魔に引き渡す代わりに、生きてる間は魔法を使えるように魔力を貸すっていう取引だ」
「全然分かんない」
メルディがベンを怖い顔でにらみつけながら言った。
「もしレイチェルが死んだら、その魂はあたいのものだって事だよ。その代わり、生きてる間は魔法を使えるようにしてあげる」
「でも、もし人間が全てを悪魔に渡すなら、その人間を不老長寿に出来る取引があるんだ」
うん、ベンの言ってる事は全然分かんないや。メルディのもよく分かんないけど。
「クライブ、分かってないだろ?」
「もっと分かりやすく言えよ」
俺はバカにして、俺をのぞき込んでくるベンに言った。
俺がバカなのはどうにもならないじゃん。
「お前、オレかメルディに、体も命も魂も自由も、全部渡せるか?」
メルディが低い声で、ベンの名前を呼ぶ。
ベンはそれを無視した。
「クライブが望めば、それ以上は歳も取らない、元気で病気しない、長生きするようにしてやれる」
俺が答えようとするのを、メルディが遮った。
「でもその取引をしたら、クライブはどんなに嫌になっても自分じゃ死ねないし、その相手から離れられない。どんな事を言われても、嫌だって言えなくなる。悪魔の所有物になるんだよ。だからそんな方法は使えない。そもそもそれは取引って言うより呪いに近いじゃないか」
メルディが低い声で言った。
俺にはどうしてそれがダメなのか、分からなかった。だって、前よりずっと元気になれるんだもん。メルディと一緒にいられる。何がいけないの?
「どうしてダメなの?」
俺はメルディに尋ねた。
ベンが答えた。
「メルディはお前を奴隷にしたくないんだよ」
村にはいなかったけど、聞いた事がある。
お金持ちがどこかから人間を買ってきて、無理矢理働かせるんだ。鎖でつながれて、逃げられないって。死ぬまでずっと、自由のない生活をしてるって。でもそれって、村にいた時の俺と、どう違う? 必要ともされずに、村から出られない。なのに連中は俺を嫌ってた。やる事がある分、そっちのがしあわせかもしれない。
「俺、別にいいよ」
だって、メルディと少しでも一緒にいられるんだ。
明日死んだっておかしくないなら、仮にほんの少ししか一緒にいられないとしても、どんな事を言われても、生きたい。生きてみたい。
「もし、オレがメルディに会うなって言ってもか?」
ベンは俺を見下ろして言った。強くて鋭い、ちょっと怖い視線。
でもここで目をそらしたら、ベンはきっとその取引をしてくれない。
俺は真っ直ぐその目を見つめて答えた。
「でもベンが一緒にいてくれるんでしょ?」
生きていれば、メルディに会えるかもしれない。
生きてさえいれば、きっとベンもたまには会ってもいいって言ってくれる。
だってベンはすごくやさしいから。そもそも、ベンはそんな酷い事、言ったりしないと思う。それに働くとしても、多分ピアノが一番効率がいいだろ。それって、今の楽しい旅の毎日と一緒じゃん。朝から晩までずっとピアノを弾かされてもいい。楽しいもん。
「オレとケンカしても、クライブはどこにも行けないんだ。オレがご飯抜きって言ったら、何日でもご飯抜きだ。それでもいいのか?」
「いい」
それでも生きて、少しでも長く、メルディと一緒にいられるのなら。
そんなの平気だ。なんだってする。なんだって取引する。
「あたいはそんなの嫌だ」
メルディが怒鳴った。泣きそうな顔をしていた。
「クライブが人のものになるなんて、嫌だよ」
「だったらメルディが取引しろよ。一生一緒にいろって命令しろよ」
ベンがメルディに向かって怒鳴った。メルディよりずっと怖い顔をしていた。すごく怒ってる。殴られたってヘラヘラしてるような、やさしいベンが怒ってるんだ。
「血も、その体も魂も自由も、全部メルディのものにすればいいだろ。そんなんだから落ちこぼれなんだよ」
「その後は? ジャスティスやレイチェルが死んでいくのを一緒に見送れって? 一人だけ、悪魔と同じ時間を生きろって言うのかい?」
メルディが怒鳴る。ベンも怒鳴り返した。
「何のために一緒にいるんだよ? お前が支えてやればいいだろ。あと数日、一緒にいて見送るのと、一緒に長く生きて死ぬ瞬間まで一緒にいるのと、どっちがいいんだよ?」
メルディは黙ると、床に座り込んだ。ボロボロと涙が流れてく。
いつもはあんなに強気なのに、言い負かされてるんだ。言い返しも出来ないんだ。
俺はそんなのどうだっていいのに。ただ、メルディと一緒にいたいだけなのに。
「他に案があるならどうぞ」
ベンはそう言って、メルディの腕を引っ張って立たせると、ベッドに座らせた。
俺はメルディの手を握った。
「俺、平気だよ」
メルディは俺を見る。。
「一緒にいたい。それじゃダメ?」
「対等じゃなくちゃ、意味ないよ」
「今までだって、全然対等じゃなかったよ」
深呼吸をして、俺はメルディを真っ直ぐ見つめた。
どんなに脅されても、この気持ちは変わらない。
好きなんだ。きっと今一番怖いのはメルディに嫌いって言われる事だ。怖くなんかない。
「俺、捨てられてもいい。少しでも長く一緒にいられるなら、一人になってもいい。ただ、もう少しでいいから生きたい。そのためだったら、この先の百年がどんなに酷くてもいい」
この言葉に嘘なんて一つもない。
もし来月、メルディに捨てられるとしても、それでもこんなに明るい世界を教えてくれたんだ。あの狭い村なんかとは違う。この先の時間がどんなものでも、死にたいなんて思わない。
三人で並んでソファに座って、一緒に笑って、ピアノを弾く。それだけでいい。なんにもいらない。あの一瞬が、俺の一生で一番しあわせな時間だったんだ。あの体温が一番うれしかったんだ。
でも俺の手の中で、メルディの手は震えている。こんなに大好きなのに、俺の言葉じゃ伝えられない。悔しいよ。なんて言ったら伝わるんだろう。
「少し、考えさせて」
メルディはそう言って、部屋を出て行った。
あれだけ大きな声でやり取りしてたから、みんなに聞かれた。
ババアと親父も、メルディと同じように反対してきた。自分だって悪魔と取引したくせに何言ってんだかって、思ったけど言わなかった。言ったら負けな気がして。
ジャスティスとレイチェルはなんにも言わなかった。でもメルディがあんなんだから、口でこそ言わないだけで、やめた方がいいと思ってるみたいだった。特にジャスティスの視線が痛かった。レイチェルはそこまででもないみたいだけど。
メルディは一人でベッドルームにこもってるって、ジャスティスに聞いた。泣いてるみたいって言っていた。
本当はこんなベッド抜け出して、メルディのそばに行きたい。俺がしてもらったように隣りにいてあげたい。でももう自力で座ってる事も出来ないんだ。ふらふらで力も入らない。どうしてこんなに、俺は弱いんだろう。
悔しくて悔しくて、ジャスティスの前で泣いてしまった。心配させて、悪かったなと思ってる。でも涙が止まらなかったんだ。
でも、夕方までに三回も、昨日みたいに苦しくて起きてられなくなって、その度にババアのクソ不味い薬を飲んだ。本当にいつそのまま死んだっておかしくなんかない。今度こそ、本当に目は覚めないだろう。
俺は日が暮れたのを見て、ベンに言った。
「星が見たいんだ。外まで連れてって」
「はあ?」
ベンは分厚い本をペラペラしながら、他にはないかってずっと探してる。そんな事より、話してた方が気だってまぎれるのに。全然話してくれない。ジャスティスもずっと泣いてるし、レイチェルはなんにも言わない。
「明日の夜まで生きてられるか分かんないんだから、見せてくれたっていいじゃん」
「窓からでも見えんだろ?」
俺は思い切って、話した。
「一番最初にメルディに会った時、空を飛んだんだ。星空の中にいるみたいにきれいだったから、また見たいんだ」
もちろん嘘じゃないけど、本当は二人になりたかったからだ。
ここじゃすぐ隣りの部屋にいるジャスティス達にも聞こえる。俺が小さい声で呻いても聞こえるんだから、しゃべったら聞かれる。そしたらきっとジャスティスが騒いで、メルディが止めにくる。
ベンは本を閉じると俺をひょいっと、いとも簡単に持ち上げた。膝の下と背中を支える腕がすごく大きくて温かい。すごく落ち着く。
ベンの肩にもたれてたら、ちゃんとつかまってろなんて言われた。本当はつかまるほどの力は残ってないのに、俺は黙ってベンの黒いシャツを握った。
外は月明りで明るかった。きれいな満月が辺りを照らしていて、海がキラキラと月明りで輝く。今日は雲もないから、淡い光りの天の川だって見えた。そして吹く風は冷たくて、塩辛くて、すごく気持ちがいい。
メルディと同じ、真っ黒なカラスみたいな翼が、何度も力強くはばたいて、風に舞う真っ黒で大きな羽根がきれいだ。メルディに連れてきてほしかったな。でも仕方がない。
ベンは屋根に上がると、そのまま海が良く見えるところに降りた。俺を膝にのせて、海を見る横顔は少し悲しそうだった。
「あのさ、取引してくれる?」
俺はベンに尋ねた。
ベンはむっとした顔をこっちに向ける。
「お前、はじめっからそれ狙いだっただろ?」
「そうだけど、でも星も見たかったよ」
ベンは大きなため息をついた。
「俺、メルディと一緒にいたいんだ。そのためだったらなんでもする」
「オレ、多分クライブが思ってる数倍、意地悪な方だと思うけど」
「でも俺のはじめての友達だよ」
ベンはぱっと顔をそむけると、真っ赤な顔をして笑った。なんか面白い。からかってる訳じゃないんだけどな。
「ヤバいな、クライブが女だったら一発で惚れてたぞ」
「ほれるってなに?」
ベンが噴き出した。すごく楽しそう。
こうやって笑ってくれるベンが好きだ。でもこう、なんていうか、メルディとは違う感じ。レイチェルやジャスティスとも違うけど、でもそっちのが近いのかもしれない。これはなんていうんだろ?
「メルディは苦労するな」
「なんで?」
「クライブはたまに、小さい子どもみたいな事を言い出すからな」
ベンは笑いながら、屋根に両手をついて体を少し後ろに倒す。
もたれてた俺はそのまま、ベンにくっついた。両手でシャツを握ると、温かかった。
「メルディじゃなくていいのか?」
「だって俺、いつ死ぬか分かんないじゃん」
俺はベンを見上げた。ベンは俺を見下ろしていた。
「オレ、正直言うとメルディとそんなに仲が良い訳じゃないんだぞ」
「それでもいいよ」
俺が答えたら、大きな風が吹いた。一瞬前が髪の毛で見えなくなるくらい、強い風だった。
俺はくせ毛じゃないし、頭を振ったら大体、元に戻るんだ。
だけどベンのきれいな黒髪がばさばさに吹き飛んで、ぐっちゃぐっちゃになって面白かった。ベンは毎日鏡の前で髪の毛を直してたんだな。なんであんなに何十分も洗面所にいるんだろうと思ってた。
ベンは髪の毛を片手でささっと直して、こっちを見た。
「今の、絶対秘密な」
「言わないよ」
ベンは微笑むと、俺を見下ろした。
「メルディも言ってたけど、取引なんて言うより呪いなんだぞ」
俺はうなづいた。分かってるよ。
「どんなにつらくなっても、どんなに嫌になっても、死ねないし自由はない。オレが言ったら、ちゃんと聞かなくちゃいけない。本当にいいんだな?」
「いい」
俺はうなづいて、ベンに言った。
「ベンはなんて言うの?」
「とりあえず、髪の話は絶対誰にもするな」
ベンは笑った。
「今は縛り付けるつもりもないし、どうこう言うつもりはない。でもこの先、オレがメルディとケンカ別れするかもしれない。そしたら何百年も会えなくなるだろ。当然、ジャスティスは先に死ぬ。お前、一人になるかもしれない。それでもオレと死ぬまで一緒でいいんだな?」
「上等」
俺はそう返した。
「ならいい」
ベンは微笑んで、強くうなづいた。
俺は少し空を見た。取引したら、きれいに見えなくなったりするのかな? そうだったら、きっとこれが最後になるかもしれない。ちゃんと見ておこう。
でもふと視界を遮った、真っ黒な翼が空も隠してしまった。ついでに低い声で俺を呼ぶ。若草色の宝石みたいな大きな目、ほうれん草みたいなきれいな緑の長い髪。そして真っ白なワンピース。俺の一番好きな人だ。
「メルディ」
そう呼んだら、メルディは俺の顔をのぞきこんできた。真っ赤に目が腫れてる。そのせいだろうか、目つきがいつもの数倍は悪い。正直ちょっと怖い。
「クライブ、なにやってんだい?」
「俺と取引、してくれるの?」
ダメ元で聞いてみた。
メルディは俺を見つめて、そしてゆっくり首を横に振った。
やっぱり、嫌なんだ。俺が対等じゃなくなるのが。俺が嫌って言わなくなるのが……。
分かってたんだ。メルディはやさしいから、俺が知らない事、分からない事、なんでも教えてくれる。まあときどき教えてくれないけど。でも、必ず俺にいいかいって言うんだ。嫌って言えるような顔で聞いてはこないけど。
だから俺の事を考えて、取引しないって決めたんだ。
「俺、やっぱりメルディと一緒にいたい。一緒に生きたい」
俺はメルディを真っ直ぐ見つめて言った。
本当は泣きそうだったけど、ちゃんと言えてよかった。声は震えていたけど。
ベンが俺の肩をそっと撫でた。温かい。
大きな肩がちょっと羨ましい。年、とらなくなっちゃうんだったら、俺、きっとずっとこのままだよな。ずっと小さいままだ。親父も小さいから、そんなに伸びないだろうけど。
「メルディはクライブが死んでもいいんだな?」
「そんなの嫌に決まってるよ」
「だったらなんで、取引してやらないんだよ? お前のものじゃなくなるんだぞ」
泣きたくなんかなかった。でも止まらなかった。涙が出て、両手でこすってもこすっても止まらないんだ。情けないな。こんなに弱かったっけ、俺。
「もう聞きたくないよ」
鼻水が出てきて、すすった。行儀悪いけど、二人はそんな事、気にするタイプじゃないもん。思いっきり音を立ててすすった。
「俺の勝手なんだから、メルディが嫌ならそれでいい」
俺はそう言って、ベンを見上げた。
「取引して、俺、死にたくない」
でも俺のぐちゃぐちゃの腕を、メルディが掴んで引っ張った。屋根から落ちそうになったけど、温かい両手がしっかり俺を支えてくれる。
顔を上げたら、メルディが顔を寄せてきた。
口唇がくっつく。
一気に息も出来ないほど、胸が苦しくなって、泣きたくないのに涙がどばっと出て止まらない。痛いのに、苦しいのに、メルディは放してくれない。重い体に腹が立つ。嫌だ。俺、これ好きじゃないよ。怖い。
口唇が離れても、メルディは俺の額に額をくっつけたまま、放してくれなかった。
ジャスティスなんか比じゃないくらい、情けない面して泣いてると思う。鼻水だらだらだし、顔はぐちゃぐちゃだし、おまけに自力で座ってもいられないんだから。
でもメルディはいつもと同じ、温かい手で何度も何度も、俺の頭を撫でてくれる、支えてくれる腕がやさしい。一緒にいたい。どんなに苦しくなってもいい。もっとずっと一緒に生きたい。もう死にたくなんかない。
メルディは呟いた。
「死なせたくない」
かすれた声だった。メルディは屋根に座ると、俺の腕を引っ張ってぎゅっとする。
メルディの涙が、雨みたいに降ってくる。
「ベンなんかに渡したくない」
メルディは俺の耳元でそう囁いた。
うれしくて、苦しくて、もう何も分からない。でもこのまま、ずっとこうしていたい。
「あたいが死ぬまで、何百年か、ずっと一緒にいてくれるかい?」
俺は必死でうなづいた。
「あたいは不器用だから、きっとクライブを泣かせるよ?」
メルディは俺をのぞきこむ。
俺はそんなメルディを見上げた。
「気も短いし、バカだし、ガサツだし、きっとたくさん意地悪な事もする。それでも一緒にいてくれるかい?」
「絶対一緒にいる」
メルディは笑った。
「クライブの事、もらってもいいかい?」
「全部あげる、だから一緒にいて」
俺は目を閉じた。
メルディは何かぶつぶつと呟くと、俺の首に何かを下げて、またぎゅってした。
うれしい。温かい。でもちょっと苦しい。
同時に暗闇が辺りを包む。あの時の魔法とは違って、真っ暗になっていって、なんにも見えない。でも、メルディの体温を感じるんだ。怖くなんかなかった。やさしい手が頭を撫でてくれる。
「これで、本当にあたいのものだよ」
すごく眠くなって、俺は目を閉じた。
今は眠りたくなんかない。ちゃんと起きてたいのに。
最後にメルディが髪を撫でてくれたのを感じた。
目を覚ますと、隣りにメルディがいた。
体がすごく軽い。痛いところも全然ない。気分は最高で、メルディの体温が気持ちいい。今までこんなに元気だった事なんてあるかな? 多分ない。
俺は起き上がって、辺りを見回した。
宿の一番広い部屋のソファの上だ。ふかふかしてて、すごくいい。キラキラした小さなシャンデリアが辺りを照らしてて、疲れた顔のジャスティスがすぐそばの床に座り込んだまま眠っていた。
顔を上げると、レイチェルがいた。
「目が覚めたんだ」
レイチェルは笑った。
「気分悪くない? 痛いところは?」
「全然ない」
俺はそう答えて、ソファーから立ち上がった。裸足のままテーブルまで歩いて行く。全然フラフラしないんだ。いい気分。すごく高そうな黒いピカピカの丸いテーブル。椅子もふっかふかで座り心地最高。流石、滞在費が他の倍なだけはある。
俺はそこに座って、大きく伸びをした。
ベンも、あの人達もいないみたい。
もう朝だ。外は明るいのに、人間目覚ましのジャスティスが寝てるなんて、ちょっと面白い。でもそれだけいっぱい心配させたんだよな。心配してくれたんだ。
かごにりんごが入っていた。真っ赤で食べ頃って感じ。俺は赤より青のが好きなんだけど、ジャスティスはいつも赤いのを買ってくる。腹が減ってたから、あんまり気にしないでそれを一つ選んでかぶりつく。したたる果汁が甘い。
「ベンは? あの人達も」
俺はレイチェルに尋ねた。
「本当に大丈夫? おかゆ作ろうか?」
「なんともない。それより腹減ったんだ」
レイチェルがすごく深刻そうな顔をするから、俺は大丈夫だよと、立ち上がってもう一度言った。仕方がない。昨日の夜まで、死にかけてたんだから。
ベンはすぐに見つかった。部屋の出入り口のドアを開けて、にこやかにおはようと笑って入ってきたから。
「おはよう」
ベンが俺の顔をのぞきこむ。
「大丈夫そうだな。メルディ、ちゃんと魔法使えたみたいでよかったよかった」
レイチェルがベンを見た。
「どうして?」
「知らないで契約してんの? アイツ、運動以外全くの能無しで、魔法なんか落第してんだぞ」
「嘘でしょ? だって私、ちゃんと魔法使えてるよ」
「それ、絶対レイチェルの気のせい」
ベンとレイチェルが笑って、そんな事を話した。すごく楽しそうなんだけど、全然話に入れないや。
「らくだいって何?」
俺はベンに尋ねた。
「そりゃあれだ、要するにアホって事だ」
「魔法って才能の問題じゃないの?」
レイチェルがベンに言った。
「そりゃそうだけど、メルディの兄貴なんか超優秀で有名なのに、メルディにはやる気がないって有名でな」
ベンは笑って、まだ眠ってるメルディを見た。
一人なら広いけど、どう考えたって寝るなら一人でしょって感じのサイズだよね。あのソファー。赤くてベルベットの生地が気持ちいいんだ。あんなところで二人で眠ってたんだと思ったら、あんだかちょっと恥ずかしい。俺、メルディにくっついて眠ってたんだって絶対、みんな知ってるもん。
俺は気にしない事にして、ベンに尋ねた。
「ゆうしゅうって何?」
「めっちゃスゲェんだよ」
ベンはこっちを見下ろす。
俺はリンゴをもう一口かじった。甘酸っぱくて美味しい。鼻に抜ける香りが、柔らかくて甘い。汁がすごくて、かじるたびにあふれてくる。
「メルディのお兄ちゃんってどんな人?」
俺はまたベンに尋ねた。
「知らねぇな。レイチェルは会った事あるか?」
「私もないなぁ。なんか、大喧嘩して家出してきたって聞いたけど」
「あの悪魔とは思えないお兄さん怒らすって、一体何したんだろ」
ベンは呟いた。
俺はリンゴをまたかじって、それから二人に尋ねた。
「俺、本当にメルディと取引したんだよね?」
ベンがにっこりと笑った。
「よかったな、死ぬまで一緒だぞ」
「それってどれくらい?」
「う~ん。悪魔の平均寿命って言ったら五百年くらいだからなぁ」
ベンは少し考えながら答える。やさしい手がわさわさと俺の髪を撫でた。ベンの手はちょっと冷たい。きっと外にいたんだ。どこに行ってたんだろう。
「もう、オレもメルディも百六十年は生きてるし、あと少なくとも三百年はある」
レイチェルがよかったねと、俺の肩を叩いた。ジャスティスはきっと、レイチェルのこんなところが好きになったんだろうな。すごくやさしい。
「メルディ、三百年ずっと一緒にいてくれると思う?」
俺は二人に尋ねた。
二人は真っ赤になって、思いっきり笑った。
「なんで笑うんだよ?」
レイチェルが俺の隣りの椅子に座った。
「ごめんね、素でそんな事、言えちゃうなんて、可愛くって」
「そうそう。ジャスティスだって言わないよな」
ベンはそう笑いながら、顔を手で扇ぐ。深呼吸して、真面目ないつもの顔に戻る。
「大丈夫、絶対ないって。もし捨てられたらオレが拾ってやるから」
「絶対?」
そしたらレイチェルが笑った。
「クライブが思ってるよりずっと、メルディはクライブが大好きなんだよ?」
「なんで分かるの?」
「好きじゃなきゃ、一生一緒にいるなんて取引しないよ」
そしてレイチェルはやさしい顔をして、少し楽しそうに微笑んだ。
「心配しなくたって、メルディはクライブの事、捨てたりする人じゃないよ」
「お前のが、先に嫌になりそうだけど」
「それはあり得るね」
二人して、メルディの悪口言ってるけど、大丈夫かな? やさしいと思ってるのって俺だけ?
「クライブこそ、メルディでいいの?」
レイチェルは俺に言った。そんなの、答えなんて決まってるのに。
「メルディがいい」
俺はそう答えた。
二人はまた真っ赤になって笑った。
「オレはクライブが心配だな。いじめられたら言えよ?」
「私も心配」
どんなに信用ないんだよって思いながら、俺は二人に笑われた。途中からリンゴの味がしなくなったのは絶対二人のせい。でもいっぱい心配させたから、今は黙ってる事にした。
俺は芯だけになったリンゴをぽいっとゴミ箱に入れると、洗面所で手を洗った。
鏡に映る俺はいつもとなんにも変わらない。真っ白な髪の毛、青い目、腹が立ってくるほどジャスティスにそっくりな顔。でも気付いたらピアスが全部なくなっていた。穴も残ってないみたいだ。それに腕と腹の傷も、きれいになくなってる。やっとババアから解放された気がして、すごくうれしかった。
逆に知らないのは首に吊るした銀色のチェーンの四角い飾りのペンダント。何か書いてるみたいなんだけど、読めないや。裏はもっとぎっしり文字が並んでる。
俺はテーブルのところまで戻って、二人に尋ねようとした。でも、声を出す前に突進してきたジャスティスにタックルされて、思い切り床に倒れた。痛い。ジャスティスってこんな猪みたいに突っ込んでくるやつだったっけ?
「よかった、生きてる」
ジャスティスはそう呟いて、涙をぬぐった。泣き腫らした真っ赤な顔を、ぐっちゃぐちゃにして、俺の事をぎゅってする。
「クライブが生きててよかった」
いつもだったら引っぺがすところだけど、今日は黙ってジャスティスの肩にもたれた。温かくて、思ってたよりずっと大きい。こんなにしっかりしてたんだなって思ったら、少し悔しいけど。
「もう心配させないでね」
ジャスティスはそう言って、俺を放してくれた。ついでに酷い有様の顔を両手でごしごし拭う。それでも顔は大惨事だったけど。
「悪かったよ」
「元気そうで安心した」
レイチェルが俺を立たせてくれたけど、ジャスティスのが重症っぽいんだよな。出来れば関わりたくないくらい、ぐずぐず泣いてるし。
「ホント、もうあんなのはごめんだよ」
俺の大好きな声が言った。
俺は真っ直ぐ歩いて行って、そしてメルディにしがみついた。
ジャスティスがペンダントの文字はメルディの名前だって教えてくれた。メルディって書いてるらしいけど、俺にはよく分からない。なんかずらずら並んでる。
ベンが言うには、犬の首輪と一緒なんだって。
メルディはそれが気に入らないらしい。ペットみたいだからって、ペンダントを隠すように言う。だけどちょっと離れてる時も、一人でピアノを弾いてる時も、なんだかメルディが一緒にいてくれるみたいで、おれはこれがすごく好きなんだ。
なのにベンも真っ赤なスカーフを買ってきて、メルディと一緒になって隠すようにつけてろなんて言う。本当は出してたいけど、メルディの言う事、ちゃんと聞かなくちゃいけないってベンに言われたから、寝る時以外はちゃんとスカーフを巻いてる。
最近はジャスティスと一緒に走るようにしてるんだけど、昔は半キロも走ったら、翌日寝込んでたのに、今は何キロ走ったって平気なんだ。ジャスティスは太ったとか言って、一日一キロって決めてるけど、先にへばるんだ。俺、アイツより先に倒れてたのに。
それに昔は長い事、外にいたら真っ赤に日焼けしたのに、今はしない。真っ白のまま。
この間レイチェルに馬車の操り方を教えてもらってから、よく外に座ってるけど平気。でも喉は乾くから、ちゃんと水は飲むようにしてる。腹も減るからいっぱい食べる。
魔物も何故か俺を狙わなくなった。むしろ、剣を持っていると、狩人だと思われて逃げていく。それに剣が軽くなったみたいで、強くなった気がするんだ。でも俺が戦おうとするとメルディが怒るから、あんまり前には出ないようにしてる。
ジャスティスは相変わらず、ちょくちょく狙われる。
毎日がすごく楽しい。
こんなに世界は色があって、音がたくさんあふれてて、人、魔物、動物がいるなんて知らなかった。ピアノの音色も少しずつピアノによって違うし、森も山も花も、すごくきれいなんだ。
ベンがくれたスカーフだって、はじめは血の色みたいだって思ってたけど、真っ赤に辺りを染める夕日の色の方に似てる。
夜はメルディと一緒に星を見て、昼は並んで昼寝する。朝は寝坊して、メルディに起こしてもらうのが好きだ。ジャスティスみたいに布団を引っぺがしたりしないから。
冬が来ても、もう寒くなんかないんだ。
メルディと一緒にいたら、全然寒くない。暖かかくて、まるで春みたい。
それに風邪もひかなくなった。あんなにしょっちゅう寝込んでたのに、今はどんなに動いても、どんなに薄着しても、なんともないんだ。面白いくらい。
今日は初雪が降っている。
海沿いの町の宿に泊まることになった。ここからは海が見えないけど、すごく安くて、きれいな部屋なんだ。雪の間はここに留まる事になるかもって、みんなが言ってた。この辺りは雪が降ると馬車なんて使い物にならないから。それにこの町には魔物狩人がたくさん住んでるみたいで、すごく安全だってベンが言ってた。
ジャスティスは寒い寒いと言いながら、もっこもこに着こんでる。何着、着こんでるんだろ。いつもの倍くらいは大きく見える。
俺は全然平気で、ジャスティスにもらった黒のローブに、襟のあるシャツと薄手のセーターとズボンだけなのに。あとスカーフ。
窓を開けて、雪を見てたらジャスティスにすごく怒られた。寒いから外行けって。そんなに怒らなくてもいいのに。でもみんな着こんでるし、多分寒くないのは俺だけなんだと思う。
俺はベッドでゴロゴロしてるメルディのところまで行った。
ベンに言われたんだ。どこかに行く時はちゃんとメルディに聞かなくちゃいけないんだって。あと、嫌っていうのも良くないって。嘘もついちゃダメだし、メルディに言われたらどんな事でもやらなくちゃいけない。
開けっ放しのドアから入って、俺はベッドの前にしゃがんだ。
メルディはすっぽり布団をかぶっている。頭も出てない。
「メルディ、外に行ってもいい?」
「好きにしなよ」
なんかかなしい。ちゃんと顔を出してくれたっていいのに。こんなもっこりしただけの布団に話しかけたってちっともうれしくない。
でもいいんだ。メルディは約束通り、一緒にいてくれるんだから。俺、それ以上はほしいって思っても、言わないって決めたんだ。本当はもっと話したいけど、いいんだ。
俺は部屋を出ようと思って、立ち上がった。
右腕を引っ張られる。
「待ちな」
メルディがパジャマのまま、ぼっさぼさの頭を出していた。
「座って」
メルディは真面目な顔をしていた。
俺、スカーフちゃんとしてるのに、なんかしたかな? 話しかけてほしくなかったのかな?
大人しくベッドに座って、メルディを見る。ベッドはメルディの体温で温かかった。
「言いたい事があるなら言いな」
メルディはそう言って、俺の頬を撫でる。
あれからメルディは、頭を撫でる代わりにほっぺた撫でるんだ。嫌じゃないけど、くすぐったい。それにちょっとかなしい。本当はいつもみたいに髪を撫でてほしい。でも平気。こんなのなんでもない。一生一緒にいるんだから。
「ないよ、大丈夫」
俺はメルディに言った。
メルディは俺の腕を引っ張り、ぎゅっとする。
真っ白な布団で前が見えなくなる。でも温かくて、メルディの匂いがする。
これでもだいぶ慣れたと思うんだ。前は突然されたら、泣いちゃったんだ。平気だって分かってるのに、怖くなんかないのに、涙が止まらなくなった。結局、朝までメルディにしがみついて泣いた。
でも今はもう平気だ。ちょっと胸が苦しくなるけど、目を閉じて、メルディの体温を感じたらしあわせだって思うから。
「何を隠してるんだい?」
俺は顔を上げた。
メルディが俺を見ていた。
ゆっくり顔を近づけてきたから、またあれだって気付いた。
最近メルディはよくこれをする。俺は左手を後ろについて、ぎゅっと目を閉じた。少し怖い。でも平気。一瞬だから。苦しいけど、メルディがしてくれるんだもん。してくれなくなったら嫌だ。そんなのかなしい。
口唇に口唇が触れると、いつだって苦しくなる。締め付けられてるみたいに、苦しくて、息が出来なくなるんだ。そして頭が真っ白になる。触れてる口唇がしびれて、力が抜ける。それが少し怖い。
いつもだったらすぐ放してくれるのに、今日は放してくれなかった。冷たいぬるっとしたのが口に入ってきて、メルディはがっちり俺の頭を押さえる。掴んだ右腕も放してくれない。そもそも力が入らなくて、なんにも出来ない。
分かんない、怖い。すごく怖いけど、メルディは酷い事なんてしないから、じっとしてなくちゃ。きっとこれもやさしい事なんだもん。逃げちゃダメなんだって、自分に言い聞かせる。嫌じゃないもん、嫌じゃない。
でも気付いたら、また泣いてた。
ちゅって音がして、口唇が離れた。
大きく息を吸って、俺は涙を拭った。
「平気、大丈夫」
俺はそう言ったけど、メルディは俺の手を放さなかった。
「平気ならなんで泣くの?」
メルディはそう言って、俺の事をぎゅっとする。
「嫌なら嫌って言いなよ。どうしちゃったんだい?」
顔を上げると、メルディが俺をのぞきこんでいた。頬をぬぐってくれる。
温かい体温、肩。大好きなのに、どうしていつもこんなに苦しくて、痛いんだろう。
本当はメルディだって、もっともっとしたい事がある筈なのに。メルディにも、うれしいって思ってほしい。好きって思ってほしい。メルディの特別な好きでいたいのに。
この前見ちゃったけど、レイチェルとジャスティスはもっとなんかぐちゃぐちゃやってた。一瞬だったけど、二人して、べったりくっついてやってたの見た。俺、ジャスティス以下? そう思ったら、なんか悔しい。
「ベンに何か言われたのかい?」
メルディはそう言って、俺の頬をまたゆっくり撫でた。顔が少し近づいてくる。
またされたらどうしよう。涙、止まらないのに。
「クライブは、これ嫌いかい?」
メルディが言った。
怒ってなんかない。いつも通り、やさしくて温かい、メルディの声。怖くなんかない。
俺は深呼吸してから、涙をもう一度拭って、メルディを見つめた。
嘘ついちゃダメなんだから、ちゃんと答えなくちゃ。でも、メルディが俺を嫌いになるんじゃないかって思ったら怖い。でもメルディは答えなかったら、きっともっと嫌いになる。
「怖い。分かんないから、怖い」
俺は答えた。
メルディは笑った。
「なんだ、嫌われたかと思った」
「どうして?」
「泣くから。そんなに嫌なのかと思って」
メルディはそう笑った。ほっとした顔をして、俺の手を放した。
「俺、メルディがうれしいなら平気」
メルディを見上げて、その手を今度は俺が掴まえる。白くて細い手首が温かい。いつもメルディがするみたいにゆっくり引っ張るんだ。
「メルディにも、うれしくなってほしい」
メルディが真っ赤になった。俺、また失敗したのかな?
「あたいはクライブに無理してほしくない」
「無理なんてしてない」
「ならどうして泣くの?」
メルディはそう囁く。
「時間なら飽きるほどあるんだよ。ゆっくりでいい。怖いって思ったならちゃんと言いな」
「いいの?」
「いいよ。ゆっくり覚えればいいよ」
メルディは俺の頬を撫でて、にっこりと笑った。その笑顔にほっとして、涙がまた出て、俺は両手で目をこする。
「でもせめてキスくらいは覚えてほしいかな」
「それ、何?」
メルディが俺の頬に口唇をくっつける。
温かくて、じんとする。うれしい。これは嫌じゃない。
「今したよ」
メルディは少し楽しそうに言う。
「キスは好きだから、口唇をつけるんだよ」
「でもさっき、もっと他の事した」
「あれは忘れて」
メルディはくすっと笑った。
「またそのうちね」
なんか悔しい。やっぱり俺、ジャスティス以下だ。まだぎゅってしてくれるやつもなんて言うのか教えてもらえない。でもいい。メルディが好きでいてくれるんだったら。
その日はピアノを一回、弾いたらびっくりするほどチップを貰った。
ジャスティスがこれでとうぶん大丈夫って言ってたから、きっとすごい額なんだろうな。だっていつもよりジャスティスがくれるお小遣いが多かったから。
ビンがいっぱいになった。これだけあったら、きっとメルディに何かプレゼント買える。
でも秘密にしておきたかったから、遊びに行くってだけ言って、こっそりベンと宿を出たんだ。ベンもそれくらいならって、メルディには内緒にしてくれた。
俺はベンにスカーフ外すなって言われながら、雪で滑る町を歩いた。どこも凍り付いてツルツル滑る。まるで凍った池みたいに、スケートが出来そうだ。
町は雪で真っ白だけど、たくさん店があった。どこも見た事がないようなものをたくさん売ってる。村じゃ見た事がなかったけど、いろんな色のドレスや、大粒の宝石、変わった色した魚とか、名前も分からない野菜だか果物だか分からないものとか。なんだって売ってる。
「何がいいと思う?」
俺はベンに尋ねた。
「クライブは何がほしい?」
「何もいらないよ」
俺はそう答えた。
ベンが笑う。
「まず財布買えよ。いつまでビンを持って歩くつもりだよ」
「使えるし、いらないよ」
「じゃあいっそ結婚指輪でも買えば?」
「なにそれ?」
「知らねえの? 結婚する時、プレゼントするやつだよ」
ベンはそう言って俺を見る。
「結婚は知ってるよな?」
「知ってる」
「よかった」
ベンはそう呟いて、近くの屋台で立ち止まった。袋とかかごとか、カバンを売ってるお店だ。黒くて柄のない少し小さめのきんちゃく袋を手に取って、これいくらって聞く。
「いいでしょ、それ」
店主のお姉さんが笑った。
「コイツ財布持ってないんだよ、安くしてやって」
「じゃあ特別だよ、銀貨三枚」
「よし、それ貸せ」
ベンは俺の手からビンを取ると、銀色のコインを三つ出してお姉さんに渡す。
「まさか、それ財布?」
「そう」
ベンは笑って答えると、じゃーっとビンのコインをきんちゃくに流しいれて、最後にお札を畳んで入れた。そしてビンと交換にきんちゃくを返してくる。
「よし、これでポケットに入る財布が手に入った」
「ビンでいいのに」
「よくない」
ベンに言われて、俺は大人しくきんちゃくをズボンのポケットに入れた。確かに両手が開いて、こっちのが楽かも。でもあのビン、気に入ってたのにな。
ベンはさっさと歩いてく。雪には慣れてるみたい。
俺はそもそも出歩かないし、木登りは得意だけど、スケートは苦手だ。追いかけたら、滑ってこけた。正直恥ずかしいし、痛い。
「おい、大丈夫か?」
ベンはそう言って手を貸してくれた。
「なんで急にプレゼントなんて言い出したんだよ?」
「だって、メルディがペンダントくれたから」
「それ、首輪」
ベンは俺に冷たく言った。
「なんでもいいんだ。メルディのものって感じするから。それにずっとつけてられるよ」
「ふ~ん、物好きだな。でもペンダントならサイズいらねぇし、ありだな」
「じゃあペンダントにする」
ベンは不思議そうな顔をした。
「なんでオレなの? そういうのは女の子に選んでもらえよ」
「多分、メルディは女物より、男物の方が喜ぶと思って」
「それは言えてる」
ベンはうなづくと、近くのペンダントをたくさんいてる店をのぞいた。セールしてるみたい。赤い文字だから多分そうだ。
「セール?」
「お前、読めないんじゃなかったの?」
「セールはジャスティスに連れ回されるから、なんとなく分かるんだ」
俺は真っ直ぐ店まで行って、少し悩んだ。
メルディ、服は女の子っぽいけど、あれ、レイチェルに言われて着てるだけみたいなんだ。はしたないとかなんとか言われたんだって。パジャマが一番楽って言い張ってたし、メルディの服が入ってるカバンってどう見たって男物だし、ドクロのステッカー貼ってあるもん。多分、本当はああいう趣味なんだと思う。
ベンが一番ごっついペンダントを指さした。
ドクロで王冠のってて、十字架ついてる。ごってごてなやつ。チェーンなんか、大きいムカデみたいに太い。
「こういうのだろ」
「悪魔って十字架いいの?」
「そんなん迷信だぞ。十字架ダメなら、窓枠もダメになっちゃうだろ」
意外。いいんだ。悪魔って意外と自由なのかもしれない。
俺の好みのは、シンプルだけど、あんまりないデザイン。メルディがくれたペンダントみたいなの。でもきっともっとごってごてのがいいんだろうな。難しい。飾ってあるペンダントはどれもおしゃれだ。一つなんて選べない。
でも赤い小さなリンゴのついた細長いシンプルだけど、大きめのペンダントが不思議と目についた。かなりいかつい太くて長いチェーンがついてる。
俺はベンに尋ねた。
「これは?」
「シンプルすぎんじゃね?」
「文字、入れられますよ」
店のお兄さんが言った。
「いいじゃん。ごってごてに入れて貰えよ」
「え? 例えば?」
「この人は俺のなので、触らないでくださいとか?」
ベンに聞いた俺がバカだった。
俺は少し考えた。名前、入っててうれしかったから、入れて貰おう。でもちょっと恥ずかしいな。それにそれじゃシンプルすぎる。
「名前、入れたら変?」
「お前の? いいじゃん」
「シンプルすぎる?」
そしたら、店のお兄さんが言った。
「なら、お客さんのお名前と彼女のお名前、日付、ずっと好きですって入れましょうか?」
「おお、流石」
ベンがにっこりした。
「クライブの綴りって、Lでいいのか?」
「分かんない。でも書けるよ」
俺はお店のお兄さんにペンを借りて、メモに自分の名前を書いた。ベンがそれを見て、変わってるなと言った。普通はこうじゃないって。自分の名前がどうかなんて、気になった事もなかった。
「お金、足りる?」
「半分以上余るぞ」
ベンはそう言って、俺の頭を撫でた。
「プレゼントっぽく包んでやってよ」
「いいですね、じゃあカードもお入れしましょうか?」
「お、いいね」
ベンが俺を見下ろす。
「よし、書け」
「ベンが書いて。俺、書けない」
「じゃあなんて書く?」
ベンはペンを握ると、花柄のカードを受け取る。ついでに箱の色と袋も聞かれた。分からないから赤にした。なんとなく。
「普通はなんて書くの?」
「う~ん、いつもありがとうとか?」
「じゃあペンダント、うれしかったも書いて」
「首輪な」
ベンはそう言いながら、きっちりした字でカードを埋めた。それから俺にペンを渡すと言った。
「名前、書けるんだろ?」
「うん」
俺はそこにゆっくり名前を書いた。
覚えてよかった。役に立った。ジャスティスに感謝。
「どう? 読める?」
「読める読める」
ベンはニコニコして、うなづいた。
うれしくて、俺もきっと笑ってたと思う。胸が少し苦しかったもん。メルディ、うれしいかな? 笑ってくれるかな?
カードをきれいな箱に入れると、お兄さんがゴテゴテといっぱい文字を彫ったペンダントを飾るように入れてくれた。そして箱に真っ赤なリボンを結ぶ。
俺、ちゃんとしたプレゼントってした事がないから分からないけど、きっと喜んでくれるよね。そもそもあの村に、こんなおしゃれな包み方をしてくれる店なんてなかった。まるで大きなバラの花みたいだ。
ベンがいいじゃんと笑いながら、俺の肩を叩いた。
お兄さんはニコニコしながら、俺を見る。
「喜んでもらえるといいですね」
「ありがとう」
俺はそうお礼を言うと、言われた金額が分からないから、ベンにきんちゃくを渡した。
「そんなにまけてくれんの?」
「せっかくだから応援したくなっちゃって」
お兄さんはベンからお金を受け取って、箱を紙袋に入れて渡してくれた。やさしい声で頑張ってと言ってくれるのがうれしかった。
確かにベンが言った通り。俺の持ってたお金、ほとんど残ってる。そんなに高くなかったみたいだ。
ベンと二人でもう一度お礼を言ってから店を出ると、レイチェルがメルディと歩いていた。少し後ろでずっこけてるのは多分ジャスティスだ。流石、俺の弟。
ベンが言った。
「それは二人きりの時に渡せよ」
「どうして?」
「その方がロマンチックだろ?」
「ろまんちっくって?」
「う~ん、なんだろうなぁ」
ベンは少し悩んでから、二人がこっちに気付く前に言った。
「とにかくメルディは喜ぶ」
俺は分かったとうなづいて、紙袋を抱えて持った。今はベンが選んでくれた財布の方を話したかったから。今日はいっぱい話せそうだもん。
メルディは俺の名前を呼んで、立ち止まった。
「何してんだい?」
「買い物! お財布買ったんだ」
俺はそう言ってから、まだベンがきんちゃくを持ったままだった事を思い出した。でもベンは俺より先に気付いて、メルディにきんちゃく袋を見せつけた。
「いいだろ? 飽きのこないシンプルデザイン!」
「いいねぇ、やっとビンから卒業かい?」
「カッコいい? どう?」
「いいと思う。ビンはなかなか間抜けだったしね」
間抜けだった? なんかちょっとショックだ。あれはあれで気に入ってたのに。
ジャスティスがいいのを見つけたねと褒めてくれた。そりゃお前は革の分厚い財布持ってるもんなと言いたくなったけど、今は気分がいいから言わなかった。
「三人で買い出しか?」
「今日はすごい稼いでくれたからね」
レイチェルはそう笑って、俺を見る。
「クライブがいなかったから、こんなにいい旅は出来なかったよ」
「オレがケーキ作って、売るよ」
「それで、こんなに稼げるとは思えないんだけど」
レイチェルはジャスティスに冷たくそう言うと、俺の頭を撫でた。
「クライブのおかげだよ。ありがとう」
「いいんだ。俺だって楽しいから」
俺はそう答えると、ベンに引っ張られて戻ると三人に言った。それからベンと一緒に宿に向かって歩いた。
ベンは少し歩いてから俺に言った。
「お前、もうちょっと気をつけろよ」
「何を?」
ベンは小さくため息をつく。
「言っちまえばメルディはご主人様なんだから、本当はきちんと敬語で話さなきゃいけないんだぞ」
「ご主人様?」
「そう。メルディの言う事はちゃんと聞いて、嫌とか言うなよ?」
「でもメルディはいいって言ってたよ」
「それでも。そのうち捨てられちまうかもしれねぇぞ」
ベンは俺の背中を軽く叩いた。
なんだか、怖かった。捨てられちゃうんじゃないかって思ったら、すごくかなしかったから。誰にもメルディの本心なんて分からないもん。もしかしたら俺に飽きちゃうかもしれない。
「まあ大丈夫だろうけど、先は長いんだからな」
ベンの言葉はやさしかったけど、でも俺は怖かった。
夕方、メルディが帰ってくるまで、俺は自分のベッドルームでゴロゴロしていた。ランタンを置く、サイドテーブルに置いた紙袋を見ているだけで、なんだかしあわせな気がした。
でも昼にベンに言われた事を考えてたら、もやもやした。
メルディはご主人様で、俺の持ち主なんだもん。
そういう取引をしたのは俺だ。
あの時も、今も、後悔なんてしてない。メルディと一緒に生きたいって気持ちは変わってない。きっとこれからだって変わらない。
でも、メルディは?
俺なんかいらなくなる日が来るかもしれない。いらなくなって、捨てられたって、あの時はいいって思ったんだ。だって、苦しい思いするのには慣れてるから。
あの手が、あのやさしい人が、俺を必要としなくなったら、俺はどうしたらいいんだろう。どこに行けばいい? 居場所なんてあるのかな?
ベンが言う通り、ちゃんと言う事を聞いて、メルディの望む存在でずっといたい。いつになるんだか分からないけど、死ぬ瞬間まで、一緒に生きたい。
ジャスティス達が言うように、俺がいくら今のまま一緒にいたいだけでも、そんなのきっと叶わない。メルディは俺なんかよりずっといろんな事を知ってるから、きっと特別な好きじゃなくちゃ、ずっと一緒にはいられないんだ。
俺にはまだ、その特別な好きってよく分からないけど、そうありたい。そのためだったら、きっとなんだって出来る。俺に出来る事なんて、ピアノを弾く事くらいだけど。
メルディはプレゼント、喜んでくれるかな? 特別な好きでいてくれるかな? そもそも、俺の事、好きだよね?
一人だったらなんだかいろんな事を考えちゃって、不安になる。
メルディに会うのが怖いな。
思い切って、ベッドから出ようと起き上がった時だった。
ノックもしないで堂々とドアを開けるメルディが、ただいまと笑っていた。レイチェルがしょっちゅう悲鳴を上げるだけはある。俺でもちゃんとノックくらいするのに。
「おかえり」
俺はメルディにそう声をかけると、ベッドにちゃんと座った。大人しくしてなくちゃ、嫌われるかもしれない。そんなの嫌だ。
メルディはいつも通り、ドカッとベッドに腰を下ろす。俺の隣りに座って、それから俺の頬に手を伸ばす。温かいその手がくすぐったいけど、うれしい。
俺は思い出して、紙袋を掴むと、メルディに渡した。何か言わなくちゃと思ったんだけど、なんにも出て来なかった。情けないけど、本当に何を言っていいんだか分からなくて。
なのにメルディはなんだいって、いつも通りやさしい。紙袋を広げて、中の箱を取り出して、俺を見下ろす。
「どうしたんだい?」
「プレゼント」
「なんで?」
俺は首のペンダントをぎゅっと握って、ゆっくり答えた。
「これ、くれたから」
メルディはニコニコしながら、俺の髪を撫でる。
「ありがとう。うれしい」
顔を上げると、メルディは真っ赤な顔をしていて、すごくうれしそうに笑っていた。白い手が箱を開けて、一層明るく笑うんだ。その顔を見られて、すごくうれしかった。
俺はメルディに尋ねた。
「つけてくれる?」
「もちろん」
メルディはにっこり笑って、ペンダントを首から吊るした。やっぱりメルディに良く似合う。
「字、書けないんじゃなかった?」
「ベンについてきてもらった」
俺はメルディを見上げた。
メルディはペンダントを眺めてる。ちょっとチェーン長かったかな? でもメルディはこれくらい、いかついやつのが似合う。
「クライブはそんな首輪でいいのかい?」
「首輪でもいいんだ。すごく気に入ってるから」
「あたいとしてはあんまり、見せたくないんだけどね」
「どうして?」
「だって、ペットみたいじゃん」
メルディはちょっと寂しそうにそう答えると、俺の肩をぎゅっと引き寄せる。何度か肩を撫でてくれるやさしい手が好きだ。恥ずかしいから言えないけど。
「でもメルディのものって印なんだったらいいよ」
「いろいろ意味が違うけど、クライブがいいならいいよ」
メルディは俺の顔をのぞきこんで、また口唇を寄せてくる。
怖くないなんて言ったら嘘になる。
どうしてたらいいのか分からないし、メルディは意地悪だから、なんにも教えてくれない。それに嫌って言って、嫌われたら? そんなの絶対に嫌だ。そっちのがずっと怖い。
俺はぎゅっと目を閉じて、ペンダントを握りしめた。
やっぱり少し怖い。それに苦しい。でも口唇から伝わってくる体温はやさしいんだ。変な感じ。ふわふわする。ぼんやりしてたら、メルディが笑っていた。
「キスはもう少しかかりそうだね」
俺はメルディの肩にもたれた。
「もっと頑張る」
出来る気は全然しないけど。
俺はレイチェルと雪だるまを作った。
ジャスティスは出て来ないし、メルディも寒いって言うし、ベンもそんな子どもっぽい事、したくないって言うんだ。みんなして酷い。
レイチェルだけ自分より大きい雪だるま作るって言ったら、やりたいって一緒に出てきてくれた。
胴体に石をくっつけてるレイチェルは楽しそうだ。
頭を転がしてる俺は、息も切れてるって言うのに。
重い。雪ってこんなに重かったっけ? ランニングの数倍しんどい。
俺は一旦雪玉を放り出して、レイチェルに尋ねた。
「レイチェルは苦しくならないの?」
「いつ?」
レイチェルは真っ白なもこもこのローブを引きずって、こっちまで来た。
「きすする時」
「熱あるんじゃない? 大丈夫?」
レイチェルは真顔で言った。
「怖いんだ。苦しいし」
「怖いの?」
レイチェルはやさしい声で言った。
俺の隣りに座って、俺の肩を叩く。
「レイチェルは平気なの?」
「そりゃ、私だって苦しいよ。でも怖くはないよ。だってジャスティスが怖い事なんてしないでしょ?」
「じゃあどうやって息するの?」
レイチェルは頭をかしげて、う~んと唸りながら、空を仰いだ。
雪がまだちらついてる。どんよりした空だけど、雪はきれいだ。
「クライブは本当にメルディが怖いの?」
「怖くない」
レイチェルはやさしい笑顔で答えた。
「苦しいのは好きだからだよ。好きだからなるんだよ。何回かしたら、怖くなんかなくなるよ」
レイチェルはにっこりする。
俺は真っ白な地面を見つめる。
「でももう三回もしたのに、まだ怖いよ。メルディに我慢してほしくないのに」
俺はレイチェルにそう言って、少し顔を上げた。レイチェルは真剣な顔をしていた。
「それは可愛い悩みだね」
レイチェルは頭をかしげたまま、静かに目を閉じた。
「とりあえず、目を閉じてじっとしてればいいよ。苦しい時は、こんなに好きなんだって思ったら辛くないと思う」
「つらいって、苦しいって事?」
「そう、苦しくてしんどい事だよ」
レイチェルは地面に指で魔法陣を描くと、呪文を唱える。
あんなに重かったのに、雪玉はふわっと浮き上がって、胴の上に乗る。魔法ってすごい。
ひょいっと立ち上がると、レイチェルは楽しそうに言った。
「その苦しいのも、痛いのも、全部ひっくるめてキスなんだよ」
全然分からないんだけど、レイチェルはこっちを見て、にっこりする。
「クライブもメルディもお互いが好きで、幸せなんだよ? メルディがもし、クライブ以外の人を好きになったら悲しいでしょ?」
もしそんな事になったら、俺はちゃんとメルディを送り出せるかな? しあわせになってほしいから、メルディの好きな人が俺じゃなくなったら、そばにいられなくなったら、きっと息も出来なくなる。かなしくて何日も泣くだろうな。
考えただけで、胸がぎゅっと痛くなった。
「口唇にするキスは、愛してるからするんだよ。メルディにそれだけ好いてもらってるんだから、泣いてもいいじゃない。その代わり、うれしいって気持ちは伝えなくちゃだめだよ」
レイチェルはそう笑った。
まだよく分からないけど、でも今度はきっと、ちゃんと伝えようって思った。
夜、ちゃんと自分のベッドルームがあるんだけど、俺はメルディの部屋のベッドに行った。ダブルベッドで広いし、よく一緒にここで寝る。ドアは開けたまま、ベッドに横になってたら、すごく眠かった。
本当はもっと一緒にいたかったんだ。
メルディの事を考えたら、なんだかかなしくなったんだ。
俺の事、あいしてるって思ってきすしてくれたのに、俺、思いっきり泣いたし。今度はちゃんとうれしいって言わなくちゃって、思ったんだ。苦しくても、メルディの特別な好きのままでいたい。俺だって好きなんだよって伝えたい。
一緒にいてくれるだけでよかったのに、俺、すごく欲張りになったみたいだ。
でも思ったより疲れてたみたいで、お風呂上がりのメルディが戻ってくる前に、だんだんぼんやりしてきて、気付いたら寝てた。メルディの手が俺に布団をかけてる時にやっと目が覚めた。それでもぼんやりしてて、すぐには起きられなかった。
俺はすぐ隣りのメルディに手を伸ばした。
「メルディ」
メルディはこっちを見ると、ヘアブラシを置いて、ゆっくりベッドまで来た。さらさらの髪をそのままでのぞきこんでくるから、髪が頬を撫でるんだ。ちょっとくすぐったい。
「どうかした?」
「きすして」
俺は言った。
メルディは少しうれしそうに笑うと、頭の横に手をついた。
レイチェルは目を閉じてたらいいって言ったっけ? 怖くないのに、心臓がバクバクして苦しい。逃げたくなる自分が本当に嫌になる。ぎゅっと目を閉じて、俺はじっとしていた。
でもなかなかきすしてくれない。
俺はゆっくり目を開けた。
メルディは一人で声を殺して笑ってた。酷い。真っ赤になって笑ってるんだもん。めちゃくちゃ苦しそうな顔してる。そこまで笑わなくたってよくない?
「え?」
「ごめんごめん。あんまり必死だから」
メルディはまだ笑っていて、ちょっと待ってとそっぽ向く。肩が震えてる。絶対まだ笑ってる。本当に酷い。やっぱりメルディは悪魔だ。
メルディは足を布団に入れて、俺の隣りに座る。ぽかぽかしてるのはきっとメルディが風呂上りだからだ。いつもはもっと冷たいもん。
そのままたっぷり五分は笑ってたけど、メルディは言った。
「そんなに無理しなくてもいいんだよ」
「無理してない」
「ちょっと力抜いたら?」
俺は目を閉じて、深呼吸をした。
力、いれてないよ。本当はちゃんと起きて待ってるつもりだったけど、寝ちゃうくらいには力、抜いてる。
もう一回、深呼吸しようとして口を開けたら、口を塞がれた。
目を開けたら、メルディだった。すごくうれしそうに笑ってる。
よかった。ほっとして、目を閉じた。しびれるように胸が痛むけど、メルディが笑ってくれるからうれしい。こんなのどうって事ない。体温が近くて、温かくてしあわせなんだ。
少ししたらメルディはゆっくり口唇を離した。目を開けたら、額にきすされた。
「悪魔」
「そうだよ、悪魔だもん」
メルディはそう笑うと、布団をかぶる。俺のすぐそばに入ってきて、隣りの枕に頭を乗せる。
俺はメルディの方を向いて、そのまま目を閉じた。なんかちょっとムカつくんだもん。もう寝よ。寝て忘れよう。
「クライブはそういうところが可愛い」
「かわいいって言われてもうれしくない」
メルディは笑った。そしてまた頬を撫でる。
目を開けたら、悪魔っぽく笑ってるメルディが俺を見ていた。
「クライブ、もう一回目を閉じて」
「もう寝る」
「一回だけ」
メルディはにこっと笑うと、俺の左手を握って壁側に向かって押すと、ひょいっと俺の上にまたがった。ぽかんとしてたら右手も掴まれた。これじゃ逃げられない。
「悪魔、ひとでなし」
「悪魔だもん。人間じゃないよ」
当たり前な事を言って、メルディはゆっくり顔を寄せてきた。
「レイチェルにいじめるなって言われたけど、何言ったの?」
「言いたくない」
「それ、煽ってるって分かってる?」
メルディはまたきすをした。今度は口唇に。
ゆっくり目を閉じたら、メルディの柔らかい口唇を感じて、ドキドキした。苦しくなるけど、少し慣れたのかもしれない。もう怖くなかった。
口唇が離れたら、俺は息を吸おうとして、口を開けた。でも、途中でまた塞がれる。今度はまた冷たい、ぬるってしたのが口に入ってくる。舌に巻き付いてくる。
苦しい。胸が痛い。怖い。
放してと逃げようとしたら、強く手を押さえつけられる。口唇も放してくれない。でも舌に巻き付いてきたのはそのまま、口の中をゆっくりなぞってく。息が出来なくて、頭が真っ白になってく。
すごく時間が経った気がしたけど、メルディが放してくれた時には、思い切り息を吸った。目を開けると、メルディは俺を見下ろして、満足そうに口唇を舐めていた。
「レイチェルに聞いた?」
涙をこらえて、俺は首を横に振った。
「嫌ならもうしない」
メルディはそう、耳元で言った。
平気な筈だったのに、涙は勝手に出てくる。どうして? きっと耳元で言うからだ。
「そんなの嫌だ」
メルディは俺を黙って見下ろしてくる。
なんて言えばいい? どうしたら伝わる? 好きなんだ。メルディが好き。
でもあんなの嫌だ。怖いのに、好きで苦しいんだ。伝えられないのが悔しい。
「きす、してほしい」
涙でもうメルディが見えない。
頬をぬるっとしたので撫でられて、びっくりしてたら、涙がぴたっと止まった。メルディが放してくれた左手で涙を拭ったら、メルディが笑ってるのが分かった。
「クライブは辛くないの?」
「どうして?」
「泣いてる」
「勝手に出るんだから、分からないよ」
メルディは俺の頭を撫でた。
「じゃあもっとしてもいい?」
深呼吸して、俺は目を閉じた。
「いいよ」
こんなにやさしくしてもらえる。こんなに大切にしてもらえる。
悪魔でも関係ない。ずっと一緒にいてくれるなら。
神様なんか絶対いない。
いたらやっぱり俺みたいな奴、作んないと思うんだ。こんなにかなしい思いをたくさんする必要なんてないだろ? 俺はやっぱり今でも、神様を恨んで生きている。
でも、もういいんだ。
だってこんなに、俺を好きでいてくれる悪魔がいるんだから。
俺は世界で一番、しあわせな奴だ。
Fine.