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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

自己像幻死

 五月半ばの水曜日。

「快晴、気温20度、湿度30%、過ごしやすい一日です」

 と朝の情報番組を聞きながら、私は会社に行く準備を終えようとしていた。最後の儀式、後ろ髪をお気に入りのアニエスベーのヘアゴムで括っている時、TV画面の左肩に映し出られる時刻を見て顔が引きつった。近所で起こった殺人事件のニュースが流れていて、私の名前「細川珠緒」が呼ばれたようで気になったけれど構わず電源を切り、アパートの二階の部屋から勢いよく飛び出す。朝の光は眩しい。一階に住む小笠原さんがアパートの前で立っていたので、とりあえず挨拶。

「おはようございます」

 小笠原さんは聞こえなかったのか、その棒立ちのままだった。「何かあったの?」と思ったけど、そんな事に構っている暇はない。さっきまで時間に余裕あったはずなのに、いつの間にかギリギリの時間になっていた。「遅刻は避けたい」そう思いながら、駆け足でJR美章園駅に向かった。


 朝八時過ぎ、地下鉄御堂筋線天王寺駅、梅田、千里中央駅方面ホーム。

 人、人、人。見渡す限り人。人が湧いていると言った表現がピッタリと当てはまる程の混雑ぶりだ。私はここに居るだけで疲労を覚える。地下鉄特有の強い風と反響音を伴いながら電車がホームに走り込んできて、耳に障る金属音をたてたブレーキが無理やり電車を停車させる。

 ここから戦争が始まる。電車を降りる人の群れと、電車に乗り込もうとする人たちの塊が、水彩絵の具を適当に混ぜ合わせて汚い色になるように、人の感情を失った顔をした集団、もっと詩的言えば顔を失ったような集団、それらが一体化し、ただの無秩序な混乱を引き起こす。そして残る結果は、人の汚いエゴばかり。

「うんざりするなぁ……」私は胸の中で呟いた。そして去年のクリスマスに貯金を叩いて買ったディオールのカバンを胸に抱え、電車の乗車口に向かった。既にここで押し合いへし合い状態。とにかく、電車に乗るには他人に遠慮なんてしていられない。前の男性には悪いとは思いながら、背中を押して強引に電車に乗り込み、他人の足許を気遣う余裕もないまま自分の足の置き場を確保した。どうやら今日は上手くいったみたいだ。失敗すると体の小さい私は宙に浮いて、電車が揺れる度にふらつき周りの人にぶつかって仕方がない。さすがにこの状況で文句は言ってこないけれど、誰の顔を見ても「勘弁してくれ」という文字が張り付いている。申し訳なく思うけれども、こればかりはどうしようもない。

 淀屋橋駅と梅田駅の区間、日本一混雑する最悪の区間を抜け梅田駅に到着する。私はこの駅で下車する。当然とは言えばと当然なのだが、JR大阪駅に隣接するこの梅田駅でもラッシュという混乱の洗礼を受ける。ここまでくると、通勤と言うより修行、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と願掛けした尼子三傑の呪いだと信じたくなるくらいだ。


 一仕事を終え、会社に辿り着く。本当に出社などと格好良いものでなく辿り着く、この表現がピタリと当てはまる。会社はIT関連の企業で開発業務の下請けをしている。納期厳守が命。最近、働き方改革などと言われているが、そんなものは暇な連中の戯言だ。納期までプログラムを完成させなければ、延滞料金は請求されるわ、次の仕事は無いわ、業界に悪評は立つわ、まさに死活問題なのである。

 PCに電源を入れた。すると「あれっ、私のidが拒否された。まあいいや、本当はダメなのだけれど、管理者idでloginしちゃえ」サーバーにloginした時も同じことが起こったけど、管理者id様様で切り抜ける。後は、ひたすらプログラムのコーディングと実行、そして結果確認。このデバッグ作業の繰り返し。「プログラム仕様書のレベルが低過ぎて使い物にならないのは、何とかして欲しいなぁ」そう思いながら作業をしていると、いつの間にか昼休みなっていた。私は昼食を外では取らない。面倒臭いのもあるし、せわしく食事をするのが嫌いからだった。自席で缶コーヒーを飲みながらゆっくりサンドイッチを食べるのが性に合っている。「今日は特に納期がせまっているわけでもないのに、誰とも話していないな」そう思ったが、そういう日も結構あるので気にはならなかった。

 今日は朝の電車ではまあ上手く立ち回れたけれど、仕事であるデバッグ作業が上手くいかなかった。バグが取れなかったのである。いわゆるプログラムのコーディングミスを中々発見出来なかったのだ。気が付けば、部屋には自分一人しかおらず、もう終電の時間も迫っていた。バグは取れなかったが、バグの絞り込みはかなり出来たので今日はもう帰宅することにした。

 梅田駅に向かいながら「それにしてもみんなはいつ帰宅したのだろう……全く気付かなかったな」と考え事をしていると、あわや終電に乗り遅れるところだった。終電はラッシュとまでいかないものの、それなりに混雑している。ただ酒臭い連中には閉口ものだけど…… 


 コンビニで夜食のカルボナーラを、カロリーを無視して買ってしまった。ちょっとだけ後悔しながら帰宅。アパートの前の人影が気になり慌てて部屋に駆け込みドアを施錠し、ほっとする。やっぱり、こういうシチュエーションは怖いもの。DWの腕時計を見ると午前1時になっていた。テレビをつけ、適当にチャンネルを選ぶと殺人事件の犯人が逮捕された言うニュースが流れていた。「こんな深夜にニュース?」と気になり、テレビ画面を見入った。

「一昨日の火曜日深夜、大阪市阿倍野区新美章園北のアパートで一階に住む男性と二階に住む女性が殺害された事件の犯人が逮捕されました。犯人は住所年齢不詳の女で、自称、細川珠緒。被害者の方は、小笠原秀清さん、男性30歳会社員。細川珠緒さん、女性25歳会社員。なお、犯人は警察の取り調べに対して『自分が本当の細川珠緒だ』などと意味不明な供述を繰り返しています。犯人と被害者に面識があったのかは今のところ分かってはいません」

「私? 私が二人?」

「殺された? 犯人? 一体何それ?」

「えっ……」

「それに一階に住んでる小笠原さんって、どういう事」

「えっ。えっ……。ここに居るのよ。私、生きてる。生きてるよ」

 私は自分の体に強く触れた。体には手が触れた感覚が、手には体に触れた感覚があった。

「私、ここに居るよ。生きてる。私、ここで生きている」

 私はただ混乱した。

「どういう事、えーっ、一体何なの」

「そうだ、誰かに、私が生きてるって、ここに居るって、電話しなきゃ、ラインも」 

 私は鞄からスマホを取り出そうした時、持っていたはずの鞄がドスンと落ちた。それを機に世界が一変した。

「この部屋は何……」

 滅茶苦茶に散乱した服や本、ベッドには血の跡が。そして刑事ドラマに出てくるような「keep out」と書かれた黄色のテープ。それが意味もなくバリケードテープと言うらしい事を頭によぎった。そして白いチェークで書かれた人の形を模した線。そこにも大量の血痕が……

 私は怖くなりこの部屋を出ようとした。しかし玄関のドアノブが掴めない。私がドアノブを触ろうとしても、手がすり抜けてしまう。何度やっても結果は同じだった。私はやけになって玄関のドアに体当たりした。歯を食い縛ったが、それは不必要だった。やはりドアノブ同様に玄関のドアをするりと通り抜けてしまったのだ。そして光一つない真っ暗な世界が目の前にあった。

 私はおそるおそる一歩足を踏み出した。その足許からアパートに面する道路が見えた。その道路に小笠原さんが立っていた。全身血塗れの状態で。私は声も出す事さえ忘れ小笠原さんを眺めた。ただ眺めた。ただ眺め続けた。小笠原さんは私の視線を感じたのか、口許から垂れた血を落とさないようにゆっくりと顔を私の方に向けた。小笠原さんの目は完全に死んでいた。

「細川さん、細川さん、細川さん」

 小笠原さんが私の名を小さいながらも通る声で叫びはじめた。私はその声が堪えらなかった。また私は部屋の中に逃げ込んだ。そしてどこをどう行ったかは分からない、気が付けば洗面所にいた。私は顔を上げると洗面鏡があった。そこに映ったモノを見て、私は悲鳴を上げた。

 それはタロットにあるような、大鎌を持つ死神だった。


  了

この物語を創作するにあたり、快くご承諾して頂いた彩葉様に心より感謝いたします。

ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公目線のリアルな日常から入り、随所に散りばめられた違和感が不安を煽っていく演出が良かったです。 読了後にもう一度読み返すと、一度目の時に気付けなかった違和感が仕事していて唸りました。 …
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