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正しきもの

作者: 肥富

急ぎ執筆したため構成の矛盾、文法の誤用、誤字脱字が見受けられるかもしれません。

ご了承下さい。



刹那。

眩く、そして鋭利な金属光沢が由来であろう一閃が放たれる。

ここは『戦場』。

ここでは常時肉、筋繊維の断裂音、Feの結晶体の衝突音が響き渡っている。

そしてここでは相対する者と者が互いの運動エネルギーのベクトルを相対化させ『武器』というインフルエンサーを通して互いに影響を与え合う。原則『身体的悪影響』を。

その結果、ここでは多くの生命体が生命体としての機能を機能停止させていく。

勿論、その機能停止は決して自己の意思決定に基づくものではない。





やあ、私は少し前まで『そちらの世界』の住人だった者だ。ここで言う『そちらの世界』とは現実世界のことを指している。

より平易に説明すると、何らかのメディア、例を挙げるならば本やテレビを利用してこの世界を認識し、そして理解する、つまりこの物語を『読む』側の立場に位置している世界のことだ。

ということは逆説的に考えると、『こちらの世界』とは何らかのメディア作品の内部ということになる。

そう、私は今、とある『物語』の中の世界で生活している。

そう、物語だ。

文字や絵、そして映像などを通して表現されているアレだ。

私はそんな世界に何故か一人、私の意に反して移送させられていた。

気づいたらここにいたのだ。

置き去りにされていたのだ。

では、なぜ唐突にこの世界に置き去りにされた私が、この世界が何らかの物語の世界であるということに気付けたのだろうか。

それは私がそちらの世界で小説家を生業としていたことが大きく関連している。

実はこの世界、私の創作した小説をベースとして創作された世界のようなのだ。

確証は多数存在するが、その中でも特に確信が持てる確証は、私の執筆した小説のシステムや進路と、この世界のシステムや進路が完璧に一致しているというものだ。

これは二年掛けて実証済みである。

そう、つまりこの世界の起源は私なのである。

私が創り上げたのである。

まあ、そんなことを言ってはいるが、現在の私は帰還方法も一切発見できず、ある意味「幽閉」状態、インコンビニエンスな状況に置かれているのだが。

それに、この世界の起源が私だと言っても、私はゼロから小説を創作するというプロセスのみを行ってきた訳で、決して小説という理想を世界という現実に転化するというプロセスは行っていない。だからと言って小説が独りでに世界へと転化することもあり得ないので、私の理想に何かしらの人為が、いや、『人』かどうかは怪しいが、とにかく何かしらの介入があったことが推測できる。

それらの介入者は今の私の置かれている幽閉状態から考えて、『敵』と捉えて遜色ないだろう。

だが、その介入者が『個人』なのか、もしくは『組織』なのかについては特定出来ていない。

そんな特定作業をし続けて早二年、この世界は二年前と変わらず、何の変哲もないただの私の創作物が現実化しただけの世界を保ち続けている。

世界観が中世フランスをモデルに設定されていたり、この世界の住人の強い宗教観を表現するため、この世界の建築物のアーキテクチャの大半がゴシック建築だったりと、私のプラン通りでとにかく何の変哲もない。

ただ、何の変哲も無いからこそ、膨大な量の謎が次々と湧き出てくる。


本当に謎である。


まず誰が私を幽閉したのか。

そして私を幽閉した者と、この世界を小説から実現化させた者は同一人物なのだろうか。

そしてこの世界は一体何なのだろうか。

緻密な情報やデータによって構築されているサイバースペースなのか。

もしくは物語という概念的、感覚的観念空間の中に存在する具象的、物体的物理空間なのだろうか。

ではもしそうならば、私はどういった方法でこの世界に転移したのか。

そしてこの世界はどのように存在しているのだろうか。

というかそれ以前にこういったファンシーな存在が存在し得るのか。

やはり、サイバースペースなのではないのだろうか。


『概念的フレームワークの中の具象』。

この二つの事象の関係は可逆的ではない。

むしろ不可逆的ですらある。

それは事実である。

果物という概念的フレームワークの中にリンゴという具象は存在しても、果物は具象になり得ないし、リンゴは果物のフレームワークとしての概念にはなり得ない。

それに、先ほども説明した通り概念的フレームワークの中に具象が存在することはあり得るのだが、決して概念的存在自体の中に具象的存在、いわゆる物質は存在し得ることはない。

非存在の中に存在が存在することなんてあり得ないし、あってはならない。

ここまで淡々と話してきたが実のところ、この謎に関しては私ではどうすることもできない。

今の私は著作者としての権利、著作権を剥奪された所詮元著作者なのだから。

唯一出来ることといえば、有識者としての視点からこれからの来たる未来を観察することしか出来まい。

つまり繰り返すようだが、今の私に出来ることなどたかが知れている。

もしかしたらこの世界に間接的影響を与えること位は出来るかもしれないが、この世界自体に直接的影響を与えることはほぼ不可能だろう。

訳はいくつかあるが、とにかくこういった事象の解決に努めようとすると、必然的に物理学や化学などなど自然科学という高い壁に付きまとわれる。

そして運の悪いことに私は地方国立大学の教育学部学校教育教員養成課程教育心理学専攻卒なのだ。

人文科学側の人間なのだ。

文系なのだ。

まあセンター試験で理系科目は必須ではあるがセンター試験程度の理系科目など何の役にも立たない。

本当に壊滅的、絶望的、漠然的としか言いようがない。




とある晴れた昼下がり、私は自宅の少し近所、自宅からだいたい徒歩20分程のとある噴水広場に向かうことにした。

もうこの閉鎖空間で生活するのにも慣れたものである。

まだ触れていなかったが、一応私はこの世界で弁護士の職に就いている。

この職に就いた理由は単純に弁護士として求められるレベルが法科大学院制度の影響で飽和状態と化した日本の弁護士界と比べても低く、尚且つ高給取りであったためだ。そういう面で私は日々、文化的差異というものを真に痛感している。


でもやっぱり違うなあ。


日々当たり前のように踏みしめていたアスファルトは勿論この世界には存在しない。それに大通りなど特定の通りを除き、基本的に大半の通りは補装されておらず、道の脇には人や他の生物の糞尿が廃棄され、衛生的にも決して良いものではない。

日本、いや、そちらの世界が非常に恋しい私である。

この世界の起源を創作したのは他でもない私なのだが、現実世界とここまで差異があるなんて予想外だった。

私はそう感じながらも歩き続けた。

私はレンガで補装された大通りを通り、そしてこの地区で最も人が集まる商店街を人混みに揉まれながら通り抜け、そしてその奥に存在する目的地へ向かった。

商店街を抜けると先ほどの人混みは消え、閑散とした空間が現れる。

そこには噴水を中心に大体20平方メートル位の広場が設けられており、噴水を取り囲むかのようにいくつかのベンチが設置されている。

そう言えばこの広場は宗教的設備という設定に設定してある。

広場の中心に設けられている噴水はこの世界における信仰の対象という設定なのだ。だからよく大勢の人々が祈りを捧げている場面を目にする。

というか失念していたのだが、この世界は宗教至上主義世界という設定に設定してあるのだ。

私はそれを思い出すのに大分時間を要したが、実際そんなことは少し思考を巡らせればすぐに思い出すことなんてできてしまう。

例えば今私の居るこの場から可視できる範囲だけでも大半の建造物がゴシック建築によって構築されている。

自分自身で考えた設定を失念するなんて笑えない。

話は戻るが私はそこのベンチに座って法律について学ぶことにした。

勿論ここで学ぶのにも意味がある。

この噴水広場は学問を学ぶ人々が集う場でもある。

つまり知識人が集うのだ。

それはもう面白い。

まあ、どちらかというと形而上的学問を学んでいる人々が多数で、少数派である私との思想の一致の確率はほぼ0パーセントに等しいのだが。


私は形而下的学問の過度に進歩した世界を生きてきた人間であるがために、大学でいくら形而上的学問を学ぼうとも私の観念では哲学より科学の方が絶対的であるのは不変的かつ普遍的事実なのである。

そのため、この世界の観念体系と自身の観念体系には180°、いや540°、いやそれ以上差異があるかもしれない。

だが、確実に言えることは、哲学と科学も、理想も現実も、形而上と形而下も、決して結合しないし共存しない。

もし結合、共存しているのであればそれは『東京ディ○ニーランド』のように現実の中に存在する『虚構の理想』なのだろう。

何故ならそれらは此岸と彼岸のように対極に位置しているのだから。


「おお君か。今日も来ていたのかい。」

私がベンチで法律学についての学術書を熟読していると、私の座っているベンチの前方から低く、ゆったりとした余裕のあるトーンで、少し嫌味の意の込められていそうな台詞が聞こえてきた。

「プレジュディスさんではないですか。」

彼は名をジェネラル=プレジュディスという。

縦幅より横幅の方が広い型の中年で、貴族であり、そして形而上学の第一人者でもある。

「君は平民であるにもかかわらず、よくこの場で見かけるのだが、仕事がないのかい?」

嫌味である。

「仕事の方は順調ですよ。」

「ほう。そうかい。で、どうなんだい。あの、『俗物について研究する形而下学』の方は。」

「そちらも順調ですよ。」

「そうかい。まあ、頑張りたまえよ。」

彼は嘲笑の意を包含した表情で去っていった。

彼の考えはおおよそ見当がつく。

私のことを馬鹿にでもしに来たのだろう。

彼は基本的に私の意見になんて聞く耳を持たない。

彼と同様に一部の貴族は我々平民なんて歯牙にもかけていないだろう。


これだから貴族は。


これだから格差というものは。


だが皮肉なことに昼間からこの広場で学問に勤しんでいられるような人間はまず、ある程度生活に余裕のある者なのだ。

つまり、ここに来る大半の知識人は貴族なのである。

正直私は彼らとは馬が合わない。

無知であるが故の『神』という非存在に対する、いや『事象X』に対する根拠のない絶対的崇拝心。そしてその絶対的崇拝心から来る相対的身分格差。

更に腹立たしいことに、身分格差は相対的なのだが、(これは当たり前なのだが)彼らの身分自体には絶対的安定が保証されている。


彼らは利己的なのだ。


私はそこに腹が立つ。


これだから無知は。


おっと、この言葉は私が発して良い言葉ではなかったな。


どうやら私自身大分苛ついているようだ。


私の中の観念は今にもそれに取り付いた形而上を乖離しようとしている。


だがそんなこと以前に結局この世界における信仰や格差などという浅ましい存在を創造した諸悪の根源は自分自身なのだ。


一番の害悪は自分自身なのかもしれない。


私はその言葉で先ほどまで自身の観念に取り付いた形而上を乖離させようとしていたそれを宥めた。


私自身いつ自身の観念に取り付いた形而上をそれから乖離させていまうか予想がつかない。

だが、現時点でこの観念の暴走の抑止力となっているのはそれとはまた別の、人間における理性のようなものなのだろう。


空は快晴に近い晴天だった。

だが、決して快晴ではない。

空にかかった少しの雲がまるで天候の快晴化を危惧するかのようにそれを阻害している。

それはまるで私の観念を表しているようだった。


決して乖離してはいけない、か。


もしこの形而上を自身の観念から乖離させてしまったらどうなってしまうのか。





考えたくもない。


だが、自己観念内部の天候が快晴になるのは間違いない。


私は今にも再び暴走しかねないこの観念から無意識の世界へ逃れるため足早に帰宅した。





まぶたが重い。

もう朝である。

まだ脳は半睡眠状態だ。

まぶたが重い。

私が思うにまぶたという部位は身体において他の部位と比較しても精神との連動が強固であるように感じる。

そのため私は朝まぶたを開くことが出来ない。


と、


忘れていた。


そして寝坊していた。


今日は裁判が執り行われる日である。

この時私は自身の鋼の如く鍛錬されたこの精神を上回るなんらかの危機的感情を感じたのだろう。

私はすかさず鋼の牙城の門を開いた。

そして彼はその後1日普段の3倍速ほどの速度で行動をしたのだという。


走る。

走る。

走る。

さながら風のように。

なんてそんなことはない。

運動なんて高校時代以来である。


高校時代か。


私は高校時代にとある苦い思い出があるのだ。

まあ、それはまた別の機会にでも話そう。

もう目の前は最高司法機関である高等法院だ。


私は間一髪間に合った。


今日私が弁護する人物はウィードさん。細身で身長は低い。職業は地方領主の使用人をしているそう。

彼は貧しさから盗みを犯してしまったらしい。地元領主の館に納められている宝物の幾つかを盗んでしまったようだ。

今回の争点はいかに彼の罰を軽減できるかどうかだ。


裁判が始まった。


被告人が法廷の中心に立ち、そして、そのすぐ近くに私、その周囲を裁判官が囲む形で設置された席に着席している。


「裁判長補佐、公訴事実を読み上げよ。」

まずはじめに裁判長がそう告げる。

「はい。被告人はカルラム領領主邸内に設置されている宝物庫に保管されていた指定重要文化財三品を奪取、その後逃走。」

「うむ、それでは罪状認否を行う。」

「被告人はこれを認めるかね。」

裁判長は被告人に対し比較的落ち着いた声で罪状認否を行う。

「認めます。」

被告人であるウィードさんが告げられた公訴事実の内容を認める。

「ほぅ。ではーー」

裁判長が脳内に出力された抽象的情報を具象化し、言語を媒体にして更に体外に出力しようとした瞬間。

「ひとついいでしょうか。」

一人の裁判官が挙手する。

「では、君。」

裁判長補佐が挙手をしている彼に発言権を与える。

「それではお話させて頂きます。」

裁判官は雄弁を開始した。

「私は今回の事件で彼以上の犯罪者がいると考えております。」

「ほぅ。率直に聞くが、誰だ。」

と裁判長が慎重にそう質問する。

「ライサン領領主です。」

彼がそれを言語化した瞬間、他の裁判官達が驚愕を表現するような声を挙げる。

「なぜだ。」

と裁判長。

「まず、ライサン領は被告人の出身地であり、納税先であり、戸籍の登録先でもあります。つまり、彼はライサン領の人間なのです。これがライサン領を指定した理由です。次に、領内の人間の犯罪を抑制することが出来ない領主は地方行政請負人としての自覚や意識が欠如しているのではないか、という理由で現領主を指名しました。」

と裁判官。

「ほぅ。」

「現領主から領有権を剥奪し、他の行政請負人その権利を譲渡すべきかと。」

裁判長が数秒間目を瞑る。

そして数秒後目を開き、それと並行して口を開く。

「これからライサン領領主の領土剥奪に関する審議を執り行うべきか、行うべきでないか多数決を取る。」




完敗した。

多数決によりライサン領領主の領土剥奪に関する審議が一週間後に執り行われることが確定した。

高確率でライサン領領主は領土を剥奪されるだろう。そして、その領地の領有権は多分カルラム領領主にでも、譲渡されるのだろう。

ウィードさんは指定重要文化財を奪取した事実以上の罰である無期懲役刑が科せられた。

私の負けである。


議論に入る余地がなかった。

それ以前に私には発言権がなかった。

この国は売官制を採用しているため、公職に就いている人間の大半が莫大な富を所有する貴族達なのだ。

その時点で公平ではない。

今回も裏で金が流れていたのだろう。

弁護士に発言権を与えないなど有り得ない。




これが形而上崇拝の世界だ。

これが、

これが、

この非論理的なこれが、

この非理性的なこれが、




よし、壊そう。




私は自身の観念に取り付く形而上を自身の意思で乖離させた。




空には一切雲がない。




私はそれから形而下学を利用した啓蒙活動を開始した。

無知な彼らに対し事実に基づき啓蒙行為を行うのは小学生に算数を教えること位簡単な行為だ。

簡単な理化学的、数学的実験を利用し、彼らに現実を突きつけてやればいいのだから。

そして、私に陶酔する信者は日に日に増加していき、国家はまるでオセロのように黒から白へ、形而上から形而下へ思想を変換させていった。

一種のテロリズムである。

思想的内部崩壊テロである。

そのテロの結果、国家は一時崩壊し、新たに私を中心とした社会主義国家が誕生した。






国家は形而下的学問の発達により急成長。

そう、これが近代国家への近道だ。

私は正しかった。



と思っていた。



形而下的学問の発達により、我が国家の独立国軍軍人達は数多くの軍事兵器を開発し、我が国家は誕生から数年で軍事国家と化した。

そのため、隣国との国境付近で戦争が頻発。そう言った理由から多くの国家が武装を強化。

我が国家の軍事国家化がトリガーとなり、戦国時代が幕を開けた。

勿論どの国家も軍隊が独立し、政府が機能停止している。



『二元論』、懐かしき高校時代の友が最も好んでいた言葉。

かれは京都府立大の文学部歴史学科に入学したと言っていたな。

高校三年の最後の夏、私と彼は思想の相違から決別した。

今考えると彼は正しかった。





二元論は正しかった。





そう言えば、私が幽閉された物語の題名はなんと言ったかな。




そんなのもう忘れた。


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