少年玩具
玩具【がんぐ】子供の遊び道具。広義ではおとなが弄ぶ物を指す。
「貴方は小鳥の巣の中に、まむしの卵が混ざっていることに気付いておられないのです!」
トランシルヴァニア太守、ヤンク公はわめきたてるダン二世の言葉をうんざりしながら聞いていた。
「卵のうちは良いでしょう。けれどもいったん卵が孵れば、あの小蛇めは必ずや、貴方の指に喰らいつきますぞ!」
まむし、小蛇、悪魔――先ほどからダン二世は、この三語を繰り返し口にしては、まるでワルツのように、際限なく同じ内容をわめきたてている。
――それにしても語彙の少ない男だな。
ヤンク公がうんざりとそう思った時、広間の扉が音を立てて開いた。
「失礼致します。ヤンク太守、シビウ市長からお手紙を預って参りました。」
「おお、ヴラドか!入るが良い!」
ダン二世の長口舌にげんなりしていたヤンク公は、これを幸いとばかりに使いを広間へ招き入れた。ヴラドと呼ばれた少年は、ヤンク公へ礼をすると、黒髪の下の碧眼をちらりとダン二世にくれたが、そのままそ知らぬ顔で広間の中央へと進み出た。ダンはそれを苦々しい顔で見ている。その二人の様子をヤンク公は興味深げに見ていた。
「今、ちょうどワラキア公から訴えを受けていたところでな。お前の意見を聞きたいと思うがどうだ?」
「どのような訴えでございましょう」
ヤンクはヴラドの顔を見て、意地の悪い笑みを浮かべた。
「我が城にまむしの卵が転がっているというのだ」
「まむしでございますか」
ヴラドの冷たい双眸がするどく光った。興味深げに目を細めるその仕草は、蛇が獲物を狙う時の様子に似ている。
「しかも、私はそれに気付いておらず、このままではまむしに喰らいつかれる、というのだ。そうだな、ダン?」
名指しされたダンは一瞬ためらうように、ヴラドの顔をうかがったが、その顔に冷笑が浮かんだのを見て取ると、途端に激昂して語気も荒く言い放った。
「ええ、おっしゃる通りでございます。卵のうちは鳥の卵と見分けもつかず、さして害もございません。しかし、一度卵が孵れば、必ずや公にその牙を向くでしょう」
「それは確かに穏やかではありませんね」
息巻くダンの声を遮って発言したのは、意外にもヴラドだった。抑揚をつけない淡々とした喋り方は、声変わりしたてのまだいくらか高い声とあいまって広間によく響いた。
「まむしの毒は人も殺すほどの強い毒。城内にまむしの卵がありましては、公のお命に危険が及びます」
予期せぬヴラドの発言に呆気にとられていたダンは我に返った。
「そ、その通りです!ヤンク太守!他でもありません、そのまむしとは――」
「しかし」
ダンの声を遮ると、そちらを見ようともせず、ヴラドは言った。
「しかし、まむしの毒も使いよう。その小蛇、手懐ければ、イタチを殺す良い手立てとなりましょう。」
ヴラドの言葉にダンは不審な顔をした。
「何を申される。ハンガリーにはイタチなど……」
その言葉を予期していたかのように、ヴラドはくすりと笑うと、横目でワラキア公ダン二世の方を見やった。
「トルコにはおります」
「なっ…!」
「どうした?ダン」
思わずヴラドに掴みかかろうとしたダンにヤンクが声をかけた。
「私の側近が何か礼を欠いたか?」
「―!」
ヤンク公の口元がさも愉快そうに、歪んでいるのを見て、ダンは歯を食いしばった。
「いえ。…急用を思い出しました。私は失礼致します」
怒りを押し殺した声でそれだけ告げると、ダンはヤンク公に向かい礼をして、謁見の間を退出した。
それまで笑いを堪えていたヤンク公はダンが立ち去るなり、豪快に笑い出した。
「見たか!奴のあの真っ赤な顔を!あれでは、イタチというよりイワダヌキだな!」
大口を開けて笑うヤンクを見て、ヴラドはやれやれという風にため息を吐いた。
「…口が悪うございますよ、太守。」
「なに、お前ほどではない。それにしても『トルコのイタチ』とはよく言った!」
「…お褒めにあずかり、光栄でございます。」
うやうやしく礼をすると少年はにやりと笑った。
「そうだ、シビウ市長から手紙が来ていると言ったな?」
「失礼致しました。こちらでございます。」
ヴラドは懐から、市長の刻印の押された手紙を取り出すと、ヤンク公に差し出した。手紙を広げたヤンクは最初、興味のない顔でただ文字を追っていたが、次第に険しい顔になっていった。
14世紀末。東ヨーロッパはオスマン・トルコ帝国の脅威に怯えていた。特にハンガリーは、小国ワラキアを緩衝地帯として、トルコとの攻防戦を繰り返していた。両国の争いに巻き込まれ、代々のワラキア領主は常に外交政策に苦しんでいた。
ハンガリーの後ろ盾により、就任したはずの現・ワラキア公ダン二世は、当初ハンガリー寄りの政策を取っていたが、近頃どうも動向がおかしい。シビウ市長からの手紙はそれを裏付けるものだった。
ヤンク公はため息を吐くと、シビウ市長からの手紙をヴラドに投げて寄越した。
「お前も読むといい。トルコ商人の出入りを禁止したはずのシビウ市で、トルコの商人が大通りを闊歩しているそうだ。」
「…全く、どちらが蝮の卵やら。」
くすり、と笑ったヴラドをヤンク公は睨みつけた。
「笑い事ではない。ダンがトルコ側に寝返れば、ことは厄介だ。我がハンガリーはワラキアとトルコを敵に回すことになるのだぞ。」
「…そうでしょうか」
「なに…?」
―――いつの間にこれ程近くに来ていたのか。
ヤンクが顔を上げると、前に控えていたはずのヴラドの顔がすぐ近くにあった。
「その時は私を使えば宜しいでしょう。」
ヴラドの言葉にヤンクは口元を歪めた。
「お前を使う?奇妙なことを言う。お前が何の役に立つというのだ?」
ヤンクの耳に口を寄せ、ヴラドは囁いた。
「お役に立つはずです。…少なくとも、私の父よりは」
ヤンク公がヴラドの言葉に身を強張らせたその時。
「父上っ!」
一人の青年がヤンクの元へと駆け寄って来た。二人の間へ割って入り、背でヤンクをかばうように、赤茶の瞳でヴラドを睨み付けた。
「…何をしていた?ヴラド?」
息も荒く、今にも掴みかからんばかりの青年に対し、ヴラドは淡々とした態度で礼をした。
「…シビウ市長からの手紙をお渡ししていました」
「ならば、もう用は済んだはずだが?」
青年の燃えるような赤茶の瞳に対し、ヴラドの黒髪の下の碧眼はまるで揺らがない。ヴラドは青年に深く礼をすると、そのまま広間から退出した。
広間の扉が閉まるまで、青年はずっとそちらを睨み付けていたが、ヴラドが退出するなり慌ててヤンク公の元へと駆け寄った。
「お怪我はありませんか!?父上!」
そんな息子を見て、ヤンクは苦笑いを浮かべる。
「私は大事ない。…お前、あれは私の側近だぞ?私に危害を加えるような真似をするわけがなかろう」
しかし、父の言葉にも不満気に息子は言い放った。
「父上。何故、あんな裏切り者を側に置くのです。あの男は…」
「息子よ」
父の力強い声に青年は思わず怯んだ。
「あれは私の選んだ者だ。あれを侮辱することは、この私を侮辱することと同じだと思うが良い」
なおも何か言おうと、口を開きかけた青年は、父のこの言葉にしぶしぶと頷いた。
「分かりました父上。しかし、私はただ父上の身を案じているのです。どうか、そのことを分かって下さい」
父思いの息子の言葉に、ヤンクはただ無言で微笑んだ。
青年が広間から去ると、ヤンクは玉座に深く腰掛けた。その顔には隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
「裏切り者、か・・・」
と一人呟き、ヤンクは目をそっと閉じると、ヴラドの父、ドラクルのことへと思いを馳せた。
ドラクル。ワラキアの第七六代目領主。彼は現ワラキア公の一代前の領主に当たる。ドラクルもまたハンガリーの後見により、ワラキア公へ就任した一人だった。彼とヤンクとは年近く、対トルコ戦でハンガリー軍と共に戦った。彼とはよく戦場での騎馬兵の使い方やトルコの外交政策のことで夜が明けるまで討論したものだ。幼いヴラドの初めての戦場へは、ヤンクも同行した。
一体、二人の道はどこで別たれてしまったのだろう。
ドラクルのワラキア公就任から五年。最初ハンガリーと共に、反トルコ政策を取っていたはずのドラクルは次第にトルコへ媚びへつらうようになった。それがトルコ帝国と大国ハンガリーとに挟まれた小国ワラキアの生き延びる唯一の手立てだったのだろう。
しかし、ドラクルのワラキア公就任から十年。もはや、ハンガリーはドラクルに退位を要求せざるを得ない状況になっていた。
ドラクル退位の目的でワラキアへ軍を進めたのは、他でもない、ダン二世とヤンク公だった。一時は友と呼び合い、共にトルコと戦った男の首を取ったのは、ヤンク公自身であった。
「まむしの卵か…」
呟いて、ヤンクはすぐに先ほどのヴラドの言葉を思い出した。
『そのまむし、手なづければ、イタチを殺す良い手立てとなりましょう』
ヴラドはヤンク以上に、ヤンクのことをよく解っている。今、ヤンクが最も必要としているもの、それがヴラドであることを。
トルコと手を結ぼうとしている、ダン二世をこのままワラキア公へ在位させておくことはできない。
今、ヤンクが最も必要としているもの。
それは次代ワラキア領主である。
血統、能力、そしてこの四年間でヤンクが叩き込んだ帝王学。
どれを取っても今、ヴラド以外にワラキア公を継ぐことができるものはいない。
ヤンクは思った。
幼い頃に父を殺され、トルコの虜囚となり、そして今、父を殺した男の元で、ワラキア公へと就任しようとしているヴラドのことを。その高貴な血のために、運命に翻弄されるヴラドのことを。
「玩具、だな。まるで」
ぼんやりと呟いた言葉は、ただ広間の冷たい大理石へと虚しく響いた。
広間を退出したヴラドはバルコニーに出ていた。遠く地平線の彼方に目をやると、山々の稜線が淡く滲んでいるのが見えた。その山脈の向こうは遠い祖国ワラキアだった。
人質としてトルコの虜囚となった時も、父を殺害され遠国へと逃げ延びた時も、ヴラドは一時としてワラキアを忘れたことはなかった。
そのワラキアが今、我が手に戻ろうとしている。
…ヤンク公もダン二世もヴラドにとっては、問題ではない。祖国ワラキア。ヴラドの頭にあったのは、ただそれだけだった。
ヴラドは先ほどのヤンクの様子を思い出し、ふ、と口元を歪めた。
ヤンクが次代ワラキア公として、駒としての自分、を欲していることは最初から解っていた。だからこそ、命の危険もかえりみず、ヴラドは父を殺したヤンクの元へと身を寄せたのだ。
ヴラドがヤンクの側近となって早四年。
今、ようやくヴラドの悲願が果たされようとしている。
ヴラドは思った。
父を殺し、ヴラドに帝王学を教え込み、今、駒として自分を扱おうとしている男のことを。
たかが18歳の自分をワラキア領主に据えなければ、トルコの侵略を止められぬ哀れな男のことを。
彼は気づいているだろうか?ヤンク自身もまた歴史という大きな波に翻弄され、弄ばれていることを?
「玩具、だな。まるで」
ヴラドは冷笑を顔に浮かべたが、それもすぐに消えた。少年の瞳はただまっすぐに祖国ワラキアを見据えていた。
というわけで、少年が玩具か?少年の玩具か?というお話でした…。
えーと、このお話を書こうと思ったのは、いわゆるドラキュラ伯爵のモデルとなったヴラド公のワラキア史での姿に関する文献を読んだのがきっかけです。
インスピレーションを受けたのは、ヴラド公なのですが、いかんせん、私のねずみ並みののーみそではこれが限界でして…。
当然ながら、史実ではありません(笑)ので、お許しください…。