2 驚きしかなかった
「随分賑やかだったみたいだけど、大丈夫かい?」
「えぇ、サーシャ姉様がすぐに来てくれましたから」
目が覚めたら、父さんが戻って来ていた。いつもは袴(ペルシャ絨毯みたいな柄)っぽいものと襟の部分に刺繍が施された詰め襟の白シャツの上に、友禅のような緻密な絵柄の羽織をマントのようにして羽織った、書生に似た格好なのだが、今日は違う。いつもより大柄な模様を錦糸の刺繍によって施された赤地の詰め襟のシャツに、ベストのように袖のない、肩周りと前の合わせ目を毛皮で縁取られた、やはり大柄な模様を織り込まれた膝丈の着物のような衣を着ていた。その下にももう何枚か着ているらしく、ひらひらとした無地の裾が見える。恐らく見せるための裾なのだろう。下はいつも履いている袴ではなく、幅のある甚平のようなズボンだ。
これが仕事着なのだろうか? それにしても、母さんも若いが、父さんも若い。どちらも二十歳になっていないように思う。やはり、結婚とかも早いんだろうな。
「用意が出来たら呼びに来るそうだから、それまでに着替えておいで。ドルゴニュッシシュ」
淀みなくあの恐ろしく言い難い名前を告げる父さんの声に、短く返事をして何かを母さんに渡すドルゴニュッシシュさん。揺籠からでは何も分からないが、恐らく着替えだろう。
「まぁ、こんな素敵な晴れ着を用意して頂けるなんて…!」
母さんの声から、溢れ出る喜びと驚きが伝わってくる。
「私とファティーマの初めての子なんだ。これくらいは当然だ」
はにかみながら母さんの言葉に答える父さん。そんな父さんの言葉に、母さんが感極まったようで、目尻にうっすらと涙がたまる。
「おやおや、いけないよ、ファティーマ様。こんないい日に泣いちゃ勿体無い。ほら、着替えてお化粧をしないと。アージ坊やのお着替えもあるんですからね」
いつも部屋に来ている女性の使用人がそう言って母さんの目尻を丁寧に拭う。恰幅がよく、田舎のおっかさんと言う風貌だ。この家にはメイド服なんてものがあるわけがなく、使用人は縁に房飾りのついた、背中まで届く大きな三角巾のようなもので頭を覆い、胸元に刺繍を施したワイシャツに、モンゴルなどで見られるような袖が邪魔にならないようなっている長袖の服を着て、腰の部分に幾重にも麻やサテン、木綿などの帯や帯紐でコーディネートしている。男性はこの上に、二の腕までの長さのマントのようなものだったり、肩口に刺繍を施したベスト(ボタンなどはなく、ピンなどで前開きの部分を留めている)を羽織っている。また女性と違い、三角巾は被らない。
まぁ、使用人はチュークさんとドルゴニュッシシュさんしか見たことがないからもしかしたら違うのかもしれないけど。服の形は同じだけれど、柄や生地、色の合わせ方を毎日変えているから私服の可能性もある。
「こりゃ、チューク。旦那様の仕事を取るもんじゃない」
家令のドルゴニュッシシュさんが笑いながら告げれば、チュークさんは「確かに悪いことをしてしまったね」と言って朗らかに笑った。今まであまり喋ったのを聞いてなかったから、新鮮だ。それを見て父さんも母さんがお互い照れたように笑いあう。
「全く、初々しいもんだね。十九歳のファティーマ様はともかくとして、旦那様は今年で三十二歳になって、奥様もあと三人いるって言うのに、ちっとも見えやしない。もう少しどしっとしたらどうだい?」
わざとおどけて言うチュークさんの言葉に仰天する。
三十二歳!? 嘘だろ!? どう見ても二十歳いってるようにも見えないんですけど!? しかも奥さんがあと三人もいるの!? いや、裕福な家だし、一夫多妻は普通か? 家具とか服とかの雰囲気もどこかアジアやアラビアンを思わせるものだし。もしかしたらさっきの子供達と女性は、他の奥さんとその子供なのかな?
いやいや。いやいやいやいや! 見えないって、三十二歳とか! どんだけ童顔なの俺のお父上は!?
あ、やべぇ、また泣きそう。
びぇぇぇぇぇぇ!!!
衝撃の事実にまたしても泣き出す。仕方ないよ。今回ばっかりは仕方ないよ!
本当に、本っ当に実年齢の通りに見えないんだって! だって、ここにいる人達って、全員が彫りが深くて、日本人離れした顔つきなのだ。それなのに、この恐ろしいまでの童顔。あぁ、もう自分でも何言っているか分からない!
「あらあら、どうしたのアージ? お腹が減ったの? それともオシメ?」
母さんが揺籠から俺を抱き上げてあやすが、残念なことにどれも違う。
「これはあれじゃないか? 今まであんまり喋らなかった私達に驚いているんじゃないか?」
ドルゴニュッシシュさんがそう言えば、チュークさんも同意する。あながち間違いではない。
「あぁ、かもしれないねぇ。フーダの期間中はあたし達なるべく喋らんようにしとったからね。悪神の厄災が来ないよう、あたしゃ声をあげて笑うのだって堪えていたんだから」
「ぷっ、お前がそんなこと出来るものか!」
「なんだって!? あんたこそ、ちゃんと言葉に気をつけていたのかい!?」
「あぁ、勿論だとも! きっとアージ坊やは私のことをとても素敵な紳士だと思っているに違いないさ」
顎髭をさすりながら自慢気に言うドルゴニュッシシュさん。
えぇ、今この瞬間まで確かに思っていましたとも!
側で繰り広げられるチュークさんとドルゴニュッシシュさんの他愛のない言葉の応酬に、また泣きそうになる。
「まぁまぁ、二人ともその辺で。そうしたらチュークさんはファティーマとアージの支度を頼むよ。今日の主役はこの二人みたいなものだからね。まだお坊様は来てなかったし、ゆっくりで構わないよ。私はドルゴニュッシシュとお茶を飲んでいるから」
そう言って父さんがやんわりと支度を促し、ソファーに腰掛ける。それに続いてドルゴニュッシシュさんも用意していたお盆からお茶のセットをソファーの側の丸テーブルに広げ、チュークさんはバルコニーの方へ母さんと共に行き、目隠しの木製の仕切りを広げた。
それからチュークさんはタンスの中から幾つかの木箱を取り出した後、揺籠ごと俺を立てかけの中へ運んだ。
「さぁさ、今日はとびきりおめかしをいたしますよ! 何たってフーダ明けですからね」
そう言ってチュークさんは父さんが母さんに渡した晴れ着を藤の網籠から広げ、テキパキとした手つきで母さんに着せていく。
母さんの服は山吹色を基調とした、ゆったりとしたドレスだ。ドレスと言っても西洋のような腰のくびれなどを意識した作りではなく、ゆったりとした作りだ。
まず下着の上に白地で無地、丸襟の薄手のシャツを着る。着物で言うところの襦袢のようなものだろうか。
次に、太ももまである下着の上に、目の細かいレース生地の踵まであるペチコートを履く。下にいくにつれて、フリルがついている。その上から山吹色の縦縞が品良く映えるスカートを履き、ウエストを帯状のもので結び、固定する。と言ってもあまり強く結んでいるようには見えない。これだけでも十分可愛らしいドレスみ見えるのだが、更に上着を着る。
上着は襟があり、首周りと腕の部分にだけ模様があるもので、上から着るだけのゆったりとしたものだ。スカートと同系色でまとめられており、丈も胸元くらいしかない。
それから後は化粧だ。髪の毛をとかれたり、眉を整えられたり、化粧水のようなものをつけたり、白粉をつけたりと色々だ。それらが終わると、小さな三つ編みを幾つも編み、編んだ髪に花やリボンを飾る。
化粧が一通り終われば、次はアクセサリーを選ぶ。
丸い玉飾りのついたものや、真珠やビーズを編んだものなど、幾つかのネックレスを重ねてつけ、房飾りのついたイヤリングをつけ、腕輪も細いものを重ねてつける。
アクセサリーを全部つけ終え、薄いベールを母さんにかける。とても長い。腰まである。また、ベールにも装飾が施されており、縁は五百円玉くらいの大きさの丸い金属の飾りをつけられ、ベール全体に縫い付けられたビーズや石がキラキラと光を受けて反射する。
「はい、終わりましたよ。これなら悪神の厄災だって、おいそれと手を出せないだろうよ」
鏡を見せながら、満足気にチュークさんは言う。
「とっても綺麗。ありがとう、チュークさん」
嬉しそうに母さんはお礼を述べる。母さんも満足そうだ。これは俺も嬉しくなる。
「さぁ、次はアージ坊やだ。坊やもしっかり着付けて、悪神の厄災を寄せ付けないようにしないとね!」
そう言って、ニカッと笑いかけてくる。嬉し気な雰囲気に、俺も笑い返す。
着付けの最中の母さんとチュークさんとの会話から察するに、どうやら着飾るのは災いを避けるためのものらしい。お坊様も来るようだし、ゲン担ぎか何かの儀式を行うのだろう。ナマハゲみたいな、ビビリらせるイベントでないことを願う。
チュークさんと母さんで、俺の着付けをした。俺は部屋の布団と同じ模様の赤ん坊用の服を着せられ、金や銀の腕輪に、琥珀を連ねた首飾りと立派な房飾りのついた帽子を被せられた。これで着付けは完了らしい。
「まぁまぁ! 立派だわ、アージ! やっぱりあの人の子ね。こうしてちゃんとした格好をすると、とっても似ているわ!」
はしゃぐ様に母さんが言う。それを娘でも見るかのような、暖かな眼差しでチュークさんは見つめる。
「そうですね、ファティーマ様。きっとあと十年もすれば、立派な男になって、綺麗なお嫁さんと結ばれているでしょうね」
十歳で結婚!? 早いだろうとは思っていたけど、ここまで早いとは!
ファンタジーものでも、生まれた時から婚約者がいることはあっても、結婚することはなかったと思う。思った以上に、この世界の住人の寿命は短いのだろうか?
まぁ、生後一週間の赤ん坊である俺には分からないことの方が多いのだ。追々知っていけばいいだろう。
俺たちの着付けが終わったので、父さん達に知らせる。
着飾った俺達を見て、父さんもドルゴニュッシシュさんも嬉し気な様子だ。
それから程なくして、ほっぺたぷにぷに攻撃をかましてきたちびっ子達が呼びに来た。子供達も綺麗に着飾っている。どうやら準備が整ったらしい。