母との再会と別れ
「かあちゃん!死んじゃだめだよ」
良子の声に、母がゆっくり顔をこちらに向けた。半分、朦朧とした意識の中で顔をほ
ころばせた。
母のかたわらに男の赤ん坊が寝ていた。本来、母の病気の肺結核を考えると赤ん坊
は隔離しなければいけないのだろうが、戦争末期の混乱の中で医者に満足にかかって
ない状況だった。
昭和17年の春に母と別れた良子が再会できたのは2年後になってしまった。あれ
ほどお盆には連れ戻すために長野に行くことにしていた母だったが大蔵との交際に心
身をほんろうされて亡き夫の墓参りにも行けなかったのだ。
昭和19年になって戦況が日増しに悪くなって巷は戦争一色になってしまった。良
子を預かってくれた伯父も前年に赤い召集令状がきて南方戦線に駆り出されてしまっ
た。長野の家では働き手を失い一層生活が苦しくなっていた。
良子の母に何かと養育費の仕送りをせびってきていたが、母も大蔵との恋愛沙汰と
出産で仕事も休み勝ちになってしまい稼ぎが減ってしまった。
空襲が激しくなった東京を離れて学童疎開がはじまるそんな時期に、良子は東京に
出てきたのだ。
この2年間に母の境遇は大きく変化していた。岩田大蔵との中が親密になったのは、
厳しい戦時下でも人の世の定めだった。色白で華奢な母は、大柄で行動的な大蔵に抱
かれてしまうと、身も心も委ねてしまった。
大蔵と逢瀬を楽しみながらも母はせっせと仕事に励んでいたが、やがて世間の噂に
なるようになって伯母達の耳にも入ってしまった。亭主の一周忌もすませていない身
でふしだらなことをしてと、ひと騒動になったのはいうまでもない。
しかし、周囲から反対されると依怙地になってしまうのも世の常だ。明日の我が身
もわからない戦時下で二人の愛は火のごとく燃えあがった。やがて、身重になってし
まうと、二人は柳町辺りに間借りして一緒に住むようになった。
大本営発表の華々しい戦果とは裏腹に、日増しに戦況が悪化しているのは物資不足、
食糧難などで苦しみはじめた国民はよくわかっていた。大蔵は軍隊に納める野菜類を
調達することで、何とか日々の生活費は稼げたので良子の母に美味しいものは食べさ
せられた。二人にとって最も幸せだったのはこの時期かもしれない。
やがて、男児が生まれると母は産後の肥立ちの悪さも手伝って肺結核にかかってし
まった。それでなくても母を気に入らなかった大蔵の母親は、不治の病にかかった女
から大蔵を引き離そうとした。
大蔵としては恩義のある実母と病人の女と比較した場合、どっちを取るとも言えず、
男と女の蜜月も過ぎてしまい苦悩する毎日だった。母が経済的にも困窮しはじめると、
疎ましくなってきて二人の仲は急に冷えてきてしまった。
病床に伏していた母は自分の愚かさを嘆きながら、長野においてきた良子をしきり
と気にしていた。元気なうちに一目会いたい……。ただ、それだけだった。
湯田中の儀姉は預かっている良子に当初は順調に仕送りされてくるのでご機嫌だっ
たが、出産後、病人になってしまった母から仕送りが途絶えがちになると良子を邪魔
者扱いするようになった。
東京から食糧の買出しにくる者に良子は風呂敷包みひとつ持たされて託されてしま
った。これからどんな生活がはじまるのかわからないままだったが、母に会えるとい
ううれしさに良子は心をはずませていた。
良子には病床に伏している母だったが、やはり会えたのはうれしかった。その日か
ら良子の甲斐甲斐しい看護がはじまった。
まだ、ペニシリンの普及していない時代に肺結核は現代のエイズやガンと同じだっ
た。ただ、死ぬのを待つばかりであっても、良子は少しでも良くなる楽になる方法を
考えた。大蔵の母親にうとましく思われながらも水道橋の八百屋に顔を出して大蔵の
仕事を手伝うようにした。
数えで6才なら近所への配達や商品の陳列などはできた。しかし、空襲が激しくな
ると品物の入荷が不定期になり開店休業の状態が続いた。それでも良子は母の食糧を
求めて動きまわった。りんごをすりおろすと赤くなるのを防ぐために塩をひとつまみ
入れることもおぼえた。近所のおばさんに鶏の玉子を安くわけてもらい母のもとへと
どけた。
「かあちゃん、元気出してね……」
そんな良子の言葉に母も生きる気力が出てきたようで、体調のよい日には寝床の上に
起きあがることができるようになった。
白山の伯母も良子達のことが気になるようで週に一度の割りで顔を出してくれるよ
うになった。
しかし、昭和20年の春、東京大空襲の前のことだった。いつものように夕方に家
に戻った良子が見たものは、寝床から上半身を起こして口から鮮血を吐いて事切れて
いる母の姿だった……、享年28才。
良子は、天と地がひっくり返るほどの大声で泣き続けた。ただ、泣きたかった……。
彼女の心には、絣の着物の臭いとともに母の温もりが残っている。甘いような乳の臭
いが鼻先ある……。
後日、大蔵の手によってささやかな葬儀がとりおこなわれたが、会葬者は数人だっ
た。そして、実という名の男児は大蔵が、良子は白山の伯母にそれぞれ引き取られて
ゆくことになった。