りんごの花の咲く頃
良子の母は、取りあえず東京は文京区白山に住む伯母を訪ねた。両親のいた家はと
うになく、伯母は木場の材木商の旦那のお妾さんとしてかこわれていた。白山の家は
黒板塀に見越の松という粋な家屋だった。その離れの3畳間に寝泊まりすることにな
ったが、20才と22才になる年頃の娘がいて、母はすぐに彼女達に気を使う毎日を
送ることになった。
姉の方は大人しく素直な人柄だったが、妹はやや勝ち気で幼い頃から“妾の子”と、
周囲からからかわれいたらしくひねくれてしまったようだ。しかし、母は僅かばかり
の身のまわりの品から高価な鼈甲の櫛を彼女にくれてやったりしてご機嫌を取った。
この戦時下に楽しむべき青春を過しているこの姉妹にもそれぞれ夢や希望があった
ろうが、母親の元で厳格に躾けられた姉は素直で従順な女性に育ったが、妹は人を見
て動く二重人格的な裏表のある性格になってしまっていた。
母の仕事先の方は1ヶ月ほどすると、伯母の旦那の口利きで向島にある軍服を作る
工場のお針子が見つかった。徐々に日常生活が整ってくると彼女としては良子を一日
でも早く手元におきたかった。伯母も良子の面倒を見てやるよと言ってくれたが、妹
だけが、
「かあさんも年なんだからさ、小さい子供の面倒を見るのは大変だよ。見きれなくな
って最後は私達にくるんだからさ」と、不満顔だった。
長野へ近況を伝える手紙を出したところ、良子は元気にみんなと仲良く遊んでいる
から心配無用との返事だった。母は何となく気掛かりだったが、夏のお盆には夫の墓
参りがてらに必ず迎えに行こうなど考えた。
しかし、この年の4月には米軍機がはじめて東京に飛来して空襲を行い日本国民を
びっくりさせた。被害は軽微だったものの、都内の各地で防空壕作りが盛んになった。
一方、長野の遅い春もリンゴの白い花が咲く頃になった。明るい陽射しの中でいろ
んな物が芽吹き、動きはじめる時期だ。良子は、学校のはじまった朋子の帰りを心待
ちにして毎日を楽しんでいるかのようだったが、やはり母をふと思い出して、
「かあちゃん、まだ帰ってこないね」と、朋子に訴えることがあった。
夜間瀬川の河原で遊んでいる夕暮れ時などに、土手道の方を見上げて母の姿を追い
求めているようなこともあった。母に抱かれた時のあの香りが良子には懐かしく蘇っ
てくるようだった。洗い晒しの銘仙の着物と白粉の臭いが恋しい。朋子に抱きついて
も青臭い野草と土ぼこりの臭いしかしない。
しかし、時間が経つにつれて数えで四つの良子の記憶から母の面影や臭いは薄らい
でゆくのはやむをえなかった。優しくしてくれる朋子や伯父夫婦に徐々に懐いてしま
った。
朝早くから夜遅くまで、足漕ぎのミシンをまわして得た安い給料から長野へ仕送り
をして伯母に食いぶちを入れると、母の手元には僅かしか残らなかったが、お盆休み
に長野へ行くのを楽しみに母は仕事に励んだ。
大本営が発表する戦果は連戦連勝の栄光に満ちたものだったが、赤紙をもらって出
征する兵士を送り出す騒ぎが巷では頻繁に見られるようになり、「隣り組」と言う組
織単位で米軍の空襲に備えて、バケツリレーよる消火訓練や竹槍による撃退訓練が盛
んに行われるようになった。
母は防空頭巾を風呂敷包みに入れてモンペ姿で、焦茶色の省線電車に揺られてけな
げに出勤していたが、そんな彼女の姿を目に留めたある男がいた。水道橋駅前の八百
屋の倅で、岩田大蔵といい、年は30を越していたが独身だった。彼は3年ほど前に
日中戦争の北支の前線で負傷して帰還していたのだ。
早朝の秋葉原の市場へは父が仕入れに行くが、病弱な母に替わって朝早く店を開け
て、昨日の売れ残りを整理して安値でさばいたりしていた。季節外れの果物などは仕
入も高価だったが、ある時、数個売れ残っていたりんごを母が目に留めて買うのを思
案していたことがあった。
「持ち合わせがなくて、どうしようかしら」
「病人がいるんなら食べさせてあげな、元気になるよ」
「いいえ、娘をリンゴの故郷のおいてきたもので、つい、思い出して」
「それなら、タダでいいよ。持っていきな」
大蔵は青い前掛けできれいにふいて手渡した。
「そんな、高い物をだめですよ。じゃ、お給料が入ったら必ずお支払にきます」
「いいからもってゆきな。りんごも、もう終りだ。秋には、また、旨いのが入ってく
るよ」と、大蔵は気前よく2個も新聞紙の袋に入れてなおしてくれた。
そんな大蔵には、ある噂が巷では流れていた。大日本帝国陸軍の鬼軍曹だった彼が
戦闘の最前線で左膝頭を打ち抜かれて負傷したのだが、その負傷は長い戦場生活に疲
れて日本に帰りたいがためにおこなった自作自演だというのだ。また、彼を怨んだ部
下の二等兵に背後から撃たれたというようなことも流れていた。
銃弾の飛び交う戦場で打たれた瞬間に弾がどの方向から飛んできたか当事者はわか
る。体内に残っている弾や傷口を調べれは負傷した状況もわかる。噂の出所は不明だ
ったが、味方の援護射撃の流れ弾に当ることもあるのだ。
出会った頃の母は東京での生活がまだ浅かったので、そんな噂話など耳にしてなか
った。一本の棒状になってしまった左脚をこまめに動かしながらよく働く人だぐらい
にしか見てなかった。