其の二 むくつけき男と美しき男
其の二
「いやあ、それにしても、神々しいほどのお美しさですなぁ。いや、お噂はもちろんこちらの歳火にまで轟いておりますぞ、『天女の如き』であるとか、『花も恥じらう』だとか、いや、噂もたまには信じてみるものですなぁ」
そういって、熊のようにむくつけき男はがははっと大きな口を開けて笑った。
示詩は唾が飛んでくるのを避けてさっと小袖で顔を覆ったが、相手はそれを恥ずかしがっていると取ったのか、「なんと可憐な…」とさらに感じ入っていた。
―――いったい、この男は何者ですの…!?
示詩は胃がずんと重くなるのを感じながら、下手に座った男を小袖から覗いた。
ぼさぼさの黒髪に少し腹の出ているたるんだ肉体、おまけに少し年季の入った皺が目立つ顔は半分が濃い髭で覆われていた。
唯一その男に親しみを感じるとしたら、意外とくりくりとした可愛い目元であったが、示詩には無駄な長所だとしか感じられなかった。
服装は、歳火の伝統衣装をしっかりと着こなしており、身なりに関してはきちんとしている様子だったが、それにしてもここまで図々しい態度をとられると学がない者のようにも思われた。
―――下手に座してはいるものの、よもや…。
示詩は最悪の想像を打ち立てていた。
―――よもや、これが歳火国王?
まじまじと熊男を見ている間にも、相手は慣れ慣れしく話しかけ続けているのだが、その厚顔無恥ともいえる大胆さが、いつしか示詩にそんな思いを抱かせていた。
――――いえ、落ちつくのよ、示詩。歳火国王は、確か今年で御年二十七。この者は、どう見ても四十は過ぎていますわ。話のつじつまが合わないはず…
示詩は、なにも律草の話を額面通りに受け取ってこのように判断したわけではなかった。
離宮にいる時分、下々の者たちに話を聞いて歳火国王の人となりをそれなりに調べていたのである。
特に行商人の話は念入りに頭に入れた。
その行商人達の話でも、歳火国王が「熊の如き男」「年配の小太りの男」「醜男」だという言葉は一つも出てこなかったはずである。
出てくる単語といえば、「生来の武人」「西の武王」「英雄王」「燎原の火の如き王」といった、どれも武勇を讃えるようなものばかりだった。
しかし、そこで示詩ははたと気がついた。
皆揃って武勇は称えてはいたが、そういえば、外見に関しては誰も言及してはいなかった。
示詩はさっと顔を青くさせ、小袖を外すと、真正面から熊男を見据えた。
少し威厳には欠けるものの、身なりは小綺麗だし、服だって上等な布をたっぷりと使った高価なものであったし、何より、小国とはいえ王族の一員である示詩に、これほど気安い口の聞き様。
―――まさか、この者が国王…!?私の夫…!?いえ、けれども…
示詩は、その予想を何度も打ち消しては頭に巡らせた。
必死にかき消そうとするのだが、熊男の遠慮のない笑顔を見ているうちに、どんどんとその予想は膨らんでいく。
更には、この天幕が今後己の住む場所で、一生狭苦しい思いをしながら、この熊の如き男につき従っていくしかないのだ、という妄想にまで至った。
自覚はないものの、この時の示詩は、長旅の疲れと緊張が溜まって、相当に冷静さを欠いていた。
それだからであろうか。
下手に座った熊男が立ち上がり、示詩の方へ近づいてきたことに、示詩は過敏に反応してしまった。
ちなみに、この時熊男がしゃべっていた言葉は、一つも彼女の耳に入ってきてはいない。
「それでは姫様、これから用意をば…」
「ひっ……」
示詩は、どうしたことかこちらに手を伸ばしてきた熊男の手から逃れようとして、思いっきり床を蹴って飛び退った。
「いやああっ、私は、私はあなたの好きにされるわけには参りませんわ!!」
なんといっても、示詩の理想とするところは「見目好く優しく逞しい殿方」なのであった。
その一項目に持ってきている当たり一番重要視している「見目好く」が抜けている男には、例え離縁を想定しているとはいえ、一時も側にいてほしくはない。
示詩は、頑としてそれだけは譲れなかった。
「ああっ、姫様、そちらに行かれてはなりませんぞー!そちらには…」
「私は、私は誰にも好きな様にはさせません!」
―――ごつっ!
喚きながら熊男の制止を振り払った示詩は、自分が何か硬い物にぶつかったことに気づいた。
…ごつ?
壁ではない、かといって、岩でもない。
適度にごつごつしており、適度に弾力性がある、妙に温かい「モノ」…。
示詩は青ざめさせていた顔色を、今度は真っ白に変化させた。
察したくはないが、勘のいい示詩はそれが何であるかに気づいてしまったのだ。
「い、いかん、姫様、はようお逃げ下されえぇ!!」
熊男の大音声が遠くで響いているかのようだった。
示詩は、らんらんとした目をこちらに向け、今まさに飛びかからんとしている大きな獣を目の前にしていた。
竜は、竜を扱い慣れている者以外が、みだりに触れてはならない―――。
大変気難しい竜などは、扱い次第でたちまち人間に死をもたらすであろう―――。
頭に叩き込んできた「歳火国見聞録」の竜の章のくだりがふっと頭に浮かんだものの、今となっては全てが遅かった。
全身が瘧のように震え、足も手も、まったく言うことをきかないのだ。
―――怖くて、どこもかしこも固まってしまっている。私は、こんなところで命を落としてしまうというの?
色とりどりの宝玉や布で飾られた竜が、その三本槍の刃のように鋭い爪が、振り下ろされようとうしている。
逃げなければ、頭では分かっているのに、体はびくとも動かない。
まさに絶対絶命。
しかし、あの熊男に嫁がされるくらいならここで息絶えても構わないかもしれないと、珍しく気弱な考えが頭をかすった時だった。
「天轟!!」
溌剌とした力強い声が、天幕を突き抜けようかというほどに響き渡った。
それと同時に、薄暗い天幕に一陣の風と一筋の光が入り込み、瞬く間に示詩を覆った。
そして、いつの間にか示詩は天幕の外へ突き飛ばされていた。
それは容赦のない、有無を言わさぬ力の塊が襲ったような衝撃だった。
「きゃあああああ!!」
無意識に示詩は叫んでいたが、恐慌状態は直ぐに去った。
周りに、外に控えていた赤社の兵や侍女たちが駆け付けた為だ。
「姫様!!」「示詩様、ご無事でしょうか!!」「おのれ、歳火国、これはどういうことか!」と口ぐちに言っているものの、皆その顔は青ざめていて、虚勢だということがもろ分かりである。
示詩はそれを見て、一気に現実へ戻らされたような心地がした。
「返答如何によっては、これ以上の無礼は我が国への不敬と取りまするぞ!!」
護衛隊長がそんな間抜けな口上を述べ、相対した歳火の兵士たちと、見かけは一触即発という緊迫な雰囲気になったかと思われた。
しかし、たった今示詩が投げ出されてきた天幕から一人の男が現れると、その雰囲気はまったく別のものへと色を変えた。
「あいすまなんだ、赤社の皆々様。何しろ事が急だけに、こちらも対応しかねた次第にて、重ねて非礼をお詫び申し上げる」
そう言って、中から出てきた男は素早く一礼した。
長い黒髪が乱れもつれて背中に垂れ、赤い布の見事な衣服も若干泥を被ってはいるものの、その男の気品は相当なものだった。
醸し出される並々ならぬ迫力に、その場にいた一同はたちまち気圧されてされてしまっていた。
「貴殿が、赤社国の一の姫、示詩殿であろうか?」
「え…ええ」
切れ長の赤い瞳が、示詩の姿を捉えた。
その瞬間、示詩は己の心臓が強く脈を打ったことに気づいた。
「これは、名乗りもせずに失礼致した。私が貴殿の夫となる男、座龍と申す者。以後、お見知りおきを」
「ざ…龍、様…」
示詩は、まったくそんな風に呆けて隙を見せるつもりがなかったのが、夫になるという「本物の」歳火国王を目にした途端、すべて忘れて魅入ってしまった。
やや荒削りで武骨な印象はあるものの、目の前にやってきた男は、大変に美しかったのだ。
それも、熊のごとくむくつけき男を目にした後だからか、非常に目が洗われるような思いまでした。
決して繊細な美しさではなく、むしろ全身から男臭さが漂う武人そのものの筋肉質な体つきだ。だが、それすら座龍を見目好く見せる要素であるかのように、彼は武人としての美しさを余すことなく持ち合わせた男だった。
示詩は、そういった男を目にするのは初めてのことだった。
「怪我はありませぬか?先ほどは火急のことながら、か弱きおなごの身を手荒に扱ってしまい、あいすまなんだ。この通り、お許しいただきたい」
歳火国王である座龍は、これまでの赤社に対する居丈高な趣向の数々からは考えられないほどに殊勝で、非常に礼儀正しかった。
かといって必要以上に謙っているわけでもなく、王としての威厳は損なわれていない。
示詩は、座龍が片膝をついてこちらの様子を伺っているのを、魂が抜けたようにぼーっと見ていた。
「示詩殿、いかがなされた?」
その、あまりの反応の鈍さに対して、さすがに座龍が、太い一文字の眉根を寄せて様子を伺った。
示詩は、上の空で「ええ」とか「はい…」といった返事を返してはいたが、周りで見ていた赤社の者たちはそんな示詩を見るのは初めてのことで、心配になって騒ぎ始めた。
「姫様、正気を戻されてください、姫様!」
護衛隊長が強く声をかけた所で、ようやく示詩は我に返る。
「そ、そのように大きい声で言われずとも、分かっております。私は大事ありません。皆、下がりなさい」
「しかし姫様、一体あの天幕で何があったのですか…?私たちは歳火に中に決して立ち入るなと止めおかれた故、中のご様子が分かりませなんだ…」
護衛隊長の言葉に、示詩が軽く落胆を覚えながらも、掻い摘んで説明した。
「どうということもありません。あの中には大きな騎竜がおり、私が誤って襲われそうになった所を、歳火国王陛下にお助けいただいたのです。…陛下、遅ればせながら、命を御救いいただいたこと、心から感謝いたしますわ。誠にありがとうございました」
「そのように堅苦しい呼称は耳に慣れませぬゆえ、どうぞ気軽に座龍とお呼び下され、示詩殿。貴殿のように美しき女性の命を救うなど、男として光栄の極み。感謝こそすれ、礼には及びませぬゆえ」
「まあ…、お上手ですこと」
「本当のことを言った次第にて、世辞などではござらん。美しさとは、示詩殿の為の言葉のようだ。輝くばかりのその美貌に、四竜の神々もよろめきましょう。まこと、私は幸せな男です」
「ま、まぁ…」
これでもかというほどの褒め殺しに、示詩の方がよろめいてしまいそうだった。
座龍に調子を狂わされているのは、この教養の行き届いた言動にあると、示詩は推測していた。
そもそもが、示詩は歳火の国王を武力馬鹿で脳まで筋肉で出来ているような野蛮な男を想定していたので、こういった言葉を尽くした世辞が言えるような人物とは、万に一つも思っていなかったのである。
それが、こうして目の前に現れた実際の歳火国王は、話に聞くより、噂で知るより、よほど「見目好く優しく逞しい殿方」に近い、理想の男性像そのものだった。
示詩は、己の予想が外れたことで、内心ではかなり面喰っていた。
刺し違えてでも寝首を掻いて王座を乗っ取ろうとしていたのに、その計画が崩れ去ってしまいそうな恐れを抱いた。
畢竟、それは示詩が歳火国王に惹かれたことを意味し、かつ自覚しているという事実を指している。
示詩は認めたくないながらも、一瞬で歳火国王・座龍に落ちてしまっていたのだった。