其の二 浮薄な武王の陰謀
歳火へ了承の意をしたためた書状を送ると、そこから話はあれよあれよという間に進んだ。
元より、歳火は赤社が断ることなど予想もしていなかったのか、婚礼の日取り、手順、その他諸々の事情などを次々に取り決め、赤社の口を挟む隙を与えなかった。
だが、そもそも赤社が何を言える立場でもない。
婚姻による歳火からの条約はこれ以上にないほど垂涎もので、財政支援から貿易などの規定緩和、さらには歳火お得意の軍事技術の一部提供など、何くれとなく与えてもらえる内容だった。
そこへきて赤社側に要求されたことといえば、一の姫の引き渡し、これのみである。
どのような思惑があるにせよ、赤社にとっては渡りに船。
出る文句も、快く飲み込んでしまおうというものだ。
どうせ愛想を尽かしていた娘の輿入れということもあり、国王夫妻ははいはいと、二つ返事で歳火の決定に従った。
輿入れの日取りが近づくにつれ、赤社の離宮「園恋宮」では、慌ただしく準備をする侍女でごった返していた。
「はい、はい、皆、急ぐのですよ。もう出立まで日がありませんのよ。そこ、手際が悪くてよ、もう少し手早く、かつ丁寧に扱いなさい。ああ、宝珠をそんなに大量に持っていっては、品を疑われますわ。そのぐらい、私の元で働くのなら覚えておいて」
右往左往する侍女の中で、ひと際声を張って指示を出しているのは、なんと嫁ぐ張本人の示詩であった。
姫らしからぬ、鬼気迫る表情で厳しく侍女たちを監察している。
これでは指示を受ける方もやり辛かろう、さもありなん、侍女たちの顔には「もううんざりだ」という台詞が張り付いているかのようだった。
示詩がこんな風になったのは、園恋宮の本来の主人であるはずの恋春が亡くなった5年ほど前の頃からだった。
国王に煙たがられ離宮へ移されてしまった恋春は、己の身を嘆いて酒と色に溺れるようになった。それがたたってか、若くして命を落としてしまっていたのだ。
示詩は、そんな母の自堕落な生活を見かねて、少しずつ宮の切り盛りをするようになっていた。
それがまた、拙いながらも目を見張るような手腕があり、宮の者たちもいつのまにか示詩を頼るようになっていた。
しかし、それだけで終われば美談でまとまるのに、そうはならないのが示詩という姫の性である。
自尊心の強い示詩は、言葉を真綿で包むということを知らないので、指示を受けた方は的確だが痛烈な一言を伴う言葉にいつも傷ついてしまう。
そのため、園恋宮で従事する者で、示詩を慕っている者は少なかった。
「ようやっと、わがままな女主人親子から解放されるのね」
「歳火ですって、野蛮な国にだけは行きたくないと言っておられたのにこの顛末ですもの、正直、いい気味よねぇ」
「これで肩の荷が下りると思うと、せいせいするわ」
こんな言葉が、園恋宮の者たちの本心であった。
そうして、示詩の監督のもとで拵えられた花嫁道具一式は、どこの国にも引けを取らない、完璧なものが揃えられて、あとは歳火へ嫁ぐのみとなった。
歳火と赤社を分断する山脈の中に、「黄峰」という峰がある。
岩肌が険しく、非常に足場の悪い山道が続くことで知られていて、赤社の方角から歳火へ渡るものは、よほどのことが無い限り通ることはない道筋だ。
その山道に、百人もの煌びやかな一団で形成された大行列が見られたのは、あとにも先にもこの時だけかもしれなかった。
行列の中心、ひときわ目立つ大きな輿には、赤社国の王族の証である穂の紋が刻まれている。
そして、輿に張り巡らされた薄絹の中に、居心地悪そうに収まっているのは、輿入れの最中である赤社の一の姫だった。
「すごく仰々しい花嫁行列ですなぁ、いくら可愛い娘の輿入れとはいえ、それほど財力のない赤社ではさぞ大変だったでしょうに…」
黄峰より一回り大きい峰「炎峰」の山頂で声を上げたのは、赤い衣を纏った集団の一人だった。
まだ幼さも感じられる線の細い金髪の若者が、遠眼鏡と呼ばれる真鍮の長い筒を片目で覗いていた。
「ずいぶんと情容赦のないことを言うじゃねぇか、お前も。国王の隣に収まろうってんだから、いかな貧乏な国の姫さんだとてそれなりに碌をつけてやらなきゃ、赤社の名が廃るってもんだろう」
そのいなすような声に若者が振り返ると、そこには頬に十字の傷を刻んだ精悍な青年が立っていた。
龍がとぐろを巻く派手な陣羽織を身につけ、露出した浅黒い肩や腕は漲る筋肉で覆われている。長い黒髪の間から見える瞳は赤く、親しげなようで鋭い。高い鼻梁の下の薄い唇は、乾いてかさついていた。
全体的に荒々しいが、どこか不思議と品の良さが感じられる青年である。
「ええ、ですが、たとえ碌がなくとも宝玉のような姫ですよ。赤社一だと謳われた美しさは、噂だけじゃなかったらしい。これは当たりでしたね」
「へぇ、お前がそれほどに褒めそやすたぁな。どれ、俺にも眼福を拝ませろよ」
「ええ」
若者は持っていた遠眼鏡を青年に渡すと、軽く下がって場所を譲った。
「いやあ、玉のように愛らしい…」などと若者が語っているのを聞き流しながら、青年は赤い瞳に視神経を集中させ、筒の中の小さな視界に望みの人物を探す。
だが探すまでもなく、その人物はすぐに目に入ってきた。
輿を覆う薄絹が邪魔だったが、その中にいる一人の少女はよく見てとれた。
若者が言った通り、輝くばかりの美女だ。
白い肌の上に行儀よく揃っている目鼻立ち、紅を水でぼかしたような淡い唇、座しているため判然としないながらすっと伸びた背筋から均整の取れているだろう肢体が予想される。
「確かに、迫力の美人だ。文句のつけようがねぇ」
「文句をつけるおつもりだったので?」
「美人で売り込んでおいて、いざ対面となったら十人並みが来る、なんてのはざらにあるだろう。性急にことを進めちまった身としてはそれなりに構えてたのよ。まあ、文句をつけるにも色んなやり方があるから、どっちに転んでもうまい汁は吸えるようにしていたがな」
「それはそれは、用心深いことで、よろしゅうございますな」
「まあ、どうせなら食いでのある方を選びたいからな」
そんな、いささか不躾な会話を交わしながらも、青年は舐めるように少女を観察していた。
その瞳に情欲の色は浮かぶものの、明るい光は映らない。
少女は、青年の好みとは少し違って、ふっくらとした頬の線と、意思の強そうな濃い眉をしていた。
その特徴を見た時、青年の中で、ぴんと閃くものがあった。
「おい、光野。分かったぞ」
光野と呼ばれた金髪の若者は、青年の少しうんざりとした声に首を捻った。
「いかがなさいましたか?座龍様」
それへ座龍と呼ばれた青年は真顔で、
「ありゃあ、まだ未通女だ。俺の趣味じゃねぇな」
と語って見せた。
その時、その場にいた者全員が心の中ではーっと長いため息をついたことに、知らぬのは座龍だけである。
「何を贅沢なケチをつけているんです。輿入れの姫が清らかなことは、僥倖とお喜びください。座龍様が普段相手にしておられる遊女小屋の端女とはわけが違うのですよ」
光野が眉間に人差し指を当てて釘を刺したが、座龍にはちっとも効いていなかった。
「俺はその端女の方が楽しみがいがあっていいがなぁ。ガキじゃなんにも出来ねえ」
「まったく、それがついさっき私を情容赦のないなどとたしなめた人の言葉とは…」
「まあ、ガキなら育てりゃいい話か。こうなった以上、お姫さんは帰すわけにいかなくなった。大事な人質だ、もちろん丁重に扱うさ」
「ぜひとも、そうなさってください」
こちらもうんざりした様子で光野が掛け合うと、遠眼鏡に熱中している座龍の横に、音もなく影が忍び寄った。
「陽炎か」
「御意。ただいま戻りましてございます」
別段その登場に驚くでもなく、座龍は陽炎と呼ばれた青年に視線を移した。
陽炎は、赤を基調とした衣を纏う集団の中にあって、一人だけ生成り色の地味な格好の痩せた男だった。そのせいもあってか、雰囲気が静かすぎて空気に混じりそうなほど存在感が希薄だ。
「で、どうだった」
鷹揚に声をかけた座龍の前に膝をついた陽炎は、淡々と必要最小限に述べる。
「は、周囲に怪しい影もなく、これといった動きは見られません。また、赤社の方においても、特筆すべき点は見当たりませんでした」
「そうか。わざわざ急を要させて道を迂回させた甲斐があったな。赤社に関しては予想通りだが、しかし、羨ましいほど平和ボケした国だな」
「このまま、赤社の列に加わりましょうか」
「お前なら造作もないだろうが、まずはいいさ。想像すると面白い図だがな」
存在感の希薄さも手伝って、陽炎が花嫁行列に混じるのは容易なことではあったが、それにしてもあの天人の祭列のように艶やかな列にあっては、逆に目立ちそうですらあった。
「しかし、座龍様、賊どもがどこに潜んだのかは、まだ詳細に分かっておりませぬ。このまま捨て置いてよろしいので?」
光野が懸念を正直に話しても、座龍は埒もないとでもいう風に首を振って笑い飛ばす。
「まぁな、どこにいるかは分からねぇが、少なくとも黄峰と炎峰で悪さを働こうなんて輩はいねぇだろうよ。ここは竜神に守られてる。あとは、あの風にも耐えなそうな奴らの胆力に頼むしかない」
座龍は持っていた遠眼鏡を光野に託すと、陣羽織を翻して踵を返した。
その横顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。
「それにどう転ぼうが、あの姫さんが俺の正室になることは、もう覆らない。姫さんに刃を向けたとあれば、それはことごとく俺へ刃を向けたことと同義になる。それこそ、情け容赦なく、な」
それが分かって馬鹿を起こす奴はいるまいよ、と言って、座龍はその場を後にした。
この男こそ、歳火国第二十一代王・座龍その人であり、赤社国の一の姫、示詩の嫁ぐ相手となる男である。
齢二十七となる男が、晩婚ともいえる形で正室を娶ったのにはワケがあるのだが、それはまだ語られぬ話。
終始見栄えの良い駒としか見なさなかった姫を、この時、歳火国の誰も、王でさえ人間として捉えていなかった。
極めて政治的、かつ自己本位な理由で己が大国へ嫁がされたことも、また、示詩にはあずかり知らぬことであった。
まだ誰も、この波乱の幕開けの顛末を予期せぬ今、時局はゆっくりと動き始める。
やがて、座龍という青年と示詩という少女に訪れる霹靂も、この時は地中深くになりを潜めていた。
第一章 わがまま姫と浮薄な武王・了