其の四、言祝ぎ
「けっ、しっかし、いつ来てもせせこましくて気に食わねぇ所だ。さっさとお暇してぇところだが、大敵に傷一つつけられねェと来たら一族のいい笑いモンよ。座龍、つまらねェ用足しが終わったらもう一戦ヤらせてもらうからなァ」
土色の薄汚れた頭巾から解放されて現れたのは、座龍から甘さを全て抜き去ったような、黒光りする刃物に似た顔だった。卑しさが滲み出ているような三白眼には光の映らない漆黒の瞳、頬や額と言わずいくつもの傷跡で武装されている凶器の顔面、瞳の色をそのまま写し取ったように尖った黒髪。長く伸ばした後ろ髪は、色とりどりの宝玉でいくつにも束ねられており、動くたびに跳ね上がった。おまけに体には言葉にも見える模様の入れ墨が無数に彫ってあり、やはりどれをとっても、「将軍」と言うには余りに物騒な輩に見える。
話が通じるとは思えない無教養な言動も目に余るし、これが右将軍・烈火とはやはりどうあっても示詩には信じ難い。
(あ、あのような者……)
絶対に近寄りたくはない、絶対に、という示詩の心の悲鳴を無視するかのように、不意に近づいてきた座龍が示詩へと水を向ける。
「さあ、姫さん。驚かせちまって悪かったな。あいつが、あんたに会わせたいと言っていた男さ」
「へ、陛下、悪いご冗談はお止めになっていただけませんか!?な、なにゆえ私があのように野蛮な方と……!」
顔が引きつっている示詩は、つい声まで裏返ってしまう。無情にも告げられた「会わせたかった男」の正体を知って先ほどよりもよほど逃げ出したくなっている。
「わー!なぁなぁ、烈火、すんげーベッピンがいんぞ、すんげー!俺あんな女見んの初めてだァ!」
「はぁ?冗談だろ、燃。あんな乳くさそうなガキ。おまけにお高くとまっていけ好かねェときていやがる。俺ァまっぴらだね」
頭巾を取って示詩の方に近づいてきたのは、先ほど烈火と共に進み出てきた一人らしかった。
騎竜からヒラリと落ちて、座龍の一回り以上は大きい体格をした赤髪の巨漢が、興味津々といった無邪気な笑顔を浮かべてやってくる。筋骨隆々、人ひとりは簡単に捻り殺してしまいそうな体躯とは裏腹に、その面立ちは意外なほど柔和で、烈火と違ってどこか親しみやすさすら漂わせている。
(こ、この私に、赤社国の姫であり現歳火国王妃でもある私に、下位の者の無礼を許すなど……!)
燃と呼ばれた男は、己の胸までも満たない小柄な示詩を体を折って無遠慮に見てきた。
傍からするとまるで大人と子供にしか見えないことだろう。
その余りの迫力に、下から上までじっくり観察される不躾を叱咤することも出来ず、示詩は体をのけぞらせることで視線から逃れた。
「座龍王、あれがアンタの嫁さんかい?」
「よお、燃。相変わらずでけぇ図体していやがるな。どうせ、道中美味い御馳走たらふく食ってきたんだろ?」
燃と呼ばれた巨躯の男の問いかけには答えず、座龍は軽い挨拶を交わす。
「そうなんだよ、ここに来る途中なんか、俺たちんとこじゃまずお目にかかれねぇうまそうなもんばっかで、目移りしちゃってさ~」とかなんとか、気軽に近況を話し始めた燃とは対照的な物騒さで、右将軍・烈火は乗ってきた黒竜の器具を整えつつ、控えている数人の兵に指示を出している。
「おめぇら、武器をしまいなァ。一応ここは王サマのお膝元だからな。ちぃとばかし大人しくしとかねェと銭をもらい損ねちまわぁ。……まあ、待遇によっちゃあ暴れまわってもいいがな?」
アーハッハッハッハ!と馬鹿笑いしだす集団にとうとう堪忍袋の緒が切れたのか、青ざめた顔で事態を見守っていた沃賀が進み出てきた。
「陛下、このような由々しき事態、前代未聞でございますぞ!せ、先代王がこの場にいらっしゃれば、一体どれほどお嘆きになられたことか……」
沃賀の叱責が鶴の一声となったのか、それまで静観して(あるいは腰を抜かして)いた貴族諸侯も口々に責め立て始めた。
「さ、宰相閣下のおっしゃる通りです!私たち貴族が陛下の横暴とも言える決断に賛同したのも、ひとえに『覇刃軌族を完全に従えた』というお言葉を信じたからこそ!ですが、これでは約束が違います!初めて緋竜城に招き入れた時と何一つ代わり映えしておらぬでは、話にもなりませぬ!」
そうだ、そうだ、と周りが囃し立てると、これに過敏に反応したのは座龍ではなく意外にも右将軍・烈火だった。
「なにィ!?おい、座龍!てめェ、『従えた』たぁどういう料簡だ、あァ!?俺たちゃてめェと取引したに過ぎねぇ!隙あらばタマ取って国を乗っ取らせてもらうって言ったよなぁ、俺ァよ。今だって、わざわざ来てやったのは敵情視察も兼ねてのこった!尻尾振ってる犬っころと思われちゃ我慢ならねぇ!」
「な!貴様、それはどういうことか!?」
「陛下!」
額に青筋を浮かばせて啖呵を切る烈火に加え、紛糾する騎竜兵や貴族達が口々に座龍へ不満をぶつけ始めた。あわや内乱か、という一触即発の緊張したその場を、「方々、どうぞ静粛に」という涼しげな声が制した。
「皆、目的をお忘れになってはおりますまいか?これは、我が歳火国の隆盛をさらに強固なものとするための遠征軍を奨励する式典でございます。確かに遅れてきた同朋の振る舞いには眉を顰めたくもなりましょうが、この場は祝いの席。まずは、我が歳火国の勝利のため、麗しき御方より祝いの印を賜ることが先決かと」
優美な仕草で、まるで観劇の舞台役者のような美声を響かせた左将軍・秋英は、いつも通りのゆったりとした足取りで座龍と示詩の前へ進み出た。少しも焦りや戸惑いの浮かばない整った顔は、激昂して取り乱していた沃賀を初めとした貴族諸侯を落ち着かせる役割を果たした。
「左将軍・秋英、よくぞ言ってくれた。各々の言い分は後でまとめてこの座龍が預かる。だがまずは、目の前の出征式だ。急を要して招集したのは、この、歳火国の新正妃となる『示詩』姫より、両将軍に言祝ぎを授けるためだ。左将軍・秋英、右将軍・烈火、前へ」
突如名前を出された示詩は、思わずぎょっとして隣に立つ座龍を見上げた。
「きっ……」
聞いておりませんわ、そのようなこと!と口にしようとしたら、間髪入れず座龍から二通の書状を手渡された。
「それを二人へ読み上げるだけでいい。今のあんたはそういう役目なんだ、頼むぞ」
小声で懇願され、「役目だ」と言われては示詩にはもう何も言えない。何より、左将軍がこちらへ水を向けたことで一応場が収まっているので、流れに乗らざるを得なかった。
「後できちんと説明していただきますわよ!」と睨みを効かせながら釘を刺し、示詩はしぶしぶといった体で書状を受け取った。
「俺ァ、んな娘っ子から祝ってもらうより、もっと胸のデケェ姉ちゃんに慰めてもらう方がよっぽどイイんだがなァ」
ぶつぶつと聞き捨てならない愚痴を吐きながら礼の姿勢を取り始めた烈火に、「なんですって」と怒鳴りたいのをぐっと抑えると、まるでそんな示詩の思いを汲んだかのように秋英が言った。
「口を慎みなされ、烈火殿。山猿とて芸を仕込めば礼儀を尽くすものですよ」
「あァ?何が言いてェんだ、優男。喧嘩なら全部買ってやンぜ?」
だいぶ横柄な態度で跪く烈火を諫める秋英に、今ばかりは示詩も加勢したい思いだった。
これほどの侮辱を真正面から受けたのは幾久しい。
少しもおとなしくしている気配のない烈火を、秋英はとどめの言葉で黙らせた。
「血気盛んは結構なことだが、炎竜神の加護を得たくば、しばらく口を噤んでおられよ。御前におわす姫が我らにとって勝利の女神となる御方と分かりませなんだか」
(え?)
しかしそれは、示詩にとっても思いもよらない言葉となった。
「はぁ?……んだよ、御大層な格好をしてやがると思ったらこの小娘、巫か」
「あるいはそれ以上に尊き御方だ」
(わ、私が、巫?何を言っているの、この者たちは……?)
だが、それについて考える隙を与えずに座龍が進行を促してきた。
「まずは左将軍の方からだ、お姫さん」
せっつくように裾を引っ張られ、今だ混乱する頭のまま示詩はぶっつけで本番を迎えることになった。
「さ、『左将軍・秋英。我が歳火に勝利をもたらす猛き者、その刃は永劫の道を開き、その才は戦陣を切り開く。歳火国正妃・示詩の名においてそなたの行く末を炎竜神の御加護により祝おう。勇猛なる者に御幸を。栄光なる歳火へ勝利を約すべし』」
その文面を読み上げながら、次第に示詩は、自分がどのような役割を持ってこの場に立っているのか理解せざるを得なくなっていた。
(私が……炎竜神の加護を与える者、ですって……!?)
この文面では、確かに右将軍・烈火に「巫」と呼ばれても不思議ではない。
それどころか、巫以外の何者でもない者になってしまう言祝ぎと言えた。
焦った示詩は、読み上げた直後に隣の座龍を見上げたが、そんな妻の視線を知ってか知らずか前方を見据えて鬨の声を上げた。
「我らが正妃により、今、左将軍の勝利は約された!皆、声を上げよ!」
―――オオオオオオオォォォォオオオオオオオオオオ!!!!!
地響きを起こしそうな唸り声が上がり、しばらくして落ち着くと、不安そうにこちらを見上げる示詩に座龍は片目を閉じて目配せした。
仕方なく、示詩はもう一通の書状を読み上げる。
「……『右将軍・烈火。まつろわぬ神より解き放たれし者、その腕は歳火の骨、その眼は歳火の血となりて同胞へ還る。歳火国正妃・示詩の名において慈悲深き炎竜神の御加護をその御魂に授けよう。我が同胞に御幸を。地を統べる歳火の栄華を約すべし』」
読み終えると、またしても座龍と兵達は鬨の声を上げ、場は異様な興奮で包まれる。
勇ましい咆哮を耳に捉えながらも、その実、示詩の耳には何の音も入っては来ないのだった。
―――今、己は何を読み、何と名乗ったのか。
書状を持つ手は震え、こめかみには冷や汗がつうっと伝い落ちる。
(私は……私は、巫女などではない。この世に生を受けてのち、一度だって神門に下ったことなどない。……またしても陛下の謀り事だというの!?)
震える手で二通の書状を持ちながら、示詩はもう一度文面を確認した。
『歳火国正妃・示詩の名においてそなたの行く末を炎竜神の加護により祝おう』
『歳火国正妃・示詩の名において慈悲深き炎竜神の加護をその御魂に授けよう』
やはり何度読み返しても「示詩の名において炎竜神の加護」と、書状にはそう書かれてある。
「さ、姫さん、ちょいと手を貸してくんな」
「陛下?この上、何を……」
まだ衝撃が立ち去らぬ自失状態の示詩の手を、座龍がおもむろに持ち上げた。
そしてもう一方の手で、やけに豪奢な金拵えの短剣を腰に下げた剣帯から抜き出す。
「すまねぇが、我慢してくれ」
「!?」
座龍の詫び言に驚いた示詩が抵抗する間もなく、抜き身の鋭い刃が示詩の白い親指に押し当てられた。それは軽く動いただけで深紅の血を生み出し、丸く玉を作る。
呆然とする示詩に構わず、座龍はその親指を、二通の書状の文面の終わりにそれぞれ押し付ける。
深紅の血溜まりは上質な紙に瞬時に滲んで、赤い花びらのようにぱっと彩られた。
そうして、示詩の血判がついた二通の書状は、そのまま二人の将軍へと下賜された。
「この言祝ぎを携え、両将軍は遠き東の地にて蛮勇と刃を交える。機は熟した。歳火の地が火竜神の名の元に一つとなる時を、今こそ我らで迎えようではないか!」
そんな勇ましい夫の声を、示詩は新たに玉を作る親指の血を見ながら、聞くともなしに聞いていた。
出征の式典は早々に切り上げられた。
先刻から座龍が口にしている通り、次の目的地へ移動しなければならないためだった。
このため、先だっての儀式のような真似事は一体何だったのか、座龍は一体己をどうしたいのか、示詩が聞きたいことは山ほどあったというのに、城を離れるということで大々的な隊列を組まれ、さらには座龍とは引き離されてしまったので機会は失われてしまった。
城門の前には、初めて入城した時とは比べ物にならないほど華美な金装飾の赤い馬車が用意され、先ほどの煌びやかな衣装を纏ったままの騎竜兵達が後ろに続いている。
一体この過剰なまでの仰々しさはなんだというのか。
己に用意されたゴタゴタな古めかしい衣装のことも含め、これは明らかに只事でない陰謀が頭上で渦巻いているに違いないと示詩は解釈した。
それを考えるだけでも頭が痛くなるというのに、更にそれを悪化させてくるのが先ほどの「右将軍・烈火」との対面だった。
「アレ」が座龍の言う合わせたい人物かと思うと、どうしても信じたくないという一心の否定的な気持ちが湧いてくる。
「正妃様、お加減はいかがでございますか?私、非常事態だったので大した介抱もできず、さぞお辛いことと思われますが、あちらに到着次第、すぐにでも手厚い処置を施させていただきますので」
心配そうに窺ってくる桃衣がそう言ったことで、示詩はそこでやっと、左の親指が傷つけられていたことを思い出した。
先ほどから考えたくもない現実の連続と、謎の胸の痛みの方が酷くて、すっかり実感できなくなっていたものらしい。
示詩と同じ馬車に乗っているのは桃衣の他に火乃と臙脂の二人で、外についている護衛は座龍が光夕と呼んでいた部隊長らしき騎竜兵と、知る限りでは秋英、そして光野の顔が確認できる。
引き戸になっている窓の隙間から除いただけではその程度の情報量だったが、恐らくどこかには「あの」陽炎が見張っているに違いない。示詩はぶるりと身震いを一つして、コホン、と咳ばらいをすると、気を取り直したように侍女たちに口を開いた。
「このような傷、私にとってはどうということもありません。それよりも、桃衣、そして、火乃に臙脂。そなた達に聞きたいことがあります。私のこの格好ですが、どう思いますか?」
ガタゴトと揺られる馬車の中、一同は一瞬シンと静まり返った。
だが、恐る恐るといった具合に、まず臙脂が口を開く。
「恐れながら、正妃様……。その衣装は恐らく、歴代の歳火国筆頭巫女が身に着けるものと非常に酷似しているものと思われます……」
「やはり、そうでしたのね。このように仰々しい衣装、そうとしか……。して、臙脂。歴代の王妃がこれを身に着けた記録はございまして?」
「私の知る範囲での答えとなりますが……恐らく、無いのではないかと……」
「記録にない、ですって?では、私のこれは一体何なのです!?」
誰にとも向けられない怒りに任せて言うと、今度は火乃が曇った表情でそれへ答えた。
「正妃様、これはあくまで私個人の意見であって、陛下の深い考えとは程遠い勘違いでしかないことかもしれません……ですが、もしかしたら陛下は、正妃様に竜神教における儀式の、巫女の役割を負わせたいのではないでしょうか」
「儀式の巫女ですって?何故私が?」
「はい、そこまでは分かりかねますが、これから向かう先は歳火における竜神教の本拠地、炎舞竜神殿でございます。先ほどの式典に筆頭巫女師を呼ばなかったことに加え、この度の正妃様の言祝ぎ、そして、右将軍・烈火様のご帰還。もしや、すべて繋がっているのではないでしょうか」
「陛下が烈火様を私に会わせたいと仰っていたのは、では今から向かう炎舞竜神殿でのなにがしかの事柄に関わることだから、と」
臙脂や火乃の意見から導き出される答えはそれしかなかった。
では、行ってみなければ分からないということか。
ますます頭が痛くなりそうな事実を導き出してしまい、軽く額を抑えた示詩は、隣で心配そうに窺っている桃衣にふと水を向けてみることにする。
「桃衣、お前はどう思います。此度のこと、私は急なことが多すぎて一人では容易には考えをまとめることすらままなりません。どのようなことでもいいから、考えをお聞かせなさい」
すると、桃衣は恥じ入るように一瞬頬を赤らめてから、おずおずと上目遣いで言葉を発し始めた。
「私は、そのぅ、火乃様や臙脂様のように、見識の深さがございませんので、あくまで感想でしかないのですが……」
「良いですわ。許しましょう、申してみなさいな」
「はい。それでは、僭越ながら……。あの、烈火様について、なのですが、ご存じであるかもしれませんが、あの方は異教徒の部族の王でございまして、これまで緋竜城に入られたのも一、二度程度のことなのです。私もお顔を拝見したのは初めてで……いえ、私のことはいいですね、それで、今から烈火様と共に炎舞竜神殿に向かわれるということは、もしや陛下は禊を執り行われるつもりなのでは、などと思いまして」
「禊?」
「はい、炎舞竜神殿には、筆頭巫女師の他に、大神官である燈源様もいらっしゃいます。お二人は陛下にとってもとても親交の深い方達なので、この機会にお引き合わせになる意図をお持ちなのではないかな、と」
「燈源……殿」
桃衣の感想は中々的を射た鋭いものだった。
燈源といえば、思い出されるのはあの蛮族の儀式の如き婚儀と、彼の熊のような容姿だったが、そういえば緋竜城で寝食し始めてからというものとんと姿を見かけない。なんのことはない、彼はこの国における最高神官であり、その職務を神殿にて全うしているに過ぎないのだが、もし火乃や臙脂、桃衣の述べた意見が本当だったとして、では残る最大の謎はいよいよ「何故示詩が巫女の真似事をしなければならないのか」という、それ一つになってしまう。
先ほどの言祝ぎにしろ、ただ「正妃」という名の元に臣下へ言葉をかければそれなりに格好はつくわけだし、わざわざ巫女のナリをして仰々しい言葉を並べ立てなくてもよかったはずだ。
(私が巫女の役割を負わなければならない、何らかの理由があるというの?)
そこで示詩は、はっ、と出征の式典での会話を思い出した。
あの時、両将軍は何と言っていた?
―――はぁ?……んだよ、御大層な格好をしてやがると思ったらこの小娘、巫か
―――あるいはそれ以上に尊き御方だ
(私が巫女よりも尊き存在、ですって……?それは、竜神教においては、よもや、)
恐ろしい考えに行き着きそうになった、その時だった。
「敵襲だ!皆、構えろ!」
「隊列を乱すな!陛下と正妃様に何人も近づけること罷りならぬ!心してかかれぇ!」
馬車の外が俄かに騒がしくなり、示詩はつい引き戸を開けて外を覗き見た。
「何事ですの?」
「正妃様、て、敵襲だそうでございます!」
「この時を狙っていたのかしら!?」
「……正妃様、お心を強くお持ちくださいますよう……」
侍女たちの進言を耳にしながらも外の様子を探ることに集中していると、「失礼します」と聞きなれた近衛の硬い声が近くでして、慌てて顔を離した。
「正妃様、光野でございます。只今前列に敵勢が現れました。絶対にこの馬車から外へはお出にならないで下さい。不安でございましょうが、窓を開けることもなりません。よろしいですね?」
「ええ、分かりましたわ。けれど一体、何者なんですの?」
「さあ、私どももあまりに突然でとんと見当はつきませぬが、恐らく野党の類でしょう」
白々しい、とは、示詩は言わずにおいた。
緊張しているように見えてその実落ち着き払っている様子から、明らかに光野は何か知っている風であったが、空とぼける態度を貫く心づもりでいるようだ。
示詩も慣れたもので、このような状況で我を通したところで自分の身が危険に曝されるだけなので、流されてやることにした。
「そう。それでは光野、私を全身全霊で守りなさい。もはや私は、そなた達にはそれ以外に望むことはありません」
「は、恐悦至極でございます。この身に代えてでも正妃様をお守りする所存でございますれば」
「誰がその身に代えろと言いましたか、そのようなことは論外です!そなたも五体満足で私を守りきりなさいというのです、これは勅命ですよ」
「は、はい……これは失礼いたしました、正妃様。この光野、必ず無事に正妃様を守って御覧に入れます」
「それでよいのです、存分に励みなさい」
きゃんきゃんと噛み付く示詩の態度に圧倒された様子で、光野はすごすごと持ち場へ帰っていく。再び引き戸を閉めた示詩は、乗っていた侍女全員から称賛の眼差しを受けた。
(あの優男風でいて食えない光野様をあのように威厳ある態度でやり込めるなんて、やはり正妃様はスゴイ!)
暴漢に身の危険を曝している状態で堂々としていられること自体がすでに規格外なのだが、三人の侍女はそれについては触れることすらしない。もはやそんなことは当たり前だと認識されているくらい、示詩の姫らしからぬ度胸の良さは折り紙付きとなっている。
従ってこのような危機的状況でも、なぜか「示詩が居るなら大丈夫だ」という謎の安心感が馬車の中には広まっていたという。