其の五 浮雲
まだ新しい、「風賀」と名の刻まれた墓標らしき石碑を背に、示詩は座龍と対峙している。
座龍は昏倒する前に会った時よりは幾分着崩した恰好で、炎を象った赤い羽織の袂にだらしなく腕を突っ込んで示詩を見ていた。
緩く笑ってはいるが、目元にはどんな表情も浮かんではいない。
彼にしては珍しく、どうやら機嫌を害しているらしきことが伺えた。
「俺の褒美を余計なお世話と取ったようだな、お姫さん。赤社じゃ、入っちゃならねぇような所に入るのが身を守る方法だとでも教えているのかい」
「へ、陛下、どうしてここが……」
「あんたの忠実な可愛い侍女が教えてくれたのさ、不肖の馬鹿息子に入れ知恵を吹き込まれて部屋を出たってな」
皮肉る様な言葉の端々に、今までは感じることが無かった様なトゲをいくつも見つけて、示詩ははっと気付いた。
『受け取るかどうかあんたの自由にしていいが、今回みてぇに、いつでも陽炎が守ってやれるとは限らねぇ』
(そうでしたわ、私はあの陽炎という者に監視されている……おそらく桃衣に聞くまでもなかったのだわ)
まさか襲われた同日に座龍が示詩の監視を外すわけが無かった。
良く考えれば分かるはずが、あまりの衝撃と怒りで我を失っていた示詩がそんなことに気付けるはずもなく、結局こうして報復という名の憂さ晴らしが見つかってしまうという憂き目に会ってしまった。
「初めに言っておきますが……竜脊様に責はございませんわ。私がせがんでここへ案内してもらったのですから」
「おーお、仲がよろしいこって。俺じゃなくて息子の許嫁として迎えるべきだったか、早まったかもな」
「陛下にとってはどの道同じことでございましょう。貴方は私を伴侶としてではなく、竜脊様の母として担う為にこの国に招いた。……後ろの石碑を見て、腑に落ちましたわ。私との間に子を設けぬと言ったのは、この方の為ですわね?」
座龍は頷かぬまま、真っすぐ示詩の方へ歩み寄る。
鎮火した赤の瞳には何の勢いも感じられぬというのに、その目には凄味だけが宿っていて、示詩は思わず後ずさっていた。
「……その問いに答えりゃ、あんたはこの先大人していてくれるんだろうな?悪いが俺は、褒美に見合わん駆け引きはしねぇ主義なんだ」
「恐れながら、先刻陛下に賜った『褒美』。囮とされた身には到底見合わぬものでしてよ」
示詩の強気の発言に、座龍がぴゅうっと口笛を吹く。
「言うねぇ。姫さん。いいだろう、あんたのその気風の良さに免じて追加してやろうじゃねぇか、『褒美』を。あんたの背中にあるそいつはな、俺の親友だったやつの墓なのさ」
「し、親友?」
てっきり血縁者のものだとばかり思っていた示詩は、あっさり明かされた真実にきょとんとして座龍の顔を見上げた。
示詩のその反応は想定していたのか、座龍はさして気にした様子もなく、更に歩み寄って墓石の隣に立った。
遠い目をして、石に刻まれた名をなぞる。
「どういうわけか、俺はガキの頃から親父にもお袋にも疎まれて育ってな。教育係だった朱平がいなけりゃ、燈源のオジみてぇに神官になるか、でなけりゃ城を出て盗賊の首領にでもなってたかもしれねぇ。そうならなかったのは、朱平と、その子供の光野、そして風賀がいたからだった」
「光野殿が……」
「風賀は俺の2つ下、光野は8つ下だ。学友としてつけるにゃ幼い方だが、それでも俺にとっては家族より近い存在だった。毎日城を抜け出しては奴らと遊んでた。親兄弟や貴族どもに何と言われようとどうでも良かったのさ、今が楽しけりゃ、それで。王位なんて、望んでもいなかった」
示詩がその過去を素直に信じることが出来たのは、ひとえに座龍の掴みどころの無い気性を知るがゆえだ。
王に収まっているのが信じられないほど、彼は気さくで奔放に見える。
その陰にちらちらと見え隠れする抜け目の無さは、それでは後天的なものか。
「だが親父は、俺が面白おかしく暮らしてることすら気に食わなかったらしい、そん時の歳火の国力不足もあるだろうが、よりによって業碧の姫さんと俺を番わせようとした」
「え!?業碧の姫と申しますと……では、藍姫様?」
「いや、名前までは知らねぇ。興味もねぇし、従うつもりなど毛の先ほども無かった。あの時の歳火は腐敗しまくってて、業碧から何度も攻め込まれては負け戦で終始した。だから婚姻による同盟の申し出が来た時にゃ、親父は涙を流してよろこんだろうよ。姫が誰であれどうでもよかったはずだ。番うのが俺であればな」
「……」
その話に抱く既視感をどうにも拭えない示詩であった。
どこかで聞いた様な、と思案していると、座龍が墓石の前の石段に腰を下ろし、その隣に示詩を促してきた。
腰を下ろす前に、赤い羽織を脱いで敷いてくれた所作には、さすがに王侯らしい品の良さが漂っていてどきりとする。
座龍と言う青年の魅力は、こんな風に、一概に言い表せないような随所にあった。
「当然何度も逆らったんだが、親父も馬鹿じゃねぇ、俺の『一番の望み』を分かってて、それを婚姻破談の条件に使って来た。まあ、俺も若かったし、今の竜脊よりも馬鹿だったもんで、それにまんまと乗っちまってな。そうしたら今度は親父の条件がどんどん難しくなっていった。……実は、俺が『武王』なんて呼ばれるようになっちまったのはこの辺のことが原因で、片っ端から反乱軍や盗賊どもの鎮圧に駆り出されるようになった。終いにゃ、歴代王の誰もが避けて通ってきた東の山岳部族の鎮圧まで任されちまって」
「存じ上げておりますわ。東の山岳部族の鎮圧は、陛下のお力添えがあったればこそのものだったと」
最たるものは業碧との大戦での勝利ではあるが、座龍が即位する前に成した功績も、聞こえは高い。
特に東の山岳部族の鎮圧は勇名轟くことになった歴史的な戦であった。
「そういう事情もあってな、俺は親父を追いこむことに成功した。そんで『一番の望み』を叶えようとした時、気付いたんだ。親父が、元から俺の望みを叶える気なんざなかったってことに」
「それは……つまり、どういうことですの?」
その前に『一番の望み』とは何なのかが気になって仕方無かったのだが、話の流れを途切れさせる気にはなれずに、示詩は促した。
「すでに婚姻は成立させられていたのさ。親父は業碧と手を組んだ上で俺を躍らせたんだ」
「そんな……!国力の弱まっている状態で、ましてまともに戦って勝てるような相手ではない業碧と、そんなにあっさりと王が手を組むなど!」
「さすが姫さんは察しがいいねぇ、その通り、業碧は親父と手を組んだその時から歳火を乗っ取ることを企んでいた。焦った俺は力のある貴族や家臣どもを片っ端から説得して親父に進言し、業碧に宣戦布告した。けどあんまり強引だったもんで、やっぱりどっかに
『綻び』が出ちまったんだ。その犠牲になったのが風賀だった」
「綻び……」
「風賀は俺の学友であると同時に優秀な斥候だった。業碧の『秘策』をいち早く掴んでいた風賀は、それを俺に伝えようと戦場にやってきて、そして俺をかばって死んだ」
「…………」
「風賀が死んだことで、俺は、それまでの己がどれだけ甘ったれてたかを思い知ったのさ。この墓石と庭園は、だから、そんな不甲斐ねぇ俺を隠すためのしみったれた部屋でしかない。姫さんが欲しがるようなもんは、ここには何にもねぇんだよ。……さあ、昔話はこれで終いだ。今度の褒美は満足だったかい?」
満足だったかと聞かれれば、示詩は首を横に振るしかない。
聞きたかったのは、知りたかったのは、そんな悲しい過去ではないのだ。
この庭園が秘されるに足る場所である所以が、座龍の本性をもっと掴みづらいものにしてしまうなどとは、示詩には思いも寄らないことであった。
それを知ったとき、示詩は、座龍へ抱く怒りの正体を垣間見た。
―――陛下を、知りたいと思っているのだ
示詩を褒めたいと言ったその口で正妃としての立場を他国に伏せていると無慈悲に告げ、大事だ、守りたいと言いながら囮として使う、その裏腹な言動に惑わされ、心を痛めつけられるのが嫌なのだ。
(惑わされる?心を、痛めつけられる?何故?この私が。赤社一の美姫と謳われ、叡智にも富むこの私が、ただ歳火の王座を奪い取るために攻略する相手を、何故このように気に掛ける必要があるのかしら?)
痛むのは心だけではない、赤社の一の姫としての自尊心は、この隣に腰かける歳火の王のせいで常に新しい傷を負っていく。
初夜を不意にされ続けていること、子供を作らないと宣言されたこと、そして、寵姫を囲っているのではという追及に、否を唱えなかったこと―――
「姫さん?どうしたんだ」
急に黙り込んでただ見上げてくるだけの示詩を訝しんで、座龍が声をかけた。
しかし相手はただ何事か考え込む視線をよこすのみで、うんともスンともしない。
それで座龍は、勝気な姫でも憐れみを覚えたのかと早合点し、何故か宥めるように言い含めた。
「こんな辛気くせぇ話をあんたが気にする必要はねぇさ。すべて終わったことだ。……実を言うと、あんたに勝手に動くなと釘を刺したのも、そういう不甲斐ねぇ昔の俺が顔を出したからでな。ついきつく言っちまったかもしれねぇが、本当に姫さんには無茶をしてほしくねぇんだ」
「昔の、陛下が?」
「……風賀は俺をかばって死んだと言ったろう。狙われていたのは俺だった。刺客は業碧が雇った灰露の術師で、避けようがなかったんだ。俺の目の前で刺されて死んだ」
あんたが襲われるのを見た時そのことを思い出しちまったんだ、と微笑する座龍の瞳に浮かぶ、鎮火した炎。
親友で学友だったという風賀の死。
―――もしかして。
示詩の中で何かが繋がりそうになった時、背後でがさっと葉擦れの音がした。
「竜脊」
驚く前に座龍の低い声が響き渡って、鬱蒼とした庭園に途端に緊張が走った。
「出て来いよ、居るんだろうが」
やれやれ、とでも言いたげな父の声に、渋々といった体を作った竜脊が出てきた。
「父上、母上だけやり込められるのは不公平だ、俺は今回は母上に味方した」
「今回『も』の間違いだろう。お前が黄詠に噛みついたのは知っている」
「あの年増は前から気に食わなかっただけだ」
実際黄詠と竜脊の折り合いの悪さは有名で、遡れば一歳にも満たない赤子の頃からだというから驚きだ。
不貞腐れたように顔を背けていた竜脊だが、庭園にやってきた当初とは比べ物にならないほど消沈している示詩を見つけると、不意に真顔になって座龍を見上げた。
「父上、俺は母上に『竜珠』の再来を見るほど評価している。面白がったことは認めるが、今回ばかりは父上のやり方には同意しかねると思ってここへ招いた。実際、何年も荒れ放題にしておくほど隠すような場所じゃない」
その言葉には、茫然としていた示詩もさすがにヒヤっとして、座龍を見る。
だが驚いたことに、息子の辛辣な言葉に憤った様子はなく、むしろ頭を掻いて恥じ入っているようですらあった。
「まぁ、なぁ。なんというか、姫さんを追ってくるまで、正直この庭のことは忘れちまっててな。そういえば、立ち入るのを禁じていたんだっけな」
「父上……」
さすがに竜脊もその言葉には呆れて、二の句を告げないでいるようだ。
抜け目がない様に見えて、どこか隙があるのも彼の正体を不確かにしている要因の一つだった。
「忘れていたというのであれば、母上が入室することに咎め立てする理由もないはず。もし責を負う時は俺が負う」
「ここに入ったことよりも、あれだけ忠告したにも関わらず動き回っていることに咎め立てしたのさ、俺は。陽炎も今はちょっとした用向きがあって城を出てる。こんな人けのねぇところで姫さんになんかあったら、今度はもう誰も助けてやれねぇ。竜脊、そうなったら、その責をどうやってお前が負うってんだ、え?」
その詰問にはさしもの竜脊もたじろいだ。
示詩は、驚きを持って、座龍が本当に己の身を案じていたことを理解した。
こんな風に人情味を見せる一面もあるというのに、さっきの屋上で聞いた真相には情容赦など一切無かった。
それだから、惑わされ、心を痛めつけられ、どうしようもなく気に掛けてしまう。
このような男を、示詩は座龍の他には見たことが無かったからだ。
「陛下、こたびのこと、褒美など無用でしたわ。私が愚かでした」
「な、なんだ、急に殊勝になって」
息子に続いて座龍もたじろぐほど、示詩の口から出たとは思えぬ言葉だった。
示詩は立ち上がって背後にある墓石をもう一度見つめた。
座龍の背と同じくらいの高さがある、竜の文様で飾られた黒い石だ。
その黒い石に、大きく刻まれている名前をもう一度読みあげて、示詩は息を飲んだ。
そして、覚悟を決めて、座龍に問う。
「陛下、お聞きしたいことがございます」
「なんだ」
「竜脊様のお母様は……陛下のご側室の方のお名前は、なんと仰るのですか?」
その瞬間、父と子の表情に浮かんだものを、示詩は幸か不幸か見ることはなかった。
「母上、それは……」
「基乃」
竜脊の声を遮るように、座龍は応えた。
感傷も拒絶も無い、平坦な声だった。
「もといの、様」
示詩は何故かどっと疲れを感じて振り向いた。
その先にあった座龍の表情はいつも通りの飄々としたものだったが、瞳の中にあるその色は変わらない。
戦の跡の、埋み火。
それを知った時、示詩は吐き出そうとしていた息を飲み込んだのだった。
「さあ、そろそろ戻らねぇと。この部屋を禁じる理由はもうあんまり無くなっちまったが、それでも今のところ禁止令を出してるんでな。体裁は悪い」
「父上が体裁を気にかけるとは」
「うるせぇガキだな。姫さんの身を案じているんだよ」
先刻の示詩の質問など世間話の一つのように流して、親子は気安いやりとりを交わした。しばらくして座龍が看守に話をつけに行くといって離れた頃、示詩はしゃがみこんで竜脊の視線を合わせた。
聞かずにはいられなかった。
「竜脊様、本当にお母様のお名前は基乃様とおっしゃるのですか?」
「ああ、本当だ。この城ではあまり口にするなと父上が言っている」
「そう……ですが……」
自分でもどうしてこれほど腑に落ちないと感じているのか、示詩は分からなかった。
それまで、まるで頼りにしたことのなかった器官が働いているのを、経験のない示詩では推し量ることが出来なかったのだ。
すなわちそれは、女の勘である。
「いいえ、はしたなく取り縋ったりして、申し訳ありませんでしたわ。私としたことが。さあ、竜脊様も参りましょう」
しかし勘などというものを信じない示詩はすぐに一笑に伏して立ち上がる。
衝動に突き動かされて愚を犯すなど二度とすまい、と、この庭園に来た自分の行いを恥じた。
だがそれへ、竜脊は待ったをかけた。
立ち上がった示詩の背中に、衝撃が走った。
「ちなみに俺の母上は、光野の姉だ」
―――え。
と声に出したかどうか、しかしその事実を知って示詩の胸に去来したのは「やはり」という思いである。
『朱平がいなけりゃ、燈源のオジみてぇに神官になるか、でなけりゃ城を出て盗賊の首領にでもなってたかもしれねぇ。そうならなかったのは、朱平と、その子供の光野、そして風賀がいたからだった』
―――私は多分、陛下の瞳に鎮火した炎を見つけた時、すでに知っていたのかもしれない。
「基乃、別名を、風賀という」
竜脊の幼い声を聞いた時、示詩の中の全ての疑問が一つに繋がって答えを導き出した。
―――陛下は、まだ愛しておられるのだ、と
心の痛みが、ぐんと増した気がした。
(わたくしは、あの方のことを想っているのかもしれない)
浮雲のように正体の掴めぬ男の中に、確かな愛を見つけた時、示詩は自分の中にあった僅かな想いをようやく自覚した。
ふわふわして正体の無いその思いも浮雲のように不確かなものでしかない。
だがいずれ、恐ろしいほどに確かなものになっていくのではと、軽い恐れすら抱いて竜脊を見つめた。
母上、これを口外したことは父上には秘密で、と幼い仕種で語りかける息子に、誰かの面影を見つけそうになって思わず目を反らす。
過去に座龍が欲した『一番の望み』など、聞かなくて良かったと思いながら。
(陛下の弱味など、ろくなものではありませんわね)
庭園を後にした示詩はその日、少しだけ少女の殻を破ったのだった。
第五章 花園は秘密の香り・了