其の一 わがまま姫の野望
西の大国「歳火」と北の大国「業碧」が一線を交え、歳火に軍配が上がったのは、もう七年も前の話になる。
果ては歳火の属国と成り下がるかと思われた業碧だったが、いくつかの条件を受諾すること、領地の一部を献上することで事なきを得た。
意図したかどうか、それは結果的に歳火の軍事力と懐の深さを近隣諸国に知らしめることとなった。
その後、戦の総大将を務め上げた歳火の第三王子「座龍」は名実共に歳火国第二十一代王となり、現在まで無二の武王として君臨し続けているのだった。
そんな歳火国王から、西南の中立国である「赤社」に使者が遣わされたのは、秋も暮れの終わり頃。
穀物の収穫を終え、冬に向けての蓄えの準備に差しかかろうという時期だった。
「なんと、困ったことになった…」
「ええ、本当にそうですわねぇ…」
謁見室の玉座に埋もれて腕組みする、痩せぎすの、少々威厳に欠ける男が赤社の王「律草」である。そして、その傍らに立って頬に片手をあてがってため息をついたのが、妃である「茶示」だ。
二人は、歳火の使者が持ってきた書状にもう一度目を通すと、やはりもう一度、二人揃ってため息を吐きだした。
書状は、婚姻によって絆を深め、両国の更なる発展を願いたい、と、つまりは婚姻による同盟の申し出であった。
これは、これといった特色も国力もない小国の赤社にとっては願ってもない申し出である。本当ならば一も二もなく快諾の返書を送りたい所だったが、向こうが「妃に」と指定してきた相手には、少々難があった。
「よりにもよって、あの娘とは…」
「ええ、よりにもよって…」
言って、またも二人は書状に目を落とす。
いくら読み返そうとも、その名前はきちんと記されているし、内容が変わることもない。
「一の姫、示詩」。
下の姫二人を早くに嫁がせたのは失敗だったか。よもや、歳火ほどの大国が赤社に婚姻を打診するなど思ってもみなかった当時、律草はすでに示詩以外の姫たちを他国へ嫁がせていた。
残るは示詩と、あとは王位を継ぐ王子たちのみ。
王と王妃は思わず頭を抱えたくなった。
示詩は、赤社一美しいと歌われた美姫だった。
だが、性格はその美しさと対極にあった。
蝶よ花よと甘やかされて育ったせいか、気位が高くなってしまったのだ。
「お久しゅうございます、父上、義母上」
鈴を転がしたような、というには張りのあり過ぎる高い声が響いた。
王室に張本人である示詩を呼んだ律草は、齢十八という適齢期をいくらか過ぎたおのが娘を改めて眺めやった。
ぱっちりとした濃緑の瞳に、意志の強そうな濃いめの眉、すっと通った鼻梁の下に咲く可憐な唇、それらをかたどる卵型の白い面。
黒く艶やかな長髪は後ろで簡単に結いあげられ、水のように滑らかに背中へと流れている。
前髪は、眉の上できっちりと揃えられていて、隣国の邪九馬で名物とされる白磁の人形のように愛らしい。
そして、漲る自信から来るものか、内側から漏れ出るような輝きが、彼女の美しさをよりいっそう顕著なものにしていた。
わが娘ながら実に美しい、と、律草は今度は感嘆のため息を漏らす。
秋らしい、薄紫や濃茶など落ち着いた色の裳装束をまとった示詩は、清楚で凛とした立ち姿とは似合わぬ、幾分か荒々しい足取りで王の前へ進み出た。
「うむ、よぉ参った、示詩。しばらく顔を見せなんだが、息災であったか?」
律草は、かたい雰囲気の示詩を和ませようと猫なで声を出した。
しかし、顔を見せる機会を作らなかったのは王その人である。それを知らぬ示詩ではなく、無理に親密さを作ろうとしている父を無視して本題に入った。
「そのように要領を得ぬお話よりも、一体どういった御用がおありで私をお呼びになったのか、そちらをお聞かせ願いたく存じます」
小さくとがった鼻をつんとそびやかせて、示詩は睨むほど強い視線を王へと向けた。律草は、わが娘ながら自分よりも自身に満ち溢れている瞳に、一瞬たじろいでしまう。
示詩は、律草が若い時分に、後宮の位の低い側室に産ませた子だった。律草には、示詩のほか二人の娘と三人の息子がいたが、その内、一番身分が低いのが示詩であり、しかし、一番気位が高いのも皮肉ながら示詩だったのである。
それでも、幼い頃は可愛さの余りなんでも言うことを聞いてやっていたが、妙に賢しら口をきくようになってきた十歳前後からは、厄介者を追い払うように母・恋春の離宮へ住まわせていた。
それ以来、示詩は催事や有事の時ぐらいしか王宮には呼ばれなくなった。
その罪悪感もあって、律草は示詩にだけは威厳ある王の態度がとれないでいるのだった。
「……しかし、立ち話では辛かろう。そこの椅子にかけなさい」
「いいえ、私はここでよろしいですわ。それで、話とは一体どのような」
堅い口調で頑として先を促す示詩に、王の隣にいた茶示がほう、と息をついた。
茶示は、この娘の気位の高さと小賢しさに、出会ったときからうんざりとしていた。
だが、このように長い時を経てもまだ落ち着いた娘らしさを持とうとしない示詩に、今は苛立ちよりも憐れみが先だって感じられて、義母として複雑な気持ちになるのだった。
「これ以上の会話は無駄だということですね。分かりました。私の口からお話ししましょう。示詩、あなたに、歳火国から縁談のはなしが来ました。お相手は、勇名高き現国王座龍殿です。これがどういうことか、聡いあなたは分かりますね?」
煮え切らぬ王に代わり、妃は一気に用件を述べた。
最初こそ驚きに目を大きくした示詩だったが、話が途切れる頃には落ち着いた表情に戻っていた。
「ええ、義母上。要するに、私を人質として、同盟を組むということですわね」
「な、なんということを…っ」
示詩のあからさまな言葉に、今度は王と王妃が目を丸くする番だった。
「だってそうではありませんか。我が国より数倍国力に勝る歳火が縁談を持ってくるなど、いくら私が並みならぬ美貌の持ち主とはいえ利益が少なすぎます。ようは、中立国である赤社を、いざという時のために歳火側に取り込もうというのでしょう。歳火らしい、いかにも野蛮な発想ですわね。お断りさせていただきますわ」
示詩は一息に告げると、くるりと踵を返して出て行こうとした。
やはりそうきたか、と思いながらも王は慌てて引き止める。
「ま、待つのだ、示詩!そのように、決断を早まらずともよかろう!歳火の王であれば、お前が常々口にしていた理想の相手に不足ないではないか!何の不満があるというのだっ」
律草の隣で、茶示もこくこくと首肯する。
示詩は、王の言葉に反応してくるりと振り向いた。
「理想の相手、とは?」
手ごたえありと踏んだ律草は、さらに勢いをつけて歳火の王について知っている限りの情報を伝える。
「そうだ。お前は小さいころから、『嫁ぐなら一番に位の高い、見目好く優しく逞しい殿方のもとが良い』と申しておったではないか。歳火の座龍殿は、身分はさることながら、見目好く、下々の者にも親しげで、なおかつ列強においても並ぶものなき武勇の持ち主。まさに、お前が求めた通りの殿方であろう」
実際のところ、律草は七年前の戴冠式の時の一度きりしか面識はない。外見以外は噂から得た知識がほとんどである。
それにしても、一番に位の高い、見目好く優しく逞しい相手など、この乱世においてほとんど巡りあう可能性はないだろう。
まして、赤社のように土地柄が良いことぐらいしか取り柄のない弱小国では、不可能に近いほど過ぎた望みである。
それを逃す手は、示詩にとってもないはずだった。
律草の思惑どおり、示詩は「理想の殿方」という言葉に著しい反応を見せ、眉間に皺を寄せて何事やら考えていた。
さもあろう、示詩ほど世事に長けている者なら、このようなど田舎の姫が、歳火ほどの大国に嫁げるなどまたとない好機であることを分からぬはずがないのだ。
「…まあ、百歩譲って、位の高さと見目好い点は良しといたしましょう。ですが、歳火といえば軍事国家とは名ばかりの卑怯者の国ではございませぬか。先の戦でも、卑怯なる手段を用いて勝利を得たと聞き及んでおります。そのような蛮族の王、私に相応しい理想の殿方であろうはずもございません」
口調はきついものの、示詩の頬は少しだけ朱がかって血色が良くなっている。
律草は、この小賢しい姫の詰めの甘さを知っていて、それが今でも変わっていないようなので、内心ほくそ笑んだ。
こうと決めたら意志を曲げぬ示詩が、百歩譲って、など殊勝な言葉を出したのは、合意の色ありということである。それでないなら、律草の説明を聞いた直ぐ後にでも「御前を失礼いたします」などと言ってさっさと退室していたことだろう。
あとひと押し、律草はそう睨んで、決め手となるであろう一言を添える。
「野蛮、野蛮と申すがな、示詩。それならば好都合ではないか。あちらの国では、女人も権力を手にすることができると聞く。もし座龍殿がお前に見合わぬ殿方であれば、策を弄して寝首をかけ。そなたの色香を用いれば容易かろう。そうして、王妃という権利を行使してお前好みの男と今度こそ添うが良い。どうだ」
示詩は、今度は顔を俯かせて考え込んだ。
そのかわいらしい顔をどのように歪ませて思考に耽っているか窺い知れぬが、律草に手ごたえはあった。
「……それもそうですわね。私ほどの美姫が、歳火で甘んじられようはずもありませんもの。果ては邪九馬の皇妃にもなれるほどの美貌、惜しんでどうなるというのでしょう。承知いたしましたわ、父上、義母上。私、座龍様の妃となり、見事歳火を乗っ取ってご覧に入れましょう」
険のあった瞳の輝きが、今度は野心で燃え盛る炎の光にとって代わった。
これでいて用心深い性格の示詩が、こうすんなりと転ぶのも珍しい。
そう怪訝に思いはしたが、律草はこれで厄介者を嫁がせられると分かってどっと肩の荷が下りた。
傍らでほっと息をついた妃も同じ思いなのか、目じりの皺を深めて安堵の笑みを浮かべている。
だが、顔を見合わせたところで、二人は一抹の不安を心によぎらせた。
意気揚々と謁見の間を去ろうとしているその華奢な背中に、なんらかの不吉な予感を感じてしまったのだ。
杞憂であってほしい。杞憂であれ。
そう願いはするものの、示詩がこれから本当に歳火で謀反を起こしかねないことを思うと、心痛の種は増えるばかりであった。
こうして、いささか間違った方向へ話がついてしまった示詩の縁談は、無事快諾の一途を辿ることになったのだった。