其の二 狙われた正妃
火乃と臙脂という、まったく対照的な侍女二人を得て数日。
示詩の周りは楽になることが増えたが、同時に妙な出来事も増えていった。
まず、身の回りのことを任せられるようになった分、大事な物が無くなることが頻発した。
「火乃、この前鏡台に置いておいた、鳥の形の髪飾りを見ませんでしたか?」
「鳥の形の髪飾り……。さあ、私は見た覚えがありませんけれど」
「そうですか。確かにこの上に置いておいたはずなのですが、変ですわね」
あれは確か母である恋春にもらった数少ない遺品の一つだった。
自分ではそれほど大事にしていたつもりがなかったが、無くなってみるとしきりに胸がざわついて妙な焦りが出始める。
思いのほか大切だったらしいと、示詩は今更ながらに気づく始末だった。
「正妃様……。頼まれていた調査書類をまとめておきました……」
「あら、ありがとう、臙脂」
臙脂が女学校にて優秀な成績を修めていた者だと知り、示詩は城内(おもに「奥」)の改革を進めるための助手を任せたのだが、どういうわけかその書類に取りこぼしがみられることが多い。
「あら、臙脂。ここと、ここの箇所、確か私は地方における水質の調査を頼んだはずなのだけれど…おかしいですわね、土地の作物の取れ高に変更されていますわ」
「……私は、言われたとおりに調査内容をまとめただけですが……」
火乃も臙脂も、知らぬ存ぜぬで失敗を繰り返すばかりだ。
困るのは、それを二人とも反省する様子が見られないということだった。
「こんなことでは困ります。そなた達、私に人生を賭けてきたと言いましたね?それなのに、自らが足を引っ張っているようでは本末転倒ですわ。立場を有利にしたいというのであれば、もっと気を引き締めてもらいませんと」
「申し訳ありません、正妃様。ですが、私たち、正妃様にお仕えするのは初めてでして……。それに、異国の赤社の方にお会いするのも初めてなのです。ずっと実家とこの城で暮らしてまいりましたもので……」
「桃衣を御覧なさいな。この者など、実家と城どころか、都の貴族達の中で生活するのも初めてなのにこんなにしっかりしていますのよ。少しは見習ったらどうなのです」
「……桃衣様は、私たちと違い、余計な知識がついていない分、吸収も早かったのではないかと……」
ああ言えばこう言う火乃と臙脂に、がみがみと口うるさく説教するのが日課になりつつある昨今、さらに示詩の周りに変化が起き始める。
―――ガッシャーン!!
「きゃあああ!?」
「せ、正妃様!!ご無事でございますか!?」
光野のもとへ意見を聞きに行こうと思い立った示詩が、桃衣と連れ立って緋竜城の三階付近を歩いていた時だった。
突然、頭上から小さな壺のようなものが落ちてきて、危うく示詩の頭に落とされる所を間一髪で方向が反れたため、無事逃れられた。
「い、い、一体なぜ、こんな所に壺が……」
「桃衣。そなたも覚悟しておきなさい。これが、この城における権力者に逆らった結果です」
「せ、正妃様、それはまさか……」
「私が変えようとしていることを快く思っていない者など、この城にはごまんといます。そなたとて分かっているでしょう。改革など生半可な覚悟では起こせませんわ。このぐらいのことは予想の範囲内です」
「で、ですが、正妃様を傷つけようとする者がいるなんて、とても信じられません……。何かの間違いなのでは……」
「これがもし一度だけで終わったのであれば、そなたの言い分も受け入れるとしましょう」
しかし、吹き抜けになっている階段を歩いていた時だったので、うっかりして壺を落とすなどあり得るはずもなく、明らかに何者かの作為を感じる出来事だった。
示詩は青ざめながらも、その作為に身に覚えがないとは言いきれない立場の危うさを改めて実感していた。
(おそらく殺すつもりはないのでしょう、ただの脅しのはず。そうしてあわよくば私を体よく追い払うつもりなのだわ……。そうはいくものですか)
生来の勝気さに加え、卑怯な手を用いての妨害行為など見過ごせるはずもなく、示詩は自分の身を危険にさらした者を徹底的に洗い出すことを決意した。
…が、段々座龍をその気にさせるどころではなくなってきたことに気づくと、ため息を吐かずにはいられなかった。
(こんな予定ではありませんでしたのに……。というよりも、一体、あのお方はどこで何をしてらっしゃいますの!?二か月近くもお渡りにならないどころか、顔を見たことすらありませんわ!)
示詩としては城内の改革よりもまずは自分の足場を固めたい。
そのためには何よりも己が夫がまず必要となってくるのだが、待てど暮らせどその巨躯を見かけることはなく、結果、示詩は未だに初花を守ったままだ。
(嫌がらせなど私が無視して我慢してさえいればその内収まるでしょうけれど、子を宿すには待ってばかりいられませんわ。なんとかしなければ……)
と、身の危険よりも先の心配をする示詩は、この出来事についてそれほど重要視することではないという方向に片づけてしまった。
ところが、事態はますます深刻を極めて行く。
まずは示詩の身の回りの物が忽然と姿を消すことは日常茶飯事となっていき、外(城内)に出れば物は落ちてくるしうっかりした侍女や侍従の持った水やスープをかぶることになるわ、税制改革の為の調査を頼んだ者の安否が不明になるわ、終いには不審な脅迫状まで届くわで、足場を固められるような悠長な状況ではなくなっていった。
そうして、とうとう極めつけの事態が起こる。
「正妃様、どなたかから書状が届けられましたが……」
「またくだらない内容ではないでしょうね。城を出て行けとかいう……」
「ええ、でも正妃様、この印章をご覧くださいませ」
そう言って火乃が持ってきたのは、何の変哲もない封書だったが、綺麗に折られた紙の端の方に、龍を象ったような赤い判が押されてあるのを見つけた。
「あら、これは……!」
「どうしたのです、桃衣?」
近くに居た桃衣が覗くと目を丸くして顔を喜色に染めたので、何事かとそれを見る示詩に、彼女はやや興奮気味に説明し始めた。
「正妃様、この印章は紛れもなく陛下の龍印でございます!これは陛下以外の者が使うことは決してなく、また、送られる相手方もごくごく少数のお方に限られます……私がこのお城にお招きいただいたのも、この御印の書状を頂いた時でしたので、これはもう間違いないかと!」
「正妃様、中を確認されてはいかがでしょう」
興奮する桃衣とは正反対に落ち着いた臙脂がやってきて、冷静に注進した。
示詩が頷いて中を改めると、いやに達筆な字がまず目に入って来て、座龍らしいと思う半面、その内容は目を見張らずにはいられない類のものだった。
「と、とても信じられませんわ……陛下からこのような文が届くなど」
「な、なんと書かれてあったのですか!?」
興味津津の桃衣に、示詩は文をぎゅっと両手で握ってわなわなと震わせると、ぽつりぽつりと文面を読み上げ始めた。
「き、『距離を置いてしまってさぞお寂しい日々をお過ごしかと思いますが、それもすべてあなたが美し過ぎて触れることすら躊躇われたためです。どうぞ、哀れな私にそれでも情を寄せていただけるのであれば、無為な日々を取り戻す機会を頂けないでしょうか。日が中天に差しかかる頃、最上階でお待ちします』……」
―――罠ではないかしら。
座龍の人となりからはあまりにかけ離れた、いかにも胡散臭い文面だったため、示詩は読みあげてすぐに文の出所を疑った。
だが、感激したように「やりましたわね、正妃様!」と火乃が瞳を潤ませて喜ぶので、その大仰な様子になんとなく言い出す機会を失ってしまう。
右を見ても左を見ても、侍女達は喜ぶばかりだ。
「けれど、どうして最上階なのでしょう?あの場所は確か、立ち入りが禁じられている場所の一つだと聞いていたけれど……」
火乃と一緒になって瞳を潤ませていた桃衣が、そんな示詩の疑問に涙声で答えた。
「せ、正妃様、最上階が立ち入りを禁じられている理由は、他の場所に比べてとても分かりやすい理由なのです」
「と、言うと?」
「陛下が特にお気に召されている場所だからと、それのみでございます」
「まあ……。呆れた」
思わず口に出してしまうほど単純で子供っぽい理由に、示詩はなんだか毒気を抜かれた気分だった。
そしてこの文が、本当に座龍本人から届けられたものかもしれないと信憑性が高まっていくにつれ、示詩の小さな胸が段々と速まって全身に熱い血を送り始めた。
(ど、どうしたことですの?べ、別に、文を送られただけですのに……。というよりも、この文は送られて当然ではありませんか!初床を不意にしたうえ、いつまでたっても妃の元に現れない夫の、お詫びでしかないのですから!)
心臓がどくどくと大きく鳴っているのを必死で押さえようと、示詩は必死で考えられる限りの悪態をつく。
その間に、侍女達はやっと主人達のまともな逢瀬の機会がきた、ということで、ここぞとばかりに念入りに衣装や化粧の支度を始めていた。
「あの雲みたいに掴めないお人柄の陛下が、これほど熱くて素敵な恋文を送られる方だったなんて……私、少し見直しましたわ」
「火乃様、それもこれも、すべては正妃様のお美しさによるものです、何も不自然なことではありません」
「……最上階は、陛下の許可なしに理由もなく入れる所ではありません。それを考えれば、正妃様は陛下の懐に入ることに成功したも同じこと……」
「まあ、臙脂殿、何て素晴らしいことでしょう!さあさあ、正妃様、腕によりをかけてお支度させていただきますので、あとは私達にお任せ下さいませ」
火乃が張り切って言うので、示詩は一瞬湧かせた疑心も忘れ、座龍からの初めての呼び出しに、少しだけ心を浮き立たせていた。
(べ、別に、呼び出しに応じなくては、お可哀想だから……、い、いいえ、子作りまで持ち込むには絶好の機会だから、ただそれだけの理由に他なりませんわ!)
もちろん、あくまで意地を張り通したままだが。
そうして数刻ほど経って出来上がったのは、華美でありながらも控えめで上品な、常よりも幾分か重々しさを増した衣装の美姫だった。
「せ、せ、正妃様……!なんとお美しい……!」
「腕によりをかけた甲斐がありましたわ!どこからどう見ても歳火一の傾国の美女でございます!」
「……天井知らずのお美しさとはまさにこのこと。私、初めて目の当たりに致しました……」
三者三様の感嘆の言葉にいささかむず痒くなりながらも、まんざらでない示詩は決戦(?)に向けて自信をつける。
結い上げた艶のある黒髪には歳火特産の宝玉「煌玉」を銀縁の花細工で彩った素晴らしい意匠の髪飾り、華奢な身を包む衣は控えめながら鮮やかな緋の色味を活かした衣装、そして、鏡の向こうにはいつもより数段化粧の濃い顔。
なんだか落ち着かない気分になった示詩だが、それもこれも全ては座龍を落として子供を産む為だと思えば踏ん切りがついた。
「それでは行って参りますわ。供は……そうですわね、やはり桃」
衣、と続けようとしたら、遮るように火乃が「私が参ります!」と率先して手を上げた。
「そなたの気持ちは嬉しく思いますが、やはりここは桃衣に任せたく思います」
きっぱりと言った示詩に、しかし火乃は食い下がった。
「恐れながら、桃衣様はこの城へ上がってまだたったの半年近くでございます。最上階へ立ち入ったことなどないのでは?」
「ええ、その通りですが、火乃様……」
弱々しく告げた桃衣に、火乃は申し訳なさそうに、しかし強い口調で進言した。
「案内役としては、城へ上がって一番年数の長い私が最適かと存じます。有能な桃衣様に限って失態はないかと思われますが、それでも経験が物を言うのも確かであるかと……」
示詩は桃衣に目顔で確認すると、火乃の言葉に納得した彼女はすんなりと辞退した。
「正妃様、私、こ度は陰ながら応援させていただきます。その代わり、今宵は精のつく献立を用意させていただきますので、存分におふるい遊ばされて下さいませ!」
「……分かりましたわ。それでは桃衣、あとはよろしく頼みましたよ。臙脂も、桃衣を手伝ってあげて下さい」
ふう、と息を吐いてから示詩は了承した。
本来は一番の側付きである桃衣を伴わなければならないはずが、こうまで火乃に強く出られては、身分も低い桃衣では遠慮が先だつだろうと踏んだのだ。
「桃衣殿、正妃様の御身の無事は私が確約いたします。安心してお待ちくださいませね」
「はい、火乃様。何卒よろしくお願いします」
ふっくらとした頬を赤くさせた桃衣は、実にほんわかとした笑顔で送り出したのだが、それを受けた火乃がどこか仄暗い笑みを浮かべたことには気づかぬままだった。
そして、やはりどこか心配げに閉められた扉を眺める桃衣の後ろで珍しく不安を露わにした表情の臙脂を見ることも、やはり無かった。
当然、見送られた示詩はなんら違和感を抱くことなく屋上へと向かった。
吹き抜けになっている城の螺旋階段を登り、王と正妃の寝室のある回廊を抜けると、妙にこじんまりとした木造の階段が見えてきた。
最上階とはすなわち屋上であり、神事や籠城の際にしか使われない場所であるため、おいそれと万人が訪れることは出来ない。
王と王妃の寝室を通らなければ辿りつけないことからも、その秘匿性は伺い知れる。
そして極めつけは、「王が気に入っている場所だから立ち入りを禁じられている」。
(陛下が気に入っている場所とあっては、じっくりと見ておく必要がありますわね。ようやく、王位簒奪の足がかりが見え始めたというものですもの)
心中でそんな野心を垣間見せておきながら、いつもより重い髪飾りをしきりに気にする示詩は、自分が幾分浮足立っていることに気づいてはいなかった。
それは、己の目的の成就への喜びと、乙女らしい胸の疼きがない交ぜになって、色ごとに疎い示詩では区別が難しかったためだ。
しかし、どうあれ久々に浮き立つ気持ちを存分に味わっている示詩であったので、いつの間にか火乃がやや斜め後ろに下がって歩き始めたことには特に疑問を抱かず、そして、相変わらず供の一人しかつけられずに行動する身の上であることには、もちろん頓着せず屋上に訪れた。
示詩は、己が今、何者かに狙われている危うい立場であるということを、すっかり頭から追い出してしまっていたのである。
「まぁ、なんと素晴らしい眺めなのでしょう!」
狭い階段を登って重い鉄製の黒い扉を開けば、眩い光と共に、歳火一帯を全て見渡せるのでは、というほどの眺めが視界に飛び込んできた。
歳火の首都、郡雷は、緋竜城を中心として円状に広がった都である。その為、最上階からはどこを見渡しても郡雷の城下の様子を一望できる。
頭上には思いのほか近くに雲を見つけることができ、なんだかそこから飛んで行ってしまえそうなほど空を身近に感じることが出来た。
(赤社の城はこの半分もない平城ですもの。これほど空を間近で見れるなど……)
座龍が気に入っている理由がなんとなくわかった気がして、示詩は自然と笑みを作る。申し訳程度に飾られた観葉植物をよく見ようとして、赤い塗料で塗られた外壁に近づいた、その時だった。
「誰!?」
その背丈ほどの観葉植物の陰に、誰かの気配を感じて、示詩はとっさに身構えた。
そして、はっと我に帰る。
―――誰だ、などと、座龍陛下以外に誰がいるというのだろう?
そう、あまりの景観の素晴らしさに心を囚われていたものの、ここへきた本来の目的は座龍の熱い恋文による呼び出しである。
イマイチ目的ははっきりしないものの、二月近く無視され続けてきた示詩にとってこれを逃す手はない。まさに藁をも掴む思いだった。
「座龍、陛下……?」
しかし、影に居るらしき人物は、一向に返事をよこさず姿も見せない。
もしや「あの」座龍に限ってそんなことはないだろうが、もしや照れているのだろうかと、影に隠れている人物の心中を察して示詩も声を抑える。
(な、何故だか私まで緊張してまいりましたわ。火乃に言って、呼んできてもらおうかしら。……あら?そういえば、火乃の姿も見えませんわね……)
きょろきょろと最上階を眺めても、だだっぴろいだけの屋上には誰の姿もない。
かといって、この観葉植物の影に隠れているその人物が、火乃だとは、示詩には到底思えなかった。
(何か変ですわ)
ここへ来て、示詩はようやく自分が何者かにつけ狙われていたことを思い出した。
(ま、まさか)
しかし、気付くのが幾分遅すぎた。
「歳火国王妃とお見受けする。御覚悟を」
低い声が聞こえたと同時に、観葉植物の陰から目に見えぬほどの速さで黒装束の何物かが飛び出してきた。
「きゃああああああ!!?」
驚いて思わず大声を張り上げた示詩も、そんなことは何の役にも立たないことをもちろん知っている。
だが、状況は絶望的だった。
はめられたのだ、と気付いた時にはすでに手遅れだった。
もう終わりだ、と覚悟して目を閉じた。
―――きぃぃぃ―――…ん。
え、と思った時には、自分の体が何者かに抱えられていた。
いつかもこんなことがあったと思い出そうとして目を開けると、何の色も映していない漆黒の瞳が無心でこちらを覗き込んでいた。
「そ、そなた……陽炎、といいましたか?」
「御意」
目元以外は生成り色の布で顔を覆っている、その独特の身なりは、いつか竜志学所の研究塔で紹介された座龍の腹心、陽炎のものだった。