其の一 嵐の後の静かな始まり
「それにしても、母上の胆力というか、粘り強さには驚いた」
とは、七歳の少年の素直な感想である。
鮮やかな朱金の髪の下からのぞくぎょろっとしたツリ目の少年、竜脊は、その若草色に燃え立つ瞳をきらりと光らせて面白そうに話しだした。
「なにしろ、父上の目の上のたんこぶだった黄詠を言い負かし、あげく俺の言った通り『奥』の改革を成し遂げてしまったのだから、並みの女じゃないぞ」
竜脊は手に持った飾り玉に朱色の房を通すと、それを目の前で竜の手入れをしている人物に渡した。
「ええ、ああ、はいはい、やってもらうのはありがたいンですがねぇ、りゅ、竜脊様。俺は今見ての通り、い、忙しくて、あんたの世間話に付き合ってる余裕はねぇンですが」
迷惑そうに飾り玉を受け取ったのは、もじゃもじゃの黒髪に分厚い眼鏡、全身真っ黒な格好をした、竜研究塔の天才問題児、緋仔だった。
非番なので新しくやって来た騎竜の具合を見ようとうきうきして竜舎にやって来た所を、このこまっしゃくれた油断のならない王子に掴まって邪魔をされてしまった。
王子を殴らないぐらいの良識は一応持ち合せているため、緋仔は仕方なく竜脊の話を聞く羽目になっている。
「衛兵どもの噂話によれば、母上は、大概の異国者が腰を抜かして逃げ出す騎竜を見てもびくともせず、表情ひとつ動かさなかったらしい。それに尾ひれがついて、騎竜兵から竜を奪って乗りまわしたとか、あと、黄詠に有無を言わせぬほどの手際の良さで規定を変えてしまったからか、金にがめついとか、先王を誘惑したとか、とにかく緋竜城は母上の話題で持ちきりだ」
「へぇ~えそりゃよかったですね~どーでもいいのでもう帰ってもらえませんかね」
低音の早口で言って、緋仔は竜脊の話題への興味の無さを強調した。
新しくやって来た竜達は、まだ人間に慣れていないこともあって大人しく竜舎に収まろうとしない。
その為、竜の飼育者は鎮静効果のある香を染みこませた房と、竜が落ち着く色と言われる黄色の飾り玉を首に掛けさせなければならない。
緋仔は竜の飼育まで任されてはいないが、時々暇があればこうして下級の者が行う様な仕事も自分でやっているのだった。
「にわかに、15代前の王、竜珠の再来ではないかとのたまう者まで出てきたのだぞ。これはよほどのことだ」
覚えのある名前が出てきて、緋仔は手を止めた。
「りゅうじゅ?り、りゅうじゅ、りゅうじゅ……、ああ、確か大昔に騎竜兵に混じって戦に出たとかいうキチガ……いやいやいや、大変イサマシイ女王サマですっけ」
「そう、戦乙女と呼ばれた伝説の女王だ。歳火の長い歴史の中でも竜珠ほど武勇伝の多い女王はいない。大概、女王とは名ばかりの、お飾りの王に過ぎないものだったが、竜珠だけは本物だ。……面白いことになって来たぞ」
「まあ、り、竜脊サマが面白いんなら、それでいいですケド、ね。あ、あ、あの王妃サマは、けど、なんつーか、少し、い、い『意味』が違うっつーか……」
ぐぐぐぐぐ……、と地響きのような唸りで威嚇してくる新米の竜を宥めすかしながら、緋仔がそんな風に言うので、竜脊はぎょろっとした瞳を緋仔の分厚い眼鏡に据えて突っ込んだ。
「なんだ、何が違う?」
「い、いやいやいや何が違うって言われてもバクゼンとした違和感ってヤツでして、へへへへへ……」
薄気味の悪い笑い声を発する緋仔に、竜脊は胡散臭いヤツ、という表情を隠しもせずに言った。
「お前や光野、父上達が、何かコソコソとやっているのは知ってる。聞いて回るほどバカじゃないから今は見逃してやるが、母上を甘く見ない方がいいぞ」
「へ、へへへ、そ、そんな滅相もない……。お、俺はただ、竜のことをもっと知りたいだけで、王サマが何しようが知ったこっちゃない……」
「聞いて回ったりはしないが、俺とてもちろん黙ったままでいないということを覚えておくといい」
背筋がぞくっとするような迫力で七歳の少年が言うので、緋仔は「こりゃ将来あの王サマよりも手がつけられないバカになるぞ……」と身を震わせた。
もちろんこれは褒め言葉であった。
「な、な、なんにしろ、あの王妃サマは、王サマが連れてきたんだし、お、王サマが全部なんとかするんじゃないスか?」
緋仔はそう言うと、それ以上は取り合わないとでもいうように黙々と作業を再開した。
竜脊も頃合いだと見極めをつけ、その場を離れる。
立ち入りを禁じられている竜舎に入り浸るようになった竜脊は、少しずつ、何かの思惑が新しく来た母親の上に渦巻いていることに気づき始めていた。
(まあ、あの通りの母上だし、心配はいらないだろうが)
己が誰かに対してこれほど心を傾けることがあるとは思いもしなかった竜脊だった。
産まれてこの方、竜脊に接する者は皆腫れものに触るようにしてきたものだが、あの示詩という母親は違う。
何が違うかと言われるとうまく説明することができないが、とりあえずぐいぐいと心の中に入って来るような厚かましさは唯一無二ではないかと思った。
(それとも、他国の王族というのは皆ああなのか?)
狭い城の中でしか生きてこなかった七年分の経験では推し量ることが出来ず、竜脊は物思いを振り切るように竜舎から足音を忍ばせて隠し通路へ急ぐ。
小さい影は、緑の中の小径へ音もなく消えていった。
「正妃様、またも一人、正妃様の元で働きたいと申し出る者がやって参りました!」
「そう、どんな者ですの?」
「はい、なんでも、歳火で有数の大貴族のご息女様らしく、火乃様とおっしゃるそうです!」
「まあ、身分は申し分ありませんわね。して、中身や能力の方はどうなのです?本当に私に仕える気があるのですか?」
示詩が黄詠に刃向かって緋竜城にわずかな改革を起こしてからというもの、それまでまるっきり蚊帳の外にしていた侍女達の中から、数人、示詩付きになりたいと申し出る者が出てきた。
ありがたいとは思うものの、示詩の性格には多少難があるので、桃衣のような変わっている者でもない限りついていくことは難しいだろうと予想していた示詩だった。
「ええ、正妃様。正妃様はこの城へ来て間もない御身ですから、お知りでなかったと思いますが、この城の者でも、現状に不満を抱いている者が少なからずいたようなのです」
「それは、まさか先王様の時代に戻りたいと思っている方々のことではありませんわよね?」
「いいえ、まさか!その反対です!現状の緋竜城は、いまだに先王様の時代の名残に囚われている者が多く、その感覚から抜け出せない人達によって支配されていたのです。特別報奨金についても、本当は座龍陛下が提案したのではなく、先王様側の方達が交換条件のような形で規定に取り入れたというのが、まことしやかにささやかれている噂でした。そうして、黄詠様がその問題に深く関わっておられたらしい、ということも、緋竜城では知らぬ者がいないほど有名だそうでして」
「ふ……ん。それが、この緋竜城で『奥』と呼ばれる場所にも関わってくることだったと、そういうことですのね」
「はい、仰る通りでございます」
さすが正妃様、と目を潤ませて感動している桃衣に構わず、示詩はその「奥」と呼ばれている場所こそが魔の巣窟だったということをあらためて再確認した。
円筒状になっている緋竜城の三階から上の階の、南側。
その一帯は身分の高い侍女達が住まう一画となっており、俗に「奥」と呼ばれている。
「奥」の最上階に位置する部屋は、今示詩が寝起きしている部屋になっており、それはそのまま緋竜城に置ける女達の力関係をあらわしていることになる。
しかし、この「奥」というのが、七年前までの竜研究塔と同等か、それ以上に独自の統制がまかり通っている所らしく……
「黄詠様の意向に逆らったものは、皆人知れず里へ帰されておりました。聞けば、陰湿ないじめが行われていたようでして……」
「あのように派手にお金を使って遊興に耽っていたのも、単なる貴族の悪政というわけではなかった、と」
「恥ずかしながら、その様でございます」
趣味の悪い服を着てあーだこーだと自慢話に花を咲かせていたのは、いつ自分が蹴落とされるか分からないからという自己保身のためでもあったのだろう。
示詩から見ればまるで奇妙な体制も、この緋竜城ではいたって普通のことでしかなかったのだ。
「ともあれ、その……『火乃』と言ったかしら?その者をはじめ、私の元で働く覚悟はあるのでしょうね?そなたも知っている通り、私にはこの国の約束事など分からないし、まして信条を曲げてまで従うつもりはありません。これからもあちこちで波風が立つかもしれませんわ。それでもいいと、本当に分かっているのですか?」
「ええ、正妃様!それについては、是非とも正妃様自らお確かめになって下さいませ!」
なぜか桃衣が得意げになっているのは放っておいて、さっそく部屋へ訪れているという話題の「火乃」という侍女を招き入れた。
「失礼いたします、正妃様。私、将軍家に仕える家系に身を置く『火乃』と申します。以後、お見知りおきを頂きたく存じます」
「ええ、こちらこそ、これからよろしくお願いしますわ、火乃」
姿を現したのは、首都・郡雷の出身らしく訛りの一切ないはきはきとした語りの、勇まししくも勝気そうな目をした美少女だった。
明るい橙の髪の毛を後ろで難しく結い上げ、衣装にも飾りをふんだんに使っている様子から、彼女が流行にもしっかりと通じている隙のない人物だということを窺わせる。
桃衣とてそれなりに流行を気にかけた服装を取っているが、彼女の場合は身の丈にあった意匠や着こなしが多く、目の前の侍女とは比べようもない。
―――こういった趣向の者に気に入られる様な言動をとった覚えはありませんのに……。変ですわね……
よろしくと言ったものの、歳火へ着いてから更に拍車がかかった疑り深さによって、示詩は火乃の登場をそれほど素直に喜ぶことができなかった。
確か贅沢を控えろという趣旨の異例を作って黄詠に刃向かったはずなのだが、一体どういうことかと訝しんでいると、そんな示詩の心を読んだかのように火乃が話し始めた。
「どうして私が正妃様にお仕えしようと思ったのか、お話した方がよろしいようですね。実は私、この城における古臭い慣習に前々から嫌気が差していたのでございます。私の身なりをご覧になって、さぞ疑わしくお思いになられたでしょうけれど、私は将軍家、それも、陛下が最近お召になられた右将軍の烈火様でなく、歳火国に長年使える、由緒ある将軍家の御子息であらせられる左将軍秋英様にお仕えする家の出なのです。ですから、その無駄に大きい出自のせいで、何をするにも逐一監視され、気の休まる時がありませんでした」
「その豪華な身なりは己の為でなく、家の為だとそなたは言うのですね?」
「仰る通りでございます、正妃様!私は生家の名を貶めることが出来ませぬゆえ、他の者に後れを取るわけにはいかなかったのでございます。ですから私、正妃様のなさり様に、心から感銘を受けたのでございます!」
「な、なんですの、唐突に?」
酷く興奮した様子で火乃が身を乗り出すので、示詩は反射的に一歩引いていた。
赤い瞳をらんらんと輝かせ、咲き誇る美を更に際立たせるように頬を紅潮させる様子は、年頃の娘らしく若々しさに満ちていた。
「正妃様は、そのお美しいお姿からは想像もできぬほどの見事な制裁で城内を、それも、『奥』の改革をやり遂げてしまわれました!その手腕の素晴らしさに、私、失礼ながら賭けたのでございます!」
「賭けたとは、一体何を?」
「私の人生でございます!」
はて、家の為に我慢をしていたのに、その様に大きな賭けに出て良いものかと思った示詩だが、相手はそんな疑問を振り払うかのような暑苦しさで畳みかけてきた。
「正妃様はきっとこの先、もっと大きな改革を成し遂げることでしょう!その時、我が家がその改革に力を貸さずに居れば末代までの恥となってしまいます。今は左将軍に仕える身、家の者も快くは思わないでしょうが、きっと近い内にその誤解も晴れることと思います!」
「そ、そうですか。そなたにそこまで見込まれては、私も励まないわけにはいきませんわね。何かあればそなたを頼りにすることもあるでしょうから、改めてこれからよろしくお願いしますわ」
「はい、もちろんそのつもりでございます、正妃様!」
こうして、示詩が気圧される形で、色々有耶無耶になったまま、火乃は示詩付きの侍女として迎えられることになった。
そのやりとりを傍で見ていた桃衣も、
(あれ?でも、火乃様って、こんなに生気に満ちたお方だったからしら?……というより、どちらかといったら、黄詠様のお傍で優雅に笑ってらっしゃるような、貴族の中の貴族令嬢という雰囲気だった気がするのだけど……)
と、やや不思議に思ったが、いかんせん貴族の事情には詳しくない、実質上は新米の田舎侍女のため、「きっと正妃様の素晴らしいお人柄に惚れこまれたのだわ」と楽天的な方向に片づけられることとなり、晴れて火乃は二人に手放しで迎えられることになった。
そして、同時期にもう一人、これはまったく火乃と毛色の違った侍女が加わることになる。
「臙脂……と申します。以後、お見知りおきを頂きますよう……」
「え、ええ。よろしく頼みますわね、臙脂」
蚊の鳴くような細い声で、かろうじて聞き取れる挨拶を耳にした示詩は、改めて志願して来た二人目の侍女を見やった。
歳火の者にしては珍しく、墨をこぼしたように真っ黒な髪を、結い上げずに背中まで長く垂らしている侍女、臙脂は、血色の悪い真白な肌を持つ異色の少女だった。
身につけている装束も赤とはいえ重い色、もちろん流行を気にしている意匠であるはずもなく、もっさりとしてあか抜けない印象だった。
そのあまりに不気味な風貌に不安を抱いた示詩は、桃衣にコソコソと事情を聞かずにはいられない。
「コソ……(桃衣。この者、本当に出自は確かなのでしょうね?どう見ても生気が感じられないのだけれど)」
「コソ……(正妃様、臙脂様はあの沃賀様の親戚筋にあたる大貴族のお家柄でして、恐らくは火乃様よりも確かな出自かと……)」
「コソコソ……(なんですって!?ま、まったくそんな風には見えませんわ……)」
「コソコソ……(え、ええ。臙脂様は……そのぉ、緋竜城や貴族の間でも、その、言いにくいのですが、とても変わった方ということで有名だそうなのです……)」
そんな変人が一体どうして己に目を付けたのかとまじまじと見ていると、臙脂の伏せがちだった目がふいに上がって、真っすぐ示詩を見据えてきた。
(ひっ!?)
そのあまりに冷たい視線に背筋がぶるっときた示詩だったが、語りだした臙脂の話を聞いていくうちに過剰な恐れは取れて行った。
つまりはこういうことらしい。
「私、この通り、見た目も中身も変わり者で通っておりまして……。かねてから、家の者達にお荷物扱いをされていました。城内でも、仲間からあれこれ理由をつけてはお金の無心をされ、……それでも、これまで黙っていたのは、ひとえに黄詠様に逆らって城を追い出されないためです。私は、ここを出ても帰る場所がないので……。親も私を諦めているため、あとは嫁ぐか一生城に仕えるか、それしか道はありません。とはいえ、私の様な者をもらってくれる殿方などいるとは思えないので……」
もう一人の新米侍女、火乃とは、見た目から何からすべて正反対だが、おそらくは「示詩に人生を賭けてきた」という志望動機だけはまったく一緒だった。
―――そんな崖っぷちの者しかここには現れませんの?
一瞬不満にも思ったが、考えてみれば、黄詠の元にいれば何不自由なく人生を送れる保証があるのに、それを蹴ってまで不利益を被るかもしれない示詩の門戸を叩いた猛者なのだ。
なるほど、桃衣が得意げになるのも無理からぬこと、といったところか。
―――私のそばで働く覚悟だけなら、十分合格といったところかしら。
あとは示詩の言い分に泣きごとを言わずついてこれるか、という問題が残っているが、火乃と臙脂を見る限りそういった不安は不要のように思えた。
一人は溌剌とした生気を溢れさせ、一人は今にも消えそうな気配を薄れさせ、のほほんとした笑みを浮かべる桃衣の両脇に並んでいる。
これが、これから緋竜城で戦っていく仲間かと思うと、やはりといおうか、正直、ほんの少しは不安を覚えずにはいられない示詩であった。