其の二 それぞれの思惑
王の間に戻ってきてから、座龍は控えていた光野に冗談交じりで言った。
「いや~、やべぇやべぇ。あやうく落ちちまう所だった」
「は?……と、申されますと?」
おどけた風に笑う主君に、年若い彼の家臣は一向に要領を得ない様子だ。
さもあろうと、座龍はこの八つほど年下の学友の恋愛経験を振り返って苦笑しながら、幾分疲れたように答えた。
「あの姫さんのこった。中々に手ごわくてな」
「……赤社国の第一王女として、気骨がおありの方だと、不肖ながら私も初見でお見受けしておりました」
「ああ。………なんというか、もしかしたらハズレくじを引いちまったのかもしれねぇな、俺たちは」
ため息交じりの元・学友に、光野は、敬称を使わずに言った。
「座龍様。……やはり、こんなことはお止めになるべきじゃありませんか?いくら国のためとはいえ、あの方が不憫にすぎます」
「どうした。お前が同情たぁ珍しいじゃねぇか」
座龍は少し驚いて、可笑しそうに言った。
彼に仕えてからというもの、光野が誰かに心から情を寄せるのを見るのは座龍も初めてだった。
一見優男風に見えるこの男は、仕事となると私情を挟まないきらいがあった。
「責任から逃がれようとして、このような差し出口を申しているわけではありません。あの方が、第一王女といえ妾腹の出であること、気位ばかりが高く王から疎まれて城を出されたこと、それ以来離宮にて不遇の生活を送っていたことなど、すべて調べ上げた上で座龍様に見合わせたのは、この私です。……だからこそ、止めたほうが良いように思ったのです。やはり、人を環境や身分で判断してはならないのでは、と」
「……ああ、そうさ。姫さんを連れてきたのはお前と、そして朱平だ」
「座龍様、それでは…」
座龍は、身を乗り出してくる光野を手で制して、無表情に告げた。
「だがそれを承知して、あの姫をこの城へ呼んだのは俺だ。そして姫さんは、俺の隣に収まる気まんまんでいる。その上でこの国も、周りも、もう動きだしちまってる」
「座龍様……」
「分かるか?光野。いったん乗っちまった流れから降りるのは、いかに策を弄しようとも至難の業なんだよ。下手に引き返せば、かえって要らぬ危険を呼びこんじまうこともあるしな。要するに、もう止めようがねぇってことだ。責任はお前にしかねぇと思うなよ」
「ですが、それではあまりにあのお方が……」
「不憫だってんなら、おめーがしっかりと見守ってやんな。生憎、これから俺はちぃとばかし忙しくなる。この城で四六時中あの姫さんを見張ってるわけにゃいかねえんだ。姫さんがなにしでかそうとかまやしねぇが、せいぜいこっちのボロを出さねぇようにな」
それは有無を言わせぬ、光野の進言に対する否定だった。
「は……御意にございます。陛下……」
取り付く島がない主君に、旗色の悪さを見た光野は早々に諦めて引き下がった。
長年の付き合いから、座龍が一度決めたことを翻したりしないのは、十分すぎるほどに分かっていた。
「しかし、確かに俺も良心が疼くよ。……駒にするには綺麗過ぎるし、気概もある。だからといって今さら後には返せねぇが、なるべく大事にしてやるつもりだ。あんな変な姫さんは初めてだし、なにしろ見てて面白いからな」
くくっと悪戯っ子のように思い出し笑いをする座龍に、光野はジト目でため息をついた。
「またそのように情容赦のない……」
「なんだよ、今のは別に嘲って言ったワケじゃねーぞ。その証拠に、俺は姫さんにゃ手を出してねえ。そんで、これからも出さねえつもりだ」
座龍が得意げに言うと、光野は驚愕して目を見開いた。
「ま、まさか!そんな馬鹿な!?女性を閨に呼んで、座龍様が何もなさらずにおられるはずがありましょうや!?いや、ない!」
「失礼な野郎だな、てめぇは。俺だって気が乗らなけりゃ、女を袖にすることぐらいあらぁな」
「まさか、そんなことが……!」
大げさに衝撃を受けている光野に鼻白んだ王は、ふん、と鼻を鳴らして王座から立ち上がった。
「そういうワケだから、妙な心配をせずとも大丈夫だ。姫さんにゃ、まっさらな体で居てもらうよ。せめてもの罪滅ぼしにな」
座龍は、まだブツブツと言っている部下をほったらかして、「陽炎」と短く呼んだ。
すると、どこからともなくすうっと緩い風が吹いて、いつのまにか座龍の斜め前方に生成り色の布で全身を覆った男が現れた。
彼の登場はあまりにも不自然だというのに、まるでずっと前からそこに居たかのように違和感がなかった。
「よう。お歴々の様子はどうだった」
彼の登場に驚くでもない座龍は、今日の天気を聞く様な気軽さで言った。
「は。すでに勘付いている者も何名かいるかと……。しかし、真義に至るまで当分かかることは確かでございます」
「ふむ。時間稼ぎには十分だってことだな」
「御意」
「濡羽の方は」
「いまだ大きな動きはなく、警戒態勢も解かれておりませぬ。周辺諸国もこう着状態のまま。邪九馬の圧力が強まるのも時間の問題と思われます」
「ちっ、面倒なこった。……しかし、そうなるとあの男が必要だ。秋英のキザ野郎も妙な動きを見せていやがるし、けん制しねぇと……」
座龍は陽炎に「右将軍を東から連れ戻してこい」と告げると、胸元から一通の書状を手渡した。
陽炎はそれを受け取ると同時に、どういった業を使ったのか、風の様に消え去ってしまった。
それは現れた時と同じように、まるで最初から誰も居なかったかのような自然さだった。
「陛下、右将軍……烈火殿をお呼びになるので?」
ようやく衝撃から立ち直ったらしい光野が聞いてきた。
「ああ、あの男には色んなもんに勢いをつける力がある。…それに、あいつなら、絶対に姫さんの味方になる気がしてな。そうなればお前も少しは安心だろう」
「陛下…」
「な?俺は一応、俺なりに正妃様を大事にしようと思ってんのさ。これでもな」
右将軍・烈火は、現在、歳火の東の地で反乱軍の圧制に躍起になっている所である。
それをいいことに、左将軍・秋英が城で幅を利かせ始めており、おまけに座龍側に頻繁に探りを入れてきて弱みを握ろうとしていた。
左将軍・秋英は、先代王側に与している男であった。
「しかし、烈火殿が戻られるとなると……」
光野は薄い金色の眉をぐっと中央に寄せ、渋面を作った。
そうすると、まだ十代であると言うのに、まるで壮年の男のように顔に年かさが増す。
右将軍・烈火の帰還は、城と示詩の身を預かる者にとっては、少々重荷であるらしい。
だが座龍はそんな光野の心配を杞憂だとでも言うようにからっと笑い飛ばした。
「ははは、光野、あんまり最初から色々を悩み過ぎると、大局を見過ごしちまうぞ?当面の敵はどれだ?今一番優先せにゃならんことは?……お前にとってはくそ親父で、俺にとっては連合国のくそったれどもだ。で、一番優先すべきは、お前も俺も、あの元気で手ごわい姫さん。それだけ分かってりゃ、大丈夫だよ」
「そうは仰いますが……」
根が苦労性の光野に、座龍はそれ以上追及しなかった。
昔から思っていたことではあるが、なぜ性格は彼の姉に似なかったのだろう、と、何度めになるか分からない疑問を抱き、そしてそれをすぐに消した。
その疑問は、座龍にとって感傷へ繋がることになるためだった。
「ま、とにかくあとは任せたぞ。東の鎮圧には左将軍を任命するからよ」
「左将軍…危険ではありませんか?」
「承知の上さ。だが文句は言わせねぇ。国王はこの俺だからな」
「御意にございます」
「やっぱり、全然、一つとして納得がいきませんわ!」
国王とその臣下が今後について話し合っている頃、別の部屋では新婚の新妻(で、あるはず。)が、一人憤っていた。
「そもそも、この国に来てから、納得のいかないことが多すぎるのです!!」
振り返ってみても、国の風習や文化の違いがあれど、常識的にあり得ないことが多すぎた。
―――初床をふいにした上に、幾度夜を過ぎても『何も無い』ですって!?ふざけるにも程がありますわ!!
香油を肌に刷り込み、髪を丁寧に梳かし、上等の絹の夜着を纏った自分は、極上の相手として違いないと、示詩はこと己の容姿に対しては存分に自信があったのだ。
だがそれを、夫となった歳火国王・座龍は、今思い出しても憎々しいほどの余裕をもってして「子供は作らない」と、はっきりきっぱりと跳ね除けてみせた。
ほとんど己の容姿を頼みに王位簒奪計画を練っていた示詩にとって、これはのっけから読み間違えたということになる。
(一体どういうことですの…?音に聞く歳火国王は、武勇に勝る歴戦の戦士…。そういった殿方は、その……そちらの方も旺盛だという風に聞きうけておりましたのに)
姫らしく遠回りに示唆したが、要するに猛々しい男は精力絶倫が多いというのが通説としてあるということだった。
王宮で花嫁修業という名の性教育を受け、その上、園恋宮で庶民との交流が増えてからは下世話な世間話を耳にすることもあったため、なまじっか本物の『深窓の姫君』よりかはその辺の知識に強い示詩である。
しかし、知識は知識に過ぎず、いかに世慣れている示詩とはいえ、本物の男と寝所を共にするのはもちろん初めてのことだった。
示詩は、知識と経験には深い溝があるということを、その若さゆえにまだ気づいてはいないのだ。
(……まぁ、国王陛下は思ったよりも一筋縄にいかないお方のようですし――子持ちでもありますし――、女性の好みについても色々と煩いお方なのかもしれませんわ。それはとりあえず、置いておくことにいたしましょう)
己の美貌に落ち度はないと絶対の自信を持っていたので、この場合は座龍の好みがよほど偏っているらしいと踏んで、示詩は無理やり自分を納得させた。
(ですが、あの婚儀、そして城についてからのこの待遇、そして……とにかく、諸々、本当に納得のいかないことが多すぎます!!)
歳火に着いて一番初めに疑問に思ったことは、国民へのお披露目となる行進がなかったことだった。
よほど予算の少ない国でもない限り、婚儀のお披露目は大々的に執り行われるものである。
そのお披露目の様式が豪華であればあるほど、国の力を国民はおろか他国にも見せつけることができる。
そして、それを取って考えれば、他国の重鎮を招いての披露式がなかったのも多大なる疑問点といえた。
小国の赤社でも、披露式は見栄を張って様々な国の使者を呼びよせたものだった。
しばらく財政はかつかつになるものの、婚儀の披露式を盛大に執り行うことは、王族としての義務に近い。
王家の婚儀は政のようなものだ。
それを疎かにするなど、文化や風習の違いでは片づけられないほど由々しき問題であった。
そして城に着いてからは更におかしなことづくめである。
赤社の供の者達は、侍女(側付きの侍女は逃げたままだったが)含め全員国へ返され、着いたその日に王の隠し子(?)の世話を言いつけられるし、自分付きの侍女は城に入りたての片田舎から来た新人侍女であるし、その上示詩づきの侍女の数が圧倒的に少ない。
今の所、身の回りの世話をしているのは桃衣ひとりきりだ。
そんなはずはない、仮にも大国の王の正妃が、一人の侍女しかつけられないはずはない、と、幾日も新入りの顔を見るのを待っていたが、やはり顔を見せるのは桃衣一人だった。
客観的に見ても、やはり示詩が納得のいかない立場に置かれていることは間違いないといえた。
(それに……)
示詩が一番、考えようとして考えずにいたこと。
(陛下に、竜脊様というお子がおられるということは……竜脊様には、お母上がおられるということで……)
人間は木の股から生まれたりはしないので、あまり可愛げのない子供といえ、竜脊にも「母」という存在があろうはずだった。
示詩が正妃として迎えられたということは、竜脊の母は必然的に側室か妾ということになる。
他国に明らかにされない存在としてあるということは、もしかしたらさらに下の身分の腹から生まれた身の上なのかもしれない。
その竜脊の母についてのことを、示詩は今日まで何一つ知らされることなく過ごしてきていた。
侍女頭や侍従頭は紹介されても、側室の紹介は一切なかったのだから、城には居ないのかもしれない。
その可能性に行きあたったとき、示詩は密かに胸を撫で下ろしていた。
(……?なぜ、私がほっとしなければなりませんの?)
自分で自分を不思議がりながらも、示詩は顔を合わせることのなかった座龍の妻に、幾ばくかの不安を感じていることは渋々認めたのだった。
それが何故であるかは分からないので、今は突き詰めて考えたりはしない。
示詩は無駄なことに時間を費やすのが嫌いな性分だった。
だがそれは、結局は今日の同衾を無碍にされたことに対する不安であるといえた。
なにせ座龍は、その妻とは、竜脊という子供を作ったのだから。
しかし、座龍をいまいちまだ夫として見れていない示詩には思いつきもしない理由だったので、その件は示詩の中で有耶無耶にして伏せられることになった。
まずは目の前の問題である。
(とにかく、ですわ。まずは、この城のこと、そして歳火の国をもっと知りませんことには、戦うこともできません。…恐らく桃衣は信用に足る人物のようですから、彼女を通して色々と情報を仕入れませんと)
示詩はやや乱れていた夜着を正して、乱れた床を直すと、鼻息も荒く寝入り始めた。
深い眠りに陥りそうになった時、どういうわけか、急に力強く肩を掴んできた夫の手の感触を思い出し、一人でかっと顔を赤くさせた。
『なに、簡単な勝負だ。あんたが俺をその気にさせりゃいいだけさ』
余裕綽々の歳火国王は、まるで示詩を子供の様にお手軽に扱っていた。
あのひょうひょうとした表情を思い出すと、得も言われぬ憎さが蘇ってきて、中々寝付けない。
(私が、『要領が分からない子供』ですって!?……その憎らしいニヤけた顔を、絶対に崩してみせますから、見てらっしゃい!)
怒りでもって羞恥を吹き飛ばすが、今度はどういう算段で座龍を籠絡しようかという考えで頭が一杯になり、結局示詩が寝付いたのはたっぷりと夜が更けて朝方に近い時間帯になってしまった。
起こしに来た桃衣に昼を告げられ、「またしても遅れをとりましたわ!」と、幸先の悪い始まりで翌日を迎えてしまったのだった。