「先輩、エスコートはお任せを!」と自信満々な年上後輩が、スマホ逆さまでホテル街に連れてきて大自爆した件
プレゼンが終わった瞬間、先方の部長が「ぜひ、その方向で進めたいですね」と満足げに笑った。
横に立つ高瀬さんは、そこでようやく小さく息を吐き、肩の力を抜いた。客先の誰も気づかないくらいの、ほんのわずかな変化。けれど、隣にいた俺にはしっかり伝わっていた。
「本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました! 議事録と次回までの確認事項は、明日の午前中までに整理してお送りしますね!」
高瀬さんは最後までハキハキと明るいトーンで締めくくり、先方の担当者と朗らかに名刺を交換した。資料の数字に突っ込んだ質問が飛んだときも、彼女が迷わず該当ページを開き、開発側で持ち帰るべき項目をスパッと切り分けてくれたのだ。
説明の主役こそ俺だったが、あの場を安心して乗り切れたのは完全に高瀬さんのおかげである。
中途入社一年目。前職で営業をやっていた経験もあって、対外的な立ち回りは文句のつけようがない。愛嬌もあって押し出しもいい。むしろ俺よりよっぽど営業向きだ。
「高瀬さん、助かりました。あの質問、俺が打ち返してたら墓穴掘って話が広がりまくってましたよ」
「ふふん、お役に立てて何よりです! 瀬尾さんの説明がバシッと明快でしたから、私のほうもフォローしやすかったんですよ!」
客先を出て、ビルのエントランスを抜ける。心地よい夕方の風が、会議室の熱気でこわばった体をほぐしてくれた。
ここまでは、完璧だった。
そう、ここまでは。
駅へ向かう道を歩きながら、高瀬さんはスマートフォンを握りしめていた。地図アプリを開いているらしい。いつもより歩幅をぐんと広げて、ぐいぐいと俺の先を行こうとしている。
俺はその得意気な横顔をちらりと盗み見た。
高瀬瑞希、三十歳。俺より二つ年上で、社歴は俺より短い。仕事ができて気配りも抜群、社内外のウケもすこぶるいい。絵に描いたような優秀な先輩後輩関係……のはずなのだが。
こと俺と二人きりになると、驚くほど認知のピントがズレ始める。
以前、自販機でホットの缶コーヒーを買うつもりが、思い切りアイスのボタンを押してしまったことがあった。ガコンと落ちてきた冷たい缶を前に、高瀬さんは五秒ほどフリーズしたあと、満面の笑みでこう言い放ったのだ。
「これはですね、あえて冷たいものを手にして体温となじませ、常温に近づけるという高等テクニックなんですよ!」
霜の降りた冷え冷えの缶を両手で大事そうに包み込みながら言うセリフではない。
また別の日には、レビューのために渡された資料の隅に、ド派手な黄色い付箋が貼られたままになっていた。そこには丸文字でこう書かれていたのだ。
『瀬尾先輩に突っ込まれそうな箇所:要復習! 絶対ドヤ顔させない!』
俺が付箋を指差すと、高瀬さんは光の速さでそれを剥ぎ取った。
「こ、これは自分用のメモですね! 提出前に剥がす予定でした!」
「もう提出されてますけどね」
「はい! ですが、今この瞬間に剥がしましたのでセーフです!」
目の前で剥がしたところでログは消えない。
そのたびに高瀬さんは「私、年上ですから! ここは先輩を支えて、頼れるところを見せないとですからね!」と胸を張る。どうやら俺の前では、どうしても『頼もしい年上のお姉さん』を演じきりたいらしい。
まあ、張り切る理由はよく知っている。
入社したての頃、前職の経験があるからと気負いすぎて、彼女はずいぶん無理をしていた。社内ルールも手探りなのに誰よりも早く返事をして、残業して、仕事を全部ひとりで抱え込んでパンクしかけていたのだ。
見かねた俺は、二人きりのオフィスで言った。
『高瀬さん。うちのやり方に慣れるまでは、年下でも俺を遠慮なく使い倒してください。そのためのリーダーなんですから』
格好をつけたつもりは微塵もなかった。リーダーとしての当たり前の業務指示だ。
けれどそれ以来、高瀬さんはやたらと俺の前で背伸びをするようになった。困りごとがないか不自然に先回りし、荷物を持とうと手を伸ばし、俺より先にルートを調べて堂々と逆方向へ突き進む。
俺としても、その空回りする背伸びを本気でやめさせたいわけじゃない。仕事の有能さは誰より認めているし、俺の前だけで見せるポンコツな隙を、実のところかなり微笑ましく思っているのだ。
「瀬尾先輩、今日は大仕事お疲れさまでしたっ!」
不意に、高瀬さんがくるりと振り返った。ピシッと足を止め、これ見よがしに豊かな胸を張る。
「ここはですね、年上の私が駅までスマートにエスコートしちゃいますよ! どーんと頼もしい背中についてきてください!」
出た。
「はいはい、じゃあお言葉に甘えて。ところで高瀬さん、このあたりの道ってかなり入り組んでますけど、大丈夫なんですか?」
「もっちろんです! 私、前職の営業時代はこのエリアも庭みたいなものでしたからね! 一般人は知らないとっておきの近道をご案内します!」
無駄に自信満々な笑顔で頷くと、彼女はスマホを握り直して意気揚々と歩き出した。
俺は半信半疑のまま、その少し後ろをついていく。
「高瀬さん、駅ってあっちの大通り沿いじゃなかったでしたっけ?」
「ノンノン、あっちの表通りは信号が多くてタイムロスなんです! こちらの路地から抜けるのが真のプロですよ!」
高瀬さんがビシッと指差したのは、薄暗い飲食街のさらに奥だった。
「でも、方角的に真逆へ向かってません?」
「地図というのはですね、上が北と相場が決まっているんです! 歩いている人間の体内コンパスと画面の向きは違って当然なんですよ!」
「あ、はい」
「ご納得いただけましたね! では、こちらへゴーです!」
高瀬さんは一切の迷いなくスタスタと進んでいく。現在地を確かめようと覗き込もうとしたが、彼女が自信満々にスマホを振るたびに画面が揺れてよく見えなかった。
薄暗い路地を抜けると、次第に人通りが途絶えてきた。小綺麗な居酒屋の灯りは消え去り、代わりに街灯の色が妖しく変わり始める。
少し先には、やけにデカデカとした看板が掲げられていた。
『ご休憩 4,500円〜(均一料金)』
その隣には、すりガラスで目隠しされたムーディーなエントランス。さらに奥を見渡せば、似たようなネオン看板が手招きするように連なっている。
高瀬さんの歩行スピードが、目に見えて落ちた。
「……高瀬さん」
「……は、はいっ!」
「ここ、完全にラブホテル街ですけど」
「ち、違いますよぅ!?」
裏返った声が路地に響く。
「え、駅前繁華街の裏手というのはですね、得てしてこういう商業施設が密集する傾向にあるんです! 都市計画的にも道路が合理的に配置されていますから、これは立派な抜け道なんですよ!」
「商業施設って、ずいぶんスケールの大きい言い訳が出ましたね」
「事実です! 宿泊業も経済活動の大きな一部ですから、広義の商業施設に分類されます!」
「だいぶ広い視野をお持ちで」
「ええ、元営業ですからね! 視野の広さには定評があります!」
「で、駅には着きそうなんですか?」
「着きます着きます、余裕で着きます! あとちょっとですから、私を信じてついてきてください!」
高瀬さんは力説したものの、もはや看板を直視することすらできず、スマホの画面に穴が開くほど視線を落としていた。
眉間にはありえないほどの深いシワが刻まれ、唇をきゅっと結んでいる。本人はまだ「完璧にリカバリーできるはず」と必死に己を奮い立たせているらしい。
進めば進むほど道は狭くなり、左右から迫る建物のネオンが密度を増していく。ピンク、紫、怪しげな青白い光が、濡れたアスファルトを艶めかしく染め上げていた。
「高瀬さん。さっきから駅がどんどん遠ざかってる気がするんですけど」
「そ、そんなオカルトみたいな現象、現代の都市構造であるわけがありません!」
「じゃあちょっと、そのスマホ見せてもらえます?」
「だ、大丈夫ですってば! もうすぐ出口が見えてきますから!」
「それ、さっきの角でも聞きましたよ」
「道というものはですね、近道ほどドラマチックに曲がりくねるものなんです!」
「初耳の理論ですね」
「私もたった今、深く実感したところです!」
完全に苦しい。
そしてついに、道は袋小路のような小さな円形広場に行き当たった。
ロータリーのような形状だが車が入れる広さではない。中央には謎の植え込みがあり、その全方位をぐるりと『HOTEL』のネオン看板が囲い込んでいる。
俺たちは、そのど真ん中に到達してしまった。
前も後ろも、右も左も、見渡す限りのピンクと紫。広場の先は重厚なコンクリート壁で完全に塞がれており、逃げ道は今通ってきた一本道しかない。
高瀬さんが、ピタリと固まった。
「…………あれ?」
「あれ、ですね」
「私の完璧な記憶ではですね……ここに駅の西口改札が、ドーンとお目見えするはずだったんですが……」
「駅の改札が、このピンクのネオンに囲まれた広場にドーンと?」
「……に、西口ですから。ほら、西口ってだいたい穴場じゃないですか」
「へえ、穴場の改札ですか」
「もっとこう……自動改札機的な、ピッと通れる文明の利器が……」
「ここに?」
「……はい」
高瀬さんはスマホを胸元に抱えたまま、ゆっくりとその場で三百六十度回転した。
目の前の妖しい看板を見上げ、振り返って別の看板を見つめ、最後に手元の画面を凝視する。
みるみるうちに、彼女の顔から血の気が引いていった。
「高瀬さん、それ完全に無理ありますって。スマホ見せてください」
「あ、いえ、これはその、企業の機密情報というか……」
「迷ったときはまず素直に現在地を確認する。これ、新入社員研修でも習いましたよね?」
「ま、迷ってなどいませんよ! これは想定していたルートと、現実の都市開発の進捗に、ほんのちょっぴり不一致が生じただけでして……!」
「それを世間では迷子って呼ぶんです」
「言葉のアヤです!」
観念した高瀬さんからスマホをひょいと取り上げる。
画面の中央では、現在地を示す青い光点が、駅から完全に真逆のド僻地でぽつんと点滅していた。地図の向きは固定、上が北。
画面を見て、俺は思わず眉を跳ね上げた。
「……高瀬さん」
「な、なんでしょうか、瀬尾先輩」
「これ、スマホ逆さまですよ」
「へ?」
「画面の上下、完全に逆に持ってます」
「…………はぇ?」
「ほら。地図が上を向いてるのに、本体を逆さまにして下に進んでたから……駅に向かってるつもりが、真逆の奥地に突き進んでたんですね」
「ひゃうっっっ!?」
聞いたこともない変な悲鳴が高瀬さんの喉から飛び出した。
慌ててスマホを奪い返し、画面と周囲のネオンを何度も往復して見つめる高瀬さん。その指先が、小刻みにプルプルと震えている。
「そ、そんな……でも、地図は上が北で……」
「はい」
「私は上に向かって歩いていたつもりで……」
「スマホが逆さまなので、下に進んでましたね」
「……逆、さま……」
小さく呟いたきり、高瀬さんはカチコチに凍りついた。ようやく自身の犯した致命的なやらかしの全貌を理解したらしい。
沈黙の中、ネオンの電子音だけが静かに響く。
俺はもう、我慢の限界だった。
「っ……ふ、あっはははは!」
腹を抱えて吹き出してしまった。我慢しようとしたが、あまりの芸術的なポンコツっぷりに無理だった。
「ちょ、瀬尾先輩っ!?」
「いや、すみません……! でも、元営業の華麗なエスコートで、スマホ逆さまに持ってホテル街のど真ん中に連れてこられたのは人生で初めてですよ!」
「わ、笑いすぎです! 全然笑い事じゃないです!」
「あー苦しい……すみません、顔が戻らないです」
「ちっとも反省してないお顔ですね!?」
「いやあ、高瀬さん。まさかこんなところに俺を連れ込んで、一体何を企んでたんですか?」
からかい半分でそう問いかけた瞬間だった。
「ち、違いますっっっ!!」
高瀬さんが弾かれたように叫び、バンッと音が出そうな勢いでこちらを向いた。
白かった顔が一瞬で沸騰したように真っ赤に染まり、耳たぶまで茹で蛸のようになっている。
「先輩をホテルに連れ込もうとか、そんなやましい計画なんて天地神明に誓ってこれっぽっちもありませんから! そりゃあ先輩のことはすっごく好きですけど、そういう順序を全部すっ飛ばした破廉恥なトラップを仕掛けるつもりなんて……あ」
言葉が、ピタリと止まった。
高瀬さんは目を見開いたまま、両手で自分の口を塞いだ。
完全に、固まっている。
そして。
ずるずると、その場に膝から崩れ落ちた。
「あ……穴があったら入りたいです……いっそ今すぐ、このアスファルトを素手で掘って私を埋めてください……」
「アスファルトを素手で掘るのはちょっと物理的に厳しいですね」
「そこは物理法則じゃなくて、発言のほうを否定してくださいよぉ……!」
「じゃあ埋めません。高瀬さんを見失うと困るので」
「今の私に、見失って困るような価値なんてミジンコほども……」
「ありますよ、大いに」
高瀬さんは両膝を抱え込んで完全にうずくまり、スマホを額に押し当てて小さく震えていた。
肩をすぼめた背中が、まるで叱られた子犬のように縮こまっている。乱れた髪の隙間から覗く耳は、ネオンの光を差し引いても真っ赤だった。
「……だって、先輩が悪いんです……」
膝の間に埋めた顔から、くぐもった声が漏れ聞こえてくる。
「入社したての頃に、『俺を使い倒してください』なんて……あんな格好いいこと言うからじゃないですか……!」
「そんな格好つけたつもりはなかったんですけどね」
「年下のくせに、いつも落ち着いてて、頼りがいがありすぎて……! 私だって先輩より年上なんですから、たまには『高瀬さんって頼もしいな』って……格好いいところ見せたかったんですよぅ……っ」
最後の言葉は、悔しさと恥ずかしさで少しだけ涙声交じりに擦れていた。
俺は、もう笑うのをやめた。
高瀬さんがどれほど必死に食らいついてきたか、その努力はずっと隣で見てきたから知っている。経験者としてのプライドも、早く一人前になって恩を返したいという焦りも。そして、今ぽろりと零れ落ちた、予想外すぎる本音も。
こんな路地の片隅で、一人で限界まで背伸びをして自爆している彼女を、これ以上からかい続ける気にはなれなかった。
「高瀬さん」
「……はいぃ……」
「俺の前で、無理して年上ぶらなくていいんですよ」
高瀬さんは、すぐには顔を上げようとしなかった。
「でも……私、先輩より二つ年上ですよ?」
「知ってます」
「社会人歴だって、私のほうが長いです」
「それも知ってます」
「それなのに、偉そうにエスコートするって宣言して……スマホ逆さまに持って、ラブホテル街に直行して……」
「まあ、豪快な迷子でしたね」
「うう……忘れてください……記憶から消去してください……」
「あはは、さすがに今夜のことは強烈すぎて一生忘れられないですね」
「意地悪……」
「でも、高瀬さんがめちゃくちゃ仕事できる人だってことは、俺が一番よく知ってますよ。今日のプレゼンだって、高瀬さんがいてくれたから勝てたんです。だから、俺に頼もしいって思わせるために、道案内まで完璧に背負い込まなくていいんですって」
高瀬さんが、おずおずと顔を上げた。
潤んだ瞳に、恥ずかしさと、言ってしまったことへの猛烈な後悔と、それから誤魔化しようのない熱が混ざり合っている。
「…………じゃあ」
「ん?」
「さっきのも、忘れないでいてくれますか」
「どれですか?」
「すっごく好きって……口が滑ったところです」
上目遣いに見つめられて、今度は俺のほうが不意を突かれた。心臓が跳ねるのを悟られないよう、必死に平静を装う。
「……それは、忘れないでいいんですか?」
「……やっぱり忘れてください! ノーカウントで!」
「どっちなんですか」
「わかりません! 現在の私は著しく判断能力が低下しております!」
「それは重症ですね」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
「俺のせいですか?」
「そうです、先輩のせいです! 入社したときから、無駄に優しいんですから!」
「無駄って」
「こっちのキャパをちゃんと見てから仕事を振ってくれるし、質問したら分かりやすく噛み砕いて教えてくれるし……私が一人で抱え込んでパンクしかけてたときも、一番に見つけて助けてくれたじゃないですか」
「リーダーとしての通常のマネジメント業務です」
「そういうところですよっ!」
「どのあたりがですか」
「年下のくせに、さらっとスマートに頼れることを言うところです!」
そこまで一気にまくしたてると、高瀬さんは再びカッと顔を赤くして視線を泳がせた。けれど、もう地面に突っ伏すことはしなかった。
俺は彼女の前に屈み込み、すっと右手を差し出した。
「ほら、立てますか?」
「……はい」
高瀬さんは俺の手をじっと見つめ、ほんの少し躊躇したあと、そっと自分の手を重ねてきた。
立ち上がらせるために握りしめると、きゅっと予想以上の強い力で握り返される。
そのまま立ち上がっても、彼女は決してその手を離そうとしなかった。
「……瀬尾先輩」
「はい」
「手、絶対に離さないでくださいね」
「どうしてです?」
「ここ……なんかピンクの看板ばっかりで、普通に怖いです……」
「連れてきたのご自身なんですけどね」
「それは痛いほど自覚しております……!」
「はいはい。じゃあ、駅までは俺が責任持って案内します」
「……お願いします」
「駅前の明るい通りに出たら、美味いもんでも食べに行きましょう。高瀬さんのおごりで」
高瀬さんがパッと目を丸くした。
「えっ、どうして私が!?」
「あれ? 頼れる年上として、そこくらいはスマートにご馳走してくれるんじゃないんですか?」
「…………っ、そうでした! 私、年上ですからね! それくらいはお安い御用です、喜んで払わせていただきますとも!」
声にはまだ少し震えが残っていたけれど、最後の一言にはいつものハキハキとした張りが戻っていた。
「何が食べたいですか?」
「先輩の食べたいものでいいですよ! リクエストをどうぞ!」
「それだと一生決まらないやつですね」
「では先輩が決めてください! 私は年上として、スマートにお会計の決済を担当します!」
「ずいぶん極端な役割分担ですね」
「合理的かつ機能的な分担と言ってください!」
「じゃあ、今度はスマホを逆さまに持たないでくださいよ」
「もちろんです! これからは正しい天地を維持して携帯します!」
「俺が地図を見ながら歩きますから」
「それじゃあエスコートになりません!」
「じゃあ、二人で一緒に見ながら行きましょう」
「…………はい!」
俺たちは繋いだ手をそのままに、来た道をゆっくりと引き返した。
ぎゅっと握られた高瀬さんの小さな手から、じんわりと温もりが伝わってくる。一歩進むごとに、彼女のこわばっていた肩の力が少しずつ抜けていくのがわかった。
怪しげなホテルの看板が、一つ、また一つと背後に遠ざかっていく。
やがて大通りの明るい街灯の下へ抜け出すと、遠くに駅前の大きな案内板が見えてきた。
「高瀬さん、駅はあっちですよ」
「はい! ちゃんと見えています!」
「本当にわかってます?」
「……はい。今はもう、先輩と同じ前を向いてますから」
「スマホも?」
「スマホも正しい向きです!」
「ならよし」
駅前の喧騒が戻ってきた。仕事帰りのサラリーマンの群れ、居酒屋の威勢のいい呼び込み、電車の発着を告げるアナウンス。
もう、道に迷う心配はどこにもない。
それでも、高瀬さんの手は俺の指を握りしめたままだった。
「高瀬さん」
「はい?」
「もうすぐ駅に着きますよ」
「知ってます」
「手、そろそろ離さなくて大丈夫ですか?」
高瀬さんは、握り合う手にきゅっと小さな力を込めた。
「……ご飯のお店に入るまで、です」
「はいはい」
「それに、駅までのエスコートは私が担当する契約でしたからね! 契約は最後まで遂行するのがデキるビジネスパーソンです!」
「じゃあ、ここから店までの道案内は頼んでいいですか?」
「ふふん、駅前なら庭同然ですからお任せあれです! 看板も読めますし、スマホも正常稼働中ですから!」
「じゃ、お願いしますね、高瀬さん」
「任せてください、瀬尾先輩!」
得意気に胸を張るその声は、いつもの明るく快活な彼女そのものだった。
けれど、夕暮れの街灯に照らされたその耳たぶは、まだ真っ赤に染まったままだ。
俺たちは繋いだ手を離さないまま、駅前の明るい光の中へと歩き出した。今度こそ、スマートフォンを正しい向きでしっかりと握りしめて。




