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一之石孝和の影

 再び店員がやってきて、追加注文の皿をテーブルに並べていった。串カツ、ブリかまの塩焼き、氷見うどん。居酒屋「舞子」の夜は、まだまだ続いている。


 黒川がジョッキを掲げて「おかわり!」と叫ぶと、宮本も勢いで「私も!」と続いた。中条は「私は控えめに……」と笑いながら冷酒をもう一合。


 やがて黒川が、唐突に口を開いた。

「なぁ……“特進学校”の件、覚えてるか?」


 宮本の表情が一瞬で曇った。

「覚えてるも何も、あれは私にとって……一生忘れられない屈辱よ」


 彼女はグラスを握り締め、苦々しい声を吐き出した。

「私は全力で動いたのよ。渾身の“特別公聴会”を開いて、教育委員会を動かして、孝和くんに最高の学びの場を用意した。――それなのに!」


 ジョッキを一気にあおり、空になった器をドンと置く。

「あの子は、それを蹴ったのよ! まるで私をおもちゃにするみたいに!」


 黒川がガハハと笑いながら突っ込む。

「おいおい、そういう誤解をまねくような表現はやめとけ、“おばさん”!」

「なによそれ!」

 宮本の声がさらに大きくなる。

「私は命を削って働いてきたのよ! それをあの子は――!」

「はいはい、また始まった」

 黒川が茶化すたびに、宮本のメートルは上がる。店員が慌てて空ジョッキを下げ、新しいジョッキを置いていく。


 中条は盃を揺らしながら、少し間を置いて口を開いた。

「……でも、あの子なりの考えがあったんでしょ。彼にとっては、学校の“肩書き”よりも、大切なものがあったんじゃない?」


 宮本はむっとしながらも、言葉を飲み込んだ。

黒川が肩をすくめて答える。

「あいつは“戦略家”だからな。誰にも言わねぇけど、全部計算してる。自分がどう動けば一番面白いか、どうすれば誰かを助けられるか……。でも、その計算は大人顔負けなのに、中身はすげぇピュアなんだよ」


 宮本は渋い顔でジョッキを煽り、吐き捨てるように言った。

「ピュアねぇ……。結局は私が馬鹿を見ただけよ」

「馬鹿を見るのはいつもお前だ」

「うるさい!」


 黒川が豪快に笑い飛ばし、また一口飲む。


 中条がふと、視線を宮本から黒川に移した。

「……ところで、結奈ちゃんと孝和くんはどうなの?」


 その一言で、空気がまた変わった。

 黒川は「へっ」と笑い、ジョッキを持ち上げて答える。

「相変わらず一緒に登下校してるよ。まったく……リア充爆発しろ、ってやつだな!」


 宮本が思わず噴き出した。

「あら、意外に素直ね。やきもちでも焼いてるの?」

「馬鹿言え。わたしはただ……なんだろうな。羨ましいっていうか」

 黒川は視線を落とし、珍しく声を潜めた。

「遥が用意してくれた『特進学校』を蹴ってまで、あと1年こっちに残ったのは、あいつにとっての大切な仲間との時間、波多野との時間を何よりも選んだってとこがさ、もうそりゃどんな女でも惚れてしまうだろ、普通に。しかも、上京する際に波多野たちに『紙と鉛筆があればどこでも勉強はできる』と言ったそうだぞ。かっこよすぎだろ…」


 しばし沈黙が落ちた。


 やがて宮本が、そっと言葉を重ねる。

「……でも、あの子の“数学の原点”の話を聞いたときは、本当に泣きそうになったわ。あんなに美しいものを胸の内に秘めてたなんて」


 中条も頷いた。

「私も。あの瞬間、取材者としてじゃなく、一人の人間として胸がえぐられた。本来ジャーナリストとして冷静でなければならないのに、正直涙が出そうになったわ…」


 黒川はニヤリと笑って、ジョッキを掲げる。

「だろ? あいつはピュアで、だけど頭脳は切れ者で、しかも駅伝でも勝っちまう。……そんな奴、世界中探してもいねぇよ」


 宮本もジョッキを掲げる。

「ほんとよね……あの子ほどの逸材、もう出会えない」


 中条も盃を合わせ、三人のグラスが触れ合う音が響いた。


 次の瞬間、黒川が得意げに言った。

「ちなみにわたしは、まだチャットで繋がってるぞ。毎日やり取りしてんだから。つまり正妻戦争の勝者はわたしだ」


 宮本と中条が同時に振り向く。

「なにそれ、子どもみたい!」

「……大人気ないわね」


 黒川は鼻で笑い、勝ち誇ったようにグラスをあおる。

「いいんだよ、子どもみたいでも。だって、あいつはわたしたちにとっても“青春の輝きの象徴”だからな」


 その言葉に、宮本も中条も、ふっと笑みをこぼした。


 だが次の瞬間、三人の胸に同じ思いがよぎった。

――孝和の未来は、本当に大丈夫なのだろうか。そして美桜は今どこで、どうなっているのだろうか。

 彼の才能は輝かしい。けれど、その才能が彼をどこへ連れていくのか、誰にも分からない。


 グラスの中で氷がカランと鳴った。

 居酒屋「舞子」のざわめきの中で、三人はそれぞれの胸に“孝和の影”を感じていた。


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