真剣な顔:栞のフォロー
笑い声が一段落すると、店内のざわめきがふっと遠のいたように感じられた。三人のテーブルだけが、ぽつんと別の空気に包まれる。グラスの縁に残った泡がゆっくりと消えていくのを見つめながら、中条が言った。
「……でも、本当に大事なのは、あの日の出来事そのものじゃない」
宮本が眉を寄せ、黒川も真剣な顔つきに変わる。
「栞ちゃんが教室に戻れたのは、単なる“復学”って言葉では収まりきらないことだった。あの子の中に眠っている力……もしかしたら、“ギフテッド”の可能性があるのかもしれない」
その言葉に、宮本が小さく頷いた。
「実際、教育委員会の内部でも、専門家を配置して様子を見ることにしたのよ。復学はゴールじゃない。むしろ始まりにすぎない。……あの子の能力をどう育んでいくか、その責任は私たち大人にある」
黒川はジョッキを傾けたまま、しばらく黙っていたが、やがて低い声を漏らした。
「……一之石は、それを最初から分かってたんだと思う」
宮本と中条が視線を向ける。黒川は少し照れたように鼻をかき、続けた。
「あいつ、ああ見えて子どもの本質を見抜く力がある。表には出さなかったけど、栞の目を見て、すぐに“何か違う”って気づいてたんじゃないか。“ギフテッド”かどうかなんて言葉は使わなくてもさ」
「なるほどね……」
中条が小さく相槌を打つ。
「でも、それを分かっていても、本人は多分“特別なこと”だとは思ってない。栞ちゃんを助けるのは当たり前、くらいにしか考えていないのよ」
宮本はグラスを指でなぞりながら、ため息をついた。
「ほんと、あの子はそういうところがあるわね。自分を犠牲にしてでも、人を救おうとする。あんな高校生、他にいる?」
黒川が苦笑する。
「いるわけないだろ。だから『天才』なんだよ」
中条が首をかしげる。
「でも、天才って……彼自身は、自分のことを天才だなんて思ってないんじゃない?」
黒川は枝豆を口に放り込み、噛みながら答えた。
「もちろん思ってねぇよ。あいつはそういう性格じゃない。ただ……言ってみれば大谷翔平みたいなもんだな。好きなことを突き詰めて努力を続けられるっていう意味での類まれな天才。本人は“努力の結果”だと思ってるだろうけど、普通の人間には到底できないレベルなんだ」
「世界的なレベルの能力なのに、自分では“天才じゃない”と思ってる……か」
中条は感心したように呟いた。
「それって、逆にすごく残酷なことね。才能があるからこそ苦しむ、っていうか」
宮本が苦い顔をする。
「そう。あの才能は皮肉なことに、一之石くん自身が背負ってきた厳しい状況が育んでしまったものでもある。だから私は……褒めてしまったら、その痛みを肯定することになってしまう気がして、素直に口にできないの」
三人の視線が交わり、ふっと沈黙が落ちる。賑やかな店内の笑い声が、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。
やがて黒川がジョッキを置き、真顔のまま言った。
「でもな……わたしたちにとって、孝和はただの“友達”じゃねぇ。庇護の対象でもあり、同時にヒーローなんだよ」
宮本は目を伏せた。
「そうね……あの子に救われたのは、私たちの方かもしれない」
中条は盃を傾けながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「栞ちゃんの復学を祝うこの席も、本当は“孝和くんがいたからこそ”なのよね。彼がいなければ、ここまで動くことはできなかった」
黒川が力強く頷く。
「だな。……あいつがいたからこそ、わたしたちは今ここにいる」
そこで一瞬、三人の間に再び沈黙が落ちた。けれど、その沈黙は気まずさではなく、不思議な温かさを帯びていた。
だが同時に、それぞれの胸の奥に、同じ思いが渦を巻いていた。――孝和を本当に救うには、結局、美桜との再会が必要なのではないか。
中条は盃を置き、声を潜めた。
「実は、先輩の大手通信社の人に頼んで……美桜ちゃんのその後を探してもらってるの」
宮本が驚いたように顔を上げる。
「あなたも? ……実は私も外務省経由で動かしてるのよ。まだ詳細を確認している途上みたいだけど」
二人の言葉に、黒川は目を丸くし、やがて静かに頷いた。
「そうか……。わたしたち全員、同じこと考えてたんだな」
孝和を救う道は一つしかない。美桜が今どこにいて、どうしているのか。それを知らなければ、彼を心から解き放つことはできない。
三人とも、その答えを切実に求めていた。
ジョッキの氷がカランと音を立て、照明に反射して淡く光る。
――まるで、美桜の行方を探す三人の胸の内を映し出すかのように。