回想:宮本遥の“教室おばさん事件”
居酒屋のざわめきの中、黒川が「おばさん扱い〜」と茶化したところで、宮本が顔を真っ赤にして抗議した。
「その話はやめろって言ってるでしょ!」
だが、中条が静かに徳利を傾け、二人の盃に酒を注ぐと、落ち着いた声で切り出した。
「でもね、あの場にいたのは私も同じよ」
黒川が目を丸くする。
「お前も? なんで?」
「取材、という名目だったけど……正直に言えば“共犯”みたいなものね」
中条は淡々とした口調で言いながら、盃を軽く掲げる。
「ステイゴールド事件の核心を知ってる人間は限られてる。その一人である私にとっても、教育委員会や文科省にしてみれば“無視できない存在”ってこと。だから、取材も優遇されてるのよ」
黒川はニヤリと笑った。
「なるほどな。さすが秘密を握る女記者ってわけか」
「そんな大げさなものじゃないけど……。でも、試験的にせよ本来あるべきイジメ対策を進めている姿を報道することで、栞ちゃんの復学をさらに支えられると思ったの。だから取材要請はありがたかった。――ただ、そこでちょっとしたトラブルがあって……(笑)」
中条の言葉に、宮本はグラスをぎゅっと握りしめた。
「……誤解されてるから言うけど、あれは本当に災難だったのよ」
――あの日。
副知事、宮本遥、中条麻衣の三人は、栞が通う小学校を訪ねた。栞の復学を正式に後押しするための視察であり、宮本にとっては緊張の一日だった。
教室に足を踏み入れた瞬間、子どもたちの視線が一斉に集まる。担任がわざとらしいほど声を張り上げた。
「今日は文科省から大変偉い方がお越しです。皆さん、きちんと対応してください」
その言葉が、教室の空気を余計に固くした。
スーツ姿で背筋を伸ばす宮本は、確かに“威圧感”を放っていた。中条はその隣で記者らしい冷静な目を光らせ、副知事は腕を組んで教室全体を見渡していた。だがその眼差しの奥には「場を壊すわけにはいかない」という責任感と、どこか不安げな緊張が漂っていた。
そのとき、後列の児童が小さな声でつぶやいた。
「……このおばさん、なんか怖い」
空気が凍りついた。
担任は慌てて「こら!」と声を上げたが、それより早く、宮本の眉がぴくりと動いた。
「――誰が、おばさんですって?」
低く鋭い声。子どもたちは一斉に椅子の背に身を引き、教室の空気が一瞬で凍りつく。
その瞬間、副知事の顔がぐにゃりと歪んだ。必死に堪えようと口を押さえたが、肩が震え、ついに「ぷっ」と噴き出す。
「くくっ……す、すまん……! いや、あまりに真剣で……!」
“偉い人”として場を締めなければならない立場なのに、笑いをこらえきれない。その人間臭さに、子どもたちはさらにざわめいた。
「な、何がおかしいんですか副知事!」
宮本は真っ赤になって詰め寄り、余計に子どもたちを圧倒する。
そこへ、前列の児童が恐る恐る手を上げた。
「……でも、新聞記者のお姉さんはかっこいい」
教室の視線が一斉に中条へ向けられる。
「え、私?」
思わず目を瞬かせる中条に、子どもは力強く頷いた。
「うん! テレビで見たことある! すごくカッコいい!」
子どもたちの表情がぱっと明るくなり、ざわめきが広がる。
宮本は絶句し、中条は頬をかすかに赤らめた。副知事は再び肩を震わせ、ついに声をあげて笑ってしまう。
「はっはっはっ! いやぁ、最高だ!」
――そして今。
居酒屋「舞子」の座敷で、黒川は腹を抱えて笑っていた。
「ガハハハ! 最高だな、それ! おばさん呼ばわりされた遥に、かっこいいお姉さんの麻衣! まるでコントじゃねぇか!」
「笑い事じゃないわよ!」
宮本はテーブルをバンと叩き、箸を握りしめる。
「私は真剣に、子どもたちの前で大事な話をしようとしてたのに!」
「まぁまぁ、真剣さが伝わったからこそ、怖いって言われたんだろ」
「……そういうものかしら」
「そういうもんだ」
そのやりとりを聞いていた隣のテーブルの常連客が、クスクスと笑いを漏らした。店員が苦笑しながら皿を置き、「すみませんねぇ」と小声でつぶやく。舞台のようなざわめきの中で、三人の声だけが鮮やかに響く。
中条は苦笑しつつ盃を口に運び、淡々と付け加えた。
「でも、あのときの栞ちゃんの顔は、忘れられない。あの騒ぎの中でも、彼女だけはずっと落ち着いて私たちを見ていた。……あれは、ただの“被害児童”の顔じゃなかった」
宮本と黒川は一瞬だけ、黙り込んだ。
冗談の余韻が薄れ、場に静かな空気が降りる。