プロローグ:乾杯の夜
この物語は「紙と鉛筆とステイゴールド」の世界におけるもう一つの物語です。「紙と鉛筆とステイゴールド」を読了頂いた方々への感謝をこめて、その後日談的に楽しんで頂ければ幸いです。
四月の夜風がまだ冷たい。駅前のアーケードを抜けた先に、朱色の暖簾がゆらゆらと揺れている。居酒屋「舞子」――富山で古くから親しまれている飲み屋である。テレビドラマの舞台にもなったこの店の木の格子戸を開けると、魚を炙る香ばしい匂いと、だしの甘い湯気が鼻をくすぐった。カウンター席には常連客らしき初老の夫婦が並び、奥の座敷からはサラリーマンの笑い声が弾けている。
そのテーブル席の一つで、既に大ジョッキを豪快に傾けているのは黒川だった。
「ぷはぁ! これだよ、これ。富山の生は東京のよりも喉に染みるな!」
額に汗を浮かべ、もう一杯目を半分以上空にしている。目の前にはホタルイカの沖漬け、げんげの唐揚げ、白海老の天ぷら――酒の進む富山名物がずらりと並んでいた。
向かいで、落ち着いた調子で冷酒を口にするのは中条だ。地元の新聞社に勤める彼女は、学生時代から変わらぬクールな佇まいで、ジョッキではなく一合徳利を注文している。
「最初から飛ばしすぎじゃない? まだ乾杯もしてないのに」
呆れ顔を向けると、黒川は口の端を吊り上げて笑った。
「うるせぇな。久しぶりの地元なんだ。気持ちくらい先走らせてもいいだろ」
中条が肩をすくめると、宮本がメニューを片手に口を挟んだ。きっちりとしたスーツ姿のまま、細かく注文をつけている。
「すみません、このブリ大根、味付けは薄めでお願いできますか? あ、それから七味は別皿で」
「はい、かしこまりました」
店員が去ると、黒川がジョッキを置いてガハハと笑う。
「相変わらず細けぇなぁ、お前。東京にいたら絶対嫌われるタイプだぞ」
「失礼ね! 私は客として正当な要求をしてるだけよ」
「正当でも面倒なんだよ、それが」
わざとらしいため息をつきながらも、中条の目は少し柔らかくなっていた。
黒川はここしばらく、東大理学部の基幹数学科で、かつて自分も所属していた研究室とのやり取りや、この夏に控えた数学オリンピック世界大会に向けた協会との打ち合わせのため、東京に出張していた。二日前にようやく富山へ戻ってきたばかりである。
「こっちにいると、やっぱり落ち着くな。魚も酒もうまいし」
ジョッキを掲げながら言う黒川の声には、わずかに安堵が混じっていた。
ようやく三人の手元にグラスが揃う。
「それじゃあ――」
宮本が姿勢を正し、静かに言葉を添える。
「一之石との約束を果たせた。栞の復学に、そして私たちの再会に」
三人のグラスがカチンと重なった。
「かんぱーい!」
泡の弾ける音と同時に、胸の奥でもそれぞれの思いがはじける。
この三人が揃って酒を酌み交わすのは、本当に久しぶりだった。中条は地元大学を出て新聞記者に、黒川と宮本は東大に進学し、理系と文系の道へと分かれていった。学生時代に同じ空気を吸っていたとはいえ、その後の人生はばらばらで、気まぐれに個別で会う程度だった。
だが、「ステイゴールド事件」と呼ばれる出来事を契機に、また縁が結び直された。黒川が東京に出張すれば宮本と会い、中条が上京すれば宮本と二人で飲む。あるいは富山に戻った黒川と中条が顔を合わせる。そんな小さな集まりはこれまでもあった。けれど、三人が同じ席に揃うのは、栞の復学が正式に認められた今夜が初めてだった。
黒川は枝豆をつまみながら、にやりと笑った。
「いやぁ、まさか本当にあの子が教室に戻れるとはな。お前ら、よくやったよ」
宮本はすぐに反論する。
「よくやった、じゃないの! 裏でどれだけ根回しが必要だったか、あんた想像もしてないでしょう」
「そりゃ〜わたしにはできねぇことだ。だからこそ偉いって言ってんだよ」
「……まぁ、結果が出たから良しとしましょうか」
そう言いながらも、彼女の頬は少し緩んでいた。
中条は湯気の立つブリ大根を小皿に取り分けながら、二人のやりとりを見守っていた。静かな眼差しの奥には、取材で鍛えた冷静さと、長年の友情から来る温かさが同居している。
「でも、こうやって揃って乾杯できたのは、孝和くんがいたからよね」
その名を口にした瞬間、三人の表情に一瞬の影が差した。
黒川はジョッキを揺らし、宮本はグラスをじっと見つめ、中条はふっと笑ってごまかす。
「……あいつのことを話すと、どうしても酒が進むな」
「進むどころか、また愚痴になるんじゃないの?」
「おばさん扱いした子どもを許せない、ってやつ?」
宮本の顔がみるみる赤くなる。
「ちょっと! その話はやめなさい!」
黒川の大声と宮本の抗議が交錯し、居酒屋のざわめきに混じって響き渡った。周囲の客がちらりとこちらを振り向き、店員が苦笑いを浮かべて皿を運ぶ。その光景もまた、この夜の温度をいっそう鮮やかにしていた。