III. 爆速! すっごいそんなに爆速
「急げ、ソイ、急げ、ソイ」
奇妙な掛け声。マコは身の回りのものをテーブルに出す。パスポート。免許証。学生証。マイナンバーカード。裏面の臓器提供意思……は、白紙。
「今井マコ」
自分の名前の最後の一文字を、マッキーで塗りつぶす。「イ」と書いて、マイにした。
「今井マイ」
ふざけた名前だ。今井マイなんて名前の人間は、この世に居まい。今井だけに。俺はマコの右手を掴む。
「おい、何してんだ、マコ。落ち着けよ」
「今は、マイ! 今井マイ!」
この調子だ。会話にならない。
「急げ、ソイ。急ゲソイ」
マコは完全に狂ってしまった。俺は言葉の違和感にようやく気づく。さっき「まいばすけっと」前でバク転していた、例のゴッズドッグ氏みたいな話しぶりだ。パンツ二丁のマコは、……少し見てみたいが、状況を考えると今はごめんだ。
「急げ、ソイ。いそ急げ、ソイソイ」
「おい、やめろ。頭がおかしくなる。これ以上変な話し方をしたら、ほんとに怒るぞ!」
俺はマコからマイナンバーカードを取り上げる。既に他の書類は、マコらしからぬ汚い殴り書きで偽名になっていた。
マコのソイソイ節は止まり、ようやく静かになった。焦燥した顔つきで俺を見上げる。
「ちゃんと説明してからやってくれ。頼むよ」
俺はそう懇願する。マコは少し考えて、空中で文字を数え、慎重に口にする。
「マイ、悟ったとさ、今」
そう言われて、ようやく俺はピンとくる。俺より頭がよければ、みんな気づいてただろうに。だから単位を落とすのだ。天文学だが。
「わかった、回文か。でも今はやめてくれ。会話にならないだろ」
「ねえ、今、感染源はない? 本当にない?」
マコは怯えきった表情で回文をやめた。俺はうなずく。実際ないはずだった。生活に必要ないものは解体ガンで消した。部屋は引っ越し前みたいな状態になっている。
「砂時計は、上下ひっくり返しても使えるんだよ、カナタくん」
「はあ? だから?」
「『転逆』……逆転が来る。地球は裏面になるんだ」
「裏面? 待って、待って」
「時間がない。マイナンバーカード、返して。名前を回文にする。ゴッズドッグ氏は、回文で話すのをやめて、本名を名乗ったら、感染した」
俺は思い出す。確かに、あいつは回文で話していたのか。――そうよ、教祖!
「きっと『転逆』には、名前と発言を回文にすれば感染しないんだ。……多分、きっと」
「待てよ。名前? ゴッズドッグは回文なの?」
「God’s Dog」
マコは英文学科だ。きれいな発音で答えたが、俺は理解に数秒かかった。マコはひったくるようにマイナンバーカードを取り戻す。
「わかった。マイでいいよ」
「ありがとう。……うと、が、り、あ?」
マコは回文がパッと出てこない。今思い返すと、ゴッズドッグ氏は回文づくりのレベルが高かった。
「わお、神か? 田中カナタ! 良いネームね、良い!」
さすが教授、兼教祖だ。常人では、回文で意志疎通はできない。
そして俺は、田中カナタ。逆から読んでも、田中カナタ。わお、神か。
マコ……否。今井マイは、マッキーを手に取った。最後に残ったマイナンバーカードで改名を試みる。だが、署名欄に書かれた「今井マコ」の「コ」は、塗りつぶされるどころか、ペンが触れると白くかすれてしまった。
「あっ、文字が消えた」
俺は今井マイの手元を見て、思わずそう呟く。
「えっ、何? ほんとだ。転逆か。ヤバい」
今井マイも、つられてそう叫んでしまった。はっとして口を覆い、「ーキッマ」を投げ捨てる。
「……イバヤ、カ、逆転……、なんだっけ」
マイナンバーカードには何も書けなかった。彼女はそのとき、ぎりぎり今井マコだったのだろう。
「カナタくん」
今井マイ……いや、マコは目に涙を浮かべた。
それから俺の顔を見る。はっとする。ゴキブリか何かでも見るように、口を覆いながら、じりじりと後ずさる。
「……マコ?」
俺は脂汗をかく。転逆だろうか。
「いや、やめて。キモい。近寄らないで」
「マコ、自己紹介してくれ」
マコはバッグから解体ガンを取り出す。自分のこめかみに銃口を当てて、言った。
「私は……駒井マイ。田中カナタくんが大嫌い」
ビビビビ。紫の閃光。
そしてマコは消えた。かたんと解体ガンが落ちた。がらんとした二人の部屋に、俺だけが取り残された。
腹が減った。
俺は飯の袋からコロッケを取り出す。レジ袋は真っ黒になっていたが、中身は無事だった。
米を冷凍庫から出して、電子レンジで温める。ラップをかけ忘れた。乾燥するかと思って取り出したら、水でびしょびしょのおかゆになっていた。
目から涙が出てきた。
敗戦。人類の文明生活が、あまりにあっけなく崩れていく。
(マコ)
俺はマコが大好きだった。俺をキモがったのは駒井マイらしい。それはまだ、救いだったかもしれない。