II. 少し速く(?!)
晩飯を買いにスーパーに行く。
アップルストアと外食の予定はとりやめだ。解体ガンのせいで、マコのスマホは空気になってしまったから。
近くの「まいばすけっと」に行くと、店の前でバク転をしている男がいた。
パンツ一丁で、頭にもパンツをかぶっている。つまり、彼の衣服はパンツ2枚だ。
「わお、神か? 田中カナタ! 良いネームね、良い!」
男がいきなり俺に声をかける。ひっ、とマコが小さな悲鳴を上げた。
「へ? 誰? なんで俺の名前知ってるの?」
「ゴッズドッグ。アイ、ゴッズドッグ」
『転逆』かと思っていたが、男はわざわざ自分から自己紹介した。自分の顔を指さして、すかさずバク転。
胸板の薄い中年男だが、バク転は筋肉がなくてもできるらしい。ただ、歩道の上なので、手が擦り切れている。血が出て痛そう。マコは俺の影に隠れて、パンツ野郎から目を逸らしていた。
「おっけー、ミスター・ゴッズドッグ。目障りだからどいてよ」
「ノン。ゴッズドッグだけだ、ゴッズドッグ」
「なんなの、あんた。クスリやってんの、それとも宗教か何か?」
「そうよ、教祖! ゴッズ・ドッグ」
バク転。バク転。とうとうマコが、さっきもらった解体ガンをかざして脅した。ぶるぶる震えている。
「あなた、『転逆』ですか?」
「ノン! ゴッズドッグ、ノン転逆。逆転ノン!」
男は目を丸くして、あわあわと弁解した。何か知っているような雰囲気だ。俺は尋ねた。
「おい。転逆について詳しく知ってるなら、ちゃんと教えろ。うちが突破口になってるらしいんだ」
「え? 無理だ。リームー」
とうとう俺も解体ガンを構えた。パンツ男はバク転をやめて、泣きそうになってひざまずく。
「ハア……感染源、ない? 話します、話します」
ゴッズドッグ氏は地面の上にあぐらをかく。普通の喋り方もできるじゃないか。パンツ二丁のオッサンと大学生2人が話しているので、周りに人だかりができ始めている。
「田中くん、覚えてないか、私は天文学の教師だよ。君が単位を落とした」
「えっ、ああ。ほんとだ。……ゴッズドッグ? 鶴崎先生ですよね?」
「それは新しい名前。『転逆』の時が来たからね。カッコいいだろ? 神の飼い犬だ」
「いや、そんなこと、パンイチで言われても……」
「知ってるか? 地球は回っている。自転。公転。逆転だ」
「……ねえ、先生の創始した宗教の話じゃないよ」
俺は苦笑する。らちが明かない。無視して買い物しようかな。
だが、ゴッズドッグ氏はそこで宗教談話を中断した。急にがくがくと震えはじめる。彼は俺の左腕を指さした。
それは腕時計だった。文字盤を見ると、秒針が反時計回りに回転していた。
性質が、逆転する。転逆だ。
「……転逆! ……ンテーコン、テジ、ルイテッワ、マハウ、キュ、チ……」
ゴッズドッグ氏は早口に唱えた。それからバク転を始めようとした。
だが、バク転はすぐに止まった。立ったのではない。ゴッズドッグ氏は逆立ちになったのだ。
遠くに三尉が見える。パンツを頭に履き、尻に被った男の目は、恐怖に震えた。
「……あんた、名前は?」
「キサルツだ。田中カナタ。生きろ、抗え」
それが天文学者の最期の一言だった。ビビビビと、解体ガンの銃声がした。紫のビーム。ゴッズドッグ氏は赤い霧になって消えた。
渡邊三尉が二人を叱る。
「よく観察しろと言っただろ。その腕時計も解体するから、腕から外して俺に渡せ。お前ごと消すぞ」
俺は思い出の腕時計を手渡した。マコが誕生日にくれた時計だ。
そのお返しにマコにあげた腕時計も、予防のため、同時に霧になった。
「荷物検査をする。やはり『転逆』が広がっているんだ。お前たちが感染してないのが、不思議なぐらいだよ」
センサーが全身にかざされる。空港みたいだ。
「これも感染してるじゃないか。ほら」
三尉は俺の財布も取った。ブランドのロゴが変わっていたのだ。htimS lauP。
「なんでこれを放っておいた」
「いや、気づかなくて……」
「見ろ。中身まで『転逆』の餌食だ。ふざけてるぞ。マイナス1万円だってさ」
俺の所持金とカードも霧になった。あんまりだ。
そのとき、肩から下がったトランシーバーが、ノイズ交じりの声で渡邊三尉を呼んだ。
「俺は他のところに援護に行く。家で大人しくしていろ」
「飯を買いに来たんですけど……」
「じゃあ買ってすぐ戻れ。カップルに言うのも酷だが、もしものことがあったら、自決も考慮に入れろ」
食欲減退だ。自決、したくないな。
店員に惣菜のコロッケを包んでもらう。普段からこんな食事ばかりしているのだ。ここのコロッケは美味い。
「砂時計、売ってないんですか? ニュース、見てないの?」
「す、砂時計? いや、ちょっとうちでは取り扱ってないですね」
「早く入荷したほうがいいですよ。絶対客が押しかけてきますって」
「ええっ……。砂時計で? 何かあったんですか」
店長は眉をひそめる。俺とマコは肩をすくめあった。ぐうたら学生ばかり住んでいる街だ。誰もニュースを見ていないのだろう。
「戦争が始まったんです。『転逆』とかいうのが攻めてきて、なんかわからないけど、生活が滅茶苦茶に……」
「はあ。それで、砂時計?」
店員は訝しげだ。俺たちもわかってないから困る。
「時計を捨てて砂時計を買えって、防衛大臣が言ったんです」
「はあ」
「実際、俺たちの腕時計は壊れました」
「はあ。じゃあスマホの画面でも見たらいいじゃないですか」
「スマホは『転逆』が感染するから……ああ、もう、説明になんないよ」
「はあ。で、砂時計は、そのナントカが、感染しないんですか?」
「いや、知りませんけど、大臣が……」
そう言ったときだった。横で聞いていたマコが、スーパーじゅうに響くような大声で叫んだ。
「あーっ! ゴッズドッグ! あーっ!」
彼女はレジ袋を放り投げて、走って家に帰っていった。店員と俺は、呆然とその背中を見送った。