I. 少し伸ばし気味にして、生き生きと
人は流される。何に?
答えは、ウォシュレット付きのトイレ。
人は喰われる。誰に?
答えは、正月の餅。笑
「ダメだ。意味わかんない」
マコはスマホを俺に見せる。iPhoneのAIアシスタント、Siri。マコとSiriの会話内容を見て、俺も首をかしげた。
<ヘイSiri、面白いことを言って>
<はい、とびっきりのジョークを用意しました>
で、さっきのトイレと餅だ。
「カナタくん、これ、面白い?」
「いや。英文学的には、どう?」
「面白くない。てか、意味わかんない。物理学的には?」
「単位落としまくってるから、わかんね」
「あなたはいいね、お気楽で」
同棲一か月。俺たちは大学生カップルだ。市谷の端にあるボロアパートで、一緒に住んでる。
この数ヶ月、日本は戦争をやっていた。見ればわかる。自衛隊員が街をうろついてるから。でも、どこでどの国と戦ってるのかは、誰も知らない。
俺たちは普通に大学生活を送っていた。戦時下でも、一般人の生活はそう変わらない。ミリオタの友達曰く、もともとそういうものらしい。敗色濃厚になるその瞬間まで、国民の日常に影響はないんだとか。
その国民の日常が、一変した日だった。
Siri故障事件に対処しているうちに、俺のスマホに緊急アラートが届いた。総理大臣が公式に会見をするというのだ。
「私たちは戦時下にあります。これまで自衛隊が、極秘裏に防衛活動を続けてきましたが、とうとう限界が来ました。これ以上は、皆さんに協力を仰がなければなりません」
総理は一礼する。なんで俺が頭を下げないと、と言わんばかりの顔だ。不満なら会見をするな。
「敵は人間ではありません。宇宙人でも、地底人でも、AIでもありません。『転逆』です」
俺とマコは顔を見合わせる。敵の名前が、漢字に変換できなかった。
「カナタくん、テンギャクって何?」
「知らないよ。マコが知ってるべきだろ、英文学専攻なんだから」
「フィッツジェラルドに人間以外の敵が出てくるわけないでしょ」
誰それ。俺は首をかしげた。
会見は防衛大臣に代わる。ブルドッグみたいな顔の大臣が、蚊の鳴くような声で、自信なさげに読み上げる。
「ええっと……『転逆』を発見したら、陸上自衛隊が現場に向かいますので、速やかに指示に従ってください。それから、『転逆』は目に見える敵ではありません。概念です。どこにでも侵入してきます……?」
自分でも意味がわからないらしい。報道陣から失笑が上がる。防衛大臣は息をついて、原稿の最後に載っていた妄言を読み上げる。
「時計はよくある『転逆』の突破口です。今すぐ捨てましょう。非常用に砂時計を買いましょう。……ねえ、この文章、どういう意味?」
とうとう防衛大臣自身が質問をしてしまった。台無しだ。
マコと俺は同時にあくびをした。私たちの生活はこれからも変わらない。起きて、食って、ヤッて、寝る。ときどき講義に行く。
「どうする? 時間あるし、アップルストアでiPhoneを診てもらったら? あ、そういや、晩飯もないんだよね。外食する?」
俺がマコに提案したときだった、アパートの扉を、ドンドンと叩く音がする。
「『転逆』がそこにいるだろう! 隠すとためにならないぞ!」
「はあ?」
俺とマコは顔を見合わせる。扉のレンズ穴を覗くと、武装した自衛隊員だった。逆らえないから、仕方なく扉を開ける。
「どなたですか……?」
「陸自、対『転逆』特殊レンジャーの渡邊だ。階級は三尉。入るぞ」
三尉のもつデカい金属探知機のようなものが、ビイビイと警告音を鳴らしていた。土足でずかずかと人の家に踏み込んでくる。マコと俺の二人は、棒立ちで侵入者を見守るしかなかった。
三尉はセンサーを家じゅうの物にかざす。
「『転逆』を消すことが、俺の仕事だ。黙って俺に従え。……たぶん、それだ」
三尉が指さしたのは、マコのスマホだ。机の上に置かれたままになっていた。
「あ、それ、Siriが壊れてるんですよ」
「なるほどな、Siriか。壊れてるわけじゃない。ヘイSiri、自己紹介してみろ」
「……私はIris。あなたの忠実なAI管理人です」
その瞬間、渡邊三尉は不思議な形の銃を向けて、マコのiPhoneを正確に撃ち抜いた。
ビビビビ。銃から紫色の光線が出た。マコのスマホは霧になる。俺たちは目が点になった。恐ろしいレーザー銃だ。
「これが『転逆』だ。貴様ら、よくも数時間も隠していたな」
「そ、そんなこと言われても……会見、さっき見たばっかりだし」
「うるさい、口ごたえするな。おい、手を出せ。『解体ガン』だ。護身用に渡しておく。二人とも、射撃はできるか」
三尉は同じ形の銃を俺たちに渡そうとする。早すぎる話の展開に、俺とマコは肩を抱き合って、ぶるぶるとかぶりを振った。射撃ができる一般人なんて、いるわけがない。そっちの方面はミリオタの友達に任せたい。
「扱いやすいぞ。実体弾じゃないから、反動はない。お前たちが突破口を放っておいたせいで、この辺りはかなり危険になってしまった。これから『転逆』が、どしどし攻めて来るぞ。気を引き締めろ」
マコは怯えて言葉が出ないらしい。俺が勇気をもって話すしかなかった。
「『転逆』って、何なんですか」
「《《感染性の概念》》だ。よく観察しろ。喋れる相手なら、自己紹介をさせろ。もし『転逆』に感染していたら、名前が逆転する」
「自己紹介……」
「そして同時に、何らかの性質も逆転する。具体的に、何がどう逆転するかは、まちまちだがな」
「逆転……まちまち……」
大混乱。三尉はため息をつく。
「とにかく、名前と性質がひっくり返るんだ。それ以外にルールはない。『転逆』は感染する。自分に感染る前に、ためらわず撃て」
「意味がわかりません。間違ってたらどうするんです」
「そこはカンを信じるしかない。まあ、実際に何回か出会えば、すぐわかる」
「そんな、一般人に銃なんて……」
三尉が俺をぎろりと睨む。それ以上の説明はなかった。三尉はトランシーバーに向かって低い声で話している。
「こちら渡邊。やはり『転逆』だった。市谷に突破口を開かれた。送れ」