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池の水面に満月が映って揺らめいている。鳥が、ばさばさと木々をざわめかせる。
怖い。
ぼんやりと歩いていると、不意に――ゆら、と景色が変わった気がした。
「え?」
気が付けば。
私の目の前には、先日天神駅前で捕まってしまったあの占い師がいた。
「見つけた」
金に輝く目を光らせ、低くうなるようにつぶやく。
ぱっと見は人の形をとっているものの、ローブのフードを被った頭からは猫耳が飛び出していた。手足の服はびりびりに破れ、中からもふもふの黒猫の手足が覗いている。
猫ちゃんだ~♡可愛い~♡
なんて癒されない! とんでもない!
鋭い爪がぎらりと輝き、私へとじわじわと近寄ってくる。
「あの、猫さん、その……私はただの会社員です、美味しくないです……!」
「結界を張った。貴方をここで切り刻んで血を啜っても、誰の邪魔もされない……」
私は背筋が凍った。
心の内側、自分でも知らない体の内側から、声が聞こえてくる感じがする。
――だから怖かったの!『普通』じゃなくなるのが、怖かったの……!
がたがたと震えながら後ずさる。
「お願いします、私、死にたくないです、お願い」
「俺だって死にたくない。……貴方を殺したくもないが、そうしなければ生きていけない」
誰か助けてほしい。
にじりよってくる彼から後ずさりつつ、辺りをきょろきょろ見回しても当然深夜。
誰も助けてくれる気配がない。必死に考えろ、考えろと自分に言い聞かせる。
ぎゅうっと鞄につけたICカードを握って思考する。
会社にクレーマーが乗り込んできたときのことを思い出した。
男性社員が全員出払っていて、贄島先輩は悲鳴を上げて逃げ出した。
先輩が売りつけた案件のクレームだったにもかかわらず、だ。
たった一人で顔を真っ赤にしたおじさんと向かったときの、あの恐怖を思い出す。
あの時私はどうしたか? おじさんをなだめたのだ。おじさんだって『普通』に幸せでいたいはず。怒って事件を起こせば、『普通』ではいられなくなることを、落ち着いて話してきかせたのだ。
時間稼ぎしなければ。深呼吸をして、私は言葉を紡いだ。
「猫さん……こんなことをしたら……人間に気づかれなくても、お仲間さんとか、あやかしを退治する人たちには見つかっちゃうんじゃないんですか!?」
私は篠崎さんの言葉を思い出していた。
あやかしにはあやかしのルールがある。
篠崎さんはあやかしの自浄作用として猫さんの不法行為をとがめていた。
きっと人間が気づかなくても、あやかしが私を襲ったとなれば黙っていない誰かがいる。
――ここで止めなければ、猫さんも、あやかしの皆さんもみんな困ることになる。
「どのみち魂を吸わなければ俺は死ぬ。俺はまだ、死にたくない!!」
「篠崎さんに相談してみましょう? あの人、貴方を助けるために動いてましたよ」
「嘘だ!」
猫さんが半狂乱に叫んだ。
襲い掛かる爪。反射的に身を庇うと、ばちんと何かをはじく音がする。
私が、何かに守られている。
「あの狐……」
「え?」
猫さんは私のトートバッグを凝視している。
そこにぶら下げていたICカードケースが淡く光っているので取り出してみると、はや○けんの例の犬の目が光っている。よくわからないけれど私を守る護符になってくれているらしい。
「はや○けんってこんな機能あるんだ……あ、目にシールが貼ってある」
そういえば昨日、川副さんの屋台に行く前、彼は私のトートバッグを勝手にかっぱらっていた。
その隙に貼られたのだろう。
「篠崎さん……」
篠崎さんは私を心配して、こうしてお守りをつけてくれていたのに――私は彼の誘いを一方的に断った。恐怖を感じて、怖じ気づいて、一方的に拒絶して。
あの時私を見送った篠崎さんは寂しそうな顔をしていたように見えた。
人間が、こうして怯えるから。
普通じゃないって退けた世界の中に彼も、目の前の猫さんも生きている。
私は篠崎さんの事も、あやかしの事も何も知らない。
けれど彼は少なくとも、私に美味しいうどんをごちそうしてくれた。
しかも。
普通の人間なら食べに行けないらしい、川副さんの美味しいうどんを。
彼らは平和に過ごして、あやかしが人間社会から駆逐されないように頑張っている。
私がここで猫さんに負けてしまっては、猫さんが私に危害を加えてしまえば――彼らの『普通』が脅かされてしまう。
――それに。
私は目の前の猫さんを見た。
「ッ……!」
猫さんは私の視線に身構える。
彼も本当は、この社会にいたい人なんじゃないだろうか。
私は深呼吸をして、務めて穏やかに猫さんに微笑みかけた。
「猫さん。私を今襲っても、何の問題の解決にもならないですよ」
「……少なくとも俺の霊力は満たされる。『此方』にいられる時間が、長くなる」
「でもどうせ、すぐにお腹がすくんでしょう? 私がどんなに美味しい霊力を持っていようとも、1年、10年って、ずっと満たされていられますか?」
「……」
「そんな短い時間の為に、猫さんの猫生棒に振るのはやめましょうよ」
霊力なんて知らない。
あやかしなんてわかんない。『普通』じゃない事なんて、怖い。
けれど――私は困っている彼を、ほおっておけるほど冷たくなれない。
「本当は、人を襲うのは嫌いなんですよね? だって私を襲いたいなら、そんな風に宣言なんてしなくていいはずです。後ろからガバっと、爪を立てたら私なんて一発でしょう」
「それは……」
「先日だって、そうです。私に強引にパワーストーン・ブレスレットを押し付けようとして……セールストークを言ってましたけど……本当は、どこかで聞きかじったセールストークを口にしていただけですよね」
猫さんの目が見開く。私は確信した。
「私は『普通」に生きたいって相談しました。猫さんが真剣な顔をして傾聴してくださっていた時、確かに私の気持ちを汲んでくださっていたように思います。なのに、ブレスレットの話になった途端、突然見当違いのお話をし始めましたよね。貴方はどこかで占い師がパワーストーンを売りつける姿を見たことがある。そのやり方で、霊力を吸い取るしかないと思った。だから形だけ見様見真似で真似した……違いますか?」
表情は固いものの体は素直だ。猫さんの尻尾がふにゃり、と下がる。
やっぱりこの猫さんは悪い人じゃない。ちゃんとした人だ。
「私、猫さんに話を聞いてもらえて嬉しかった。今度は……私が、猫さんの事情を聞きたいです。殺す、殺されるじゃなくて。……ダメですか?」
その時。
私の背後から足音が近づいてきた。
街灯にきらきらと輝く金髪に、ぴんと伸びた狐耳。篠崎さんだ。どうしてここがわかったのだろうか。もしかして私のカバンにまだ何かいろいろ仕込んでる?
私をよそに、彼は猫さんをまっすぐに見つめた。
「かつてあやかしは人に使役されていた。そして今のあやかしは人の社会で仕事をする。人に……必要とされることが、あやかしが『此方』で生きていくために……必要だから」
「そうだ」
猫さんが口を開く。
「だから俺は……天神で……」
「わかってるよ。だからスカウトしに来たのに、なんで逃げたんだよ昼間は」
「……」