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「失礼致します~」

「お、おはよう菊井ちゃん、今日もバリスタレベルのコーヒーだねえ!」


 恰幅の良い目尻の下がった、隈の目立つ50代ほどのおじさん。

眞美毅まみたけし社長がぱつぱつの体を窮屈そうに高級な椅子に押し込んで、ニコニコと笑っている。社員の誰よりも早く会社にいるのが心情だという社長の心意気は尊敬する。けれど、会いたくはない。セクハラも嫌だ。


「いえいえ……とんでもございません……」


 私が机にコーヒーを置くと、ガシッと手を掴まれる。

 息を吞む私に、ぐぐっと顔を近づけてくる。


「考えてくれたかね? 今日の夜は中州に付き合ってほしいという話だが」

「え、ええと……」


 他に取引先の人や、同じ会社の人がいる飲み会なら平気だ(大変だけど)。

 でもこうして社長室で手を掴んでくるような社長と二人っきりは、あまりよくないのではと本能が警告を鳴らしている。


「大丈夫、わしの知り合いの経営する店だから、家族ぐるみのね、つきあいというものだ。今時いない良い子が入社したと、みんなに紹介したいのだ、いいだろう?」

「そのお気持ちは、お気持ちは凄くありがたいですが……!」


 ぐいぐいと近寄られ、身を逸らし、海老反りになりそうになりながら愛想笑いでごまかす。

 その瞬間、タイミング良く朝礼の時間を告げる気の抜けるほわほわとしたベルの音が鳴る。社長は手を離し、投げキッスをして去って行った。


「……疲れた……」


 そして社長室から出ると、やはりばったりと先輩と鉢合わせてしまう。

 贄島鶏子にえしま けいこ27歳、大卒入社の、7歳年上の女性だ。


「おはようございます」


 挨拶をしても、当然無視される。

 また愛人として朝から――という噂が流されるやつだ。 

 最悪すぎる。

 そんな贄島先輩は始業そうそう、突然私に話しかけてきた。


「菊井さん、資料作っといた?」

「ええと、こちらでしょうか」


 私はあえて「事前に完璧に準備してました」感を出さないように慌てた様子でそっと資料を出す。先輩は面白くなさそうに資料を眺め、渋々受け取る。困らせたかったのだろう。


「あら、今朝も社長室に長ぁくいたのに、資料作りはしていたのね?」


 オフィスのみんなに聞こえるように先輩は言う。私はいたたまれなくなりつつ、愛想笑いでごまかす。


「ま、必要だと言った覚えのない資料もいきなり出せるほど、よぉく会社のことを分かっているようだから、愛されるんでしょうね? どんな愛されかたかは知らないけれど。まあ、助かったわ。あたしこういう生産的じゃない仕事、絶対したくないのよね」


 先輩はひらひらと手を振り、営業に向かう。

 先輩の目を盗むように、男性社員の一人が私に小声で「お疲れ」言う。

 また、その瞬間に先輩の舌打ちが聞こえる。ああ、目の前で私をねぎらわないでくださいと、私は身が縮む思いがする。

 午前の業務が終わって、他の社員は昼食に散っていく。私は電話番をしながらお弁当を食べていた。今日は昨日の肉じゃがの残りとご飯と、ゆで卵だ。

 

「生産的じゃない仕事、かあ……」


 一般事務の業務は好きだ。

 自分がやったことがきちんと整い、他の社員たちの気持ちの良い業務に繋がるのが楽しい。

 それを馬鹿にされると悲しくなる。


「菊井ちゃん」

「っ!?」


 後ろから肩をポンと叩かれ、私は悲鳴を上げそうになる。

 社長がもみもみと、肩を揉んでくる。


「しゃ、社長……あの……」

「美味しそうなお弁当だねえ? 菊井ちゃんが詰めたのかい?」

「は、はい……中身は昨日母が作ってくれていたお夕飯で……」

「ふふ、美味しそうだねえ」


 美味しそう、がお弁当ではなく、なんだか私にかかっているようなえもいわれぬ不快感が襲う。気持ち悪い。他の人がいない隙を狙ってやってくる社長を振り払うこともできない。多分社長室においてある監視カメラをしっかりチェックして、ここに来てるのだ。

 デスクの電話が鳴る。急いで私が取ると、先輩のつんざく声が聞こえた。


「ちょっと、取るの遅いわよ! 電話番のくせに怠けてんじゃないでしょうね。調べて欲しい電話番号があるのに」


 助けられた! 私は先輩の甲高い声に救われながら、社長から離れて先輩のデスクへと向かう。

 社長がしぶしぶ離れていくのが見えた。

 先輩に怒鳴られながら、言いがかりをつけられながらぺこぺこと機嫌を取って、電話を切る。休み時間があと5分だと気づき、私は慌ててお弁当をかき込む。

 机の上を片付けて、水筒のお茶を飲んで、ふう、と椅子に沈む。どっと疲れた。

 ――結局私、どうすればいいのかな。

 社長にはとにかく好かれる。そのことで周りから変な目で見られる。

 周りから信頼されるために私は頑張ってきた。仕事だって覚えたし、無茶振りにだって答えられるように失敗を重ねながら三年間積み重ねてきた。仕事は楽しい。

 けれどそれが反感を呼ぶなら、どうすればいいんだろう。

 我慢するしかないって分かってるけど。

 私は昨日別れた篠崎さんのことを思い出す。

 あの人についていっていたら、何か別の道もあったのかな。


◇◇◇


 業務後、結局社長に中州へと連行された。

 終電になるまでご馳走になったのはいいけれど、隣の席でずっと密着されて、同席した社長のお友達と言われるおじさんたちも、料亭の大将も、私を『そういう相手』として眺めてくる。最悪だった。何でもみなさん里は愛媛で、色々わけあって福岡に移住して、力を合わせて生きてきたらしい。


「まあ、今は羽振りも良くなったし、これからは伊予など敵では無いよ」


 あっはっはとみんなは笑った。

 私はザルなので、酔いもしないまま全部あいまいに話を合わせて過ごした。

 その後、実家暮らしであることを理由に、私は中洲川端駅から地下鉄に飛び乗った。

 幸運にも空いていた座席に滑り込み、トートバッグを抱えて目を閉じる。

 体感としては、一秒くらいまどろんだつもりだった。

 ――だが、朗々とした車内アナウンスが『大濠公園駅』と告げたのに、バッと身を起こす。

 違う。

 これ、真逆だ。

 真逆に乗ってる。

 私はドア付近にたむろする酔っぱらいをかきわけ、あわてて大濠公園駅で降りた。

 過ぎ去っていく地下鉄を見送り、私は呟く。


「あぶなかった……唐津に連れていかれるところだった……」


 どっと疲れを感じると同時に、何もかもどうでもよくなってくる。

 突っ立っていてもしょうがないので、私は駅のホームから地上に出て大濠公園へと歩を進めた。

 すでに時刻は0時を回っている。


「どうやって帰ろう。タクシー? ……でも、なんかタクシー乗りたくないなあ……」


 すっかり日が落ちた大濠公園には勿論、誰の姿もない。

 私の中で大濠公園といえば、普段は犬の散歩をする人やジョギングをする人で賑わっている穏やかな憩いの場だ。そんな場所が真っ暗でこんなに閑散としていると、ちょっと怖い。

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