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そのあいだじゅう、通りすがる人々の視線、特に若い女性の視線が篠崎さんに注がれているのを感じ続けた。耳と尻尾が注目を集めてるのかなとも思ったけれど、どうも違うらしい。ショーウィンドウに映る映る篠崎さんを見れば、ごく普通の黒髪短髪の、身なりの良いお兄さんの姿をしていた。
顔の美しさはそのままだけれど、髪型と尻尾と耳がないだけでまるで別人みたいだ。
そのことについて篠崎さんに尋ねると「本当の姿が見えているのは、霊力があるあやかしか人間だけだ」と言われる。
「この可愛いのが見えてないって世間の人は可哀想……」
「なんか言ったか?」
「あ、いえ」
そして私は道すがら、篠崎さんに色々と質問をされていた。
巫女の家系かどうかといった、だだ漏れ霊力の理由探しのためだ。
けれど結局、私がごく普通の一般家庭育ちだと知って、篠崎さんは肩をすくめた。
「そうか。菊井さんは巫女の家系でも公務員でもなんでもないと」
「はい。ずっと福岡で暮らしていたらしいんですが、本家があるような家柄でもないと聞いています。そもそも戦争とか幕末とかで、いろいろ家の記録は燃えちゃったらしいので、すごく遡ったところがどうなのかは、わかりませんけど」
「そんな霊力でうろついてて、よくこれまで襲われなかったな……」
「そ、そこまで酷いんですか、私の状態って」
「あやかしから見たら、全身に生肉ぶら下げてサファリパーク歩いてる餌だな。しかも博多和牛とか佐賀牛とか、そんなめちゃくちゃいい肉。あやかしが見える一般人は珍しいんだ。すぐに食われるからな」
「ヒッ」
「……街の治安のためにも、それはなんとかしてもらいたいんだが……本当に今まで襲われたことはない?」
「な、ないと思いますけど」
「妙に人に好かれたり、やけに距離を詰められたり、不可思議なことは?」
「…………ない、はず、です……」
言いながら、私が思い出していたのは会社の社長だ。
筑前クリア事務機というOA機器販売・リースを手がけている会社だが、そこの社長、眞美毅社長に私は今、転職に追い込まれるほど溺愛されてこまっている。
けれど篠崎さんの言っているのはあやかしの話なので、社長の件は別だろう。
「というか」
「ん?」
「……そういう寺社仏閣関係の方って、やっぱり見えるんですね」
私は弊社の先輩、贄島鶏子を思い出す。
私が社長に媚びてるとか、愛人とか、妙な噂を流してくる張本人だ。
彼女は以前、髪の毛をかきあげながら、
「あたし、離島の巫女の血をひく末裔なの。だから、たまに視えちゃうのよねぇ」
なんて話をしていた。唐突すぎる自己紹介にびっくりしたので覚えていたのだ。
篠崎さんは考えることをやめたらしく、ふう、と溜息をついた。
「まあ歴史を辿れない事は多いしな。女系は特に、繋がりが残らないことも多い」
「でも私、これまであやかしなんて視たことないんですよ」
「今日いきなりって事なんだな?」
「ええ……たぶん」
「何らかの形で、菊井サンにかけられていた封印が完全に解けたのかもしれねえな」
彼は顎に手を添え、一人考え込む様子だった。
「きっとたまたまですよ。私、取り立てて目立つこともない普通の会社員ですし」
「本当か?」
「ええ」
「……ほんっとーに、妙なことはないんだな?」
「……え、ええ!」
どきっとしたけど、私は笑って誤魔化す。
私と彼はそのまま地下鉄天神駅のホームへと降りていく。そこは、帰路に就く老若男女であふれていた。
不意に、篠崎さんが口を開く。
「なあ、菊井さん。俺の所で働かないか」
「え」
「あんたは巫女の素質があって、更に霊力がだだもれだ。その霊力を抑えねえと、あんたは延々とあやかしに絡まれ続けるぞ。転職活動中なんだろ? まあ、見てみてくれ」
彼は私にタブレットの画面を見せる。
そこには求人票が一面に表示されていた。
私はそれを上から下まで読み込んでいくうちに、色々と変な冷や汗が出てきた。
みたことのない給与。みたことの無い福利厚生。
正真正銘の、ドホワイト。
「……あの……いろいろ間違えてません?」
「何が」
「私の経歴で……その、あまりにホワイトというか……というか、私の経歴は見なくていいんですか? 大卒ですらないのに? ただの高卒一般事務ですよ?」
「履歴書入社してからでいいわ」
「雑ですね!?」
あまりにうまい話すぎて困る。
唐突に頭の片隅に、夕方の猫又占い師の姿が浮かぶ。
――もしかして、私は騙されているのかもしれない?!
「転職活動してるっつーことは引継ぎの準備くらいやってんだろ? 来週からでも来れるか。引き継ぎは限界までこなして終わらせろ」
「強引すぎです、早すぎです」
「菊井さん、こっちは真面目に言ってるんだ」
彼はずい、と顔を近づける。金の瞳孔が細くなる。
「さっきも言ったが、あんたは全身に生肉巻いてサファリパークでボックスステップ踏んでるような状態なんだ。あんたのためにも天神福岡の治安のためにも、とにかく霊力をなんとかさせてくれ」
「え……ええと」
「霊力もなんとかしてやるし、仕事も与えてやる。願ったり叶ったりだろ?」
「でも、でも、私はもっと、『普通』の就職を意識していたというか……」
突然の展開に私は混乱してきた。
これまで身の丈に合った、『普通』の人生を目標に生きてきた。
――なぜか怖いのだ。本能的に、知らない世界に飛び込むことが。
そう。私は異常に、『普通』から外れるのが怖い。
大学進学を目指さなかったのも、上京する気になれなかったのも。
家から通える範囲の、高校から照会される会社に就職したのも。
セクハラと居心地の悪さで苦労しながらも、『普通』の恋愛や結婚ができなくなるかもと気付くまで、転職する発想すら起きなかったことも。全部、未知に飛び込むのが怖いのだ。
「……すみません。私……怖いんです」
「怖いって?」
「『普通』じゃないことが……怖くて。なんででしょう、昔からこういうとき、手が、震えて……」
がたがたと手が震える。篠崎さんが気付いて、私に手を伸ばしてくる。
私は思い切り頭を下げる。
「あの、本当にお心遣い嬉しいのですが、あの、やめときます! 本当に申し訳ございません!」
「あ、おい」
私は駆け出して市営地下鉄に飛び乗った。
「駆け込み乗車はおやめください」
大変迷惑そうな車掌さんの声。
私はぺこぺこと頭を下げる。篠崎さんはぽかんとした姿で、ホームに置いていかれていた。
見えなくなってようやく、私はほっと溜息をついた。
◇◇◇
――普通じゃない一日を迎えても、次の日は変わらぬ朝がやってくる。
翌朝私はいつものように会社へと向かい、しんとした社内でタイムカードを打刻する。
時間は朝7時。郵便の仕分けから今日の営業が使う資料準備と整頓と、その他、昨日私が退社後、営業さんたちによって丸投げされた細かなタスク。
私は一人、ミスプリントの裏紙で作ったチェックリストにまとめていく。
優先順位をつけて、多分今日頼まれるだろうなと思うことを予測して空きをつくる。
こういう一般事務と雑用の仕事は正直、好きだ。
自分がやったことがきちんと整い、他の社員たちの気持ちの良い業務に繋がる。
「よし、今日もがんばろっと……」
そこまでしたところで、給湯室のコーヒーメーカーが美味しい匂いを立てながら完了のベルを鳴らす。 これを最上階の社長室まで持って行くのが、朝の業務の最後の一仕事だ。
気が重い。
今日は――朝礼と一緒に、業務に帰してもらえるだろうか。