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もしかしたら別の階に行ったのかもしれない。
そう思って私は地下から出て人混みを見渡す。
「雫紅さーん、雫紅さん……」
焦りながらあちこちキョロキョロ回ったその時。
天神駅の大画面前を見上げ、呆然と立ちすくんだ女性が目に留まる。
大きな帽子とメガネにマスク。雫紅さんだ。
「ああ、雫紅さん、そこにいたんですね――」
彼女に駆け寄ろうとして、私は彼女の表情にハッとする。
雫紅さんは、大画面で歌うアーティストに目が釘付けになっていた。唇が動く。
「jellyθ(ジェリッシュ)……」
私も隣に立ち、大画面を振り仰いで彼女の視線の先をみる。
明るいネオンカラーに染めたツーブロック。
華奢で骨張った長い手足に、ストリート系のファッションをオーバーサイズに着こなす若い男性。
甘くてざらついた声が魅力の、動画サイトで爆発的再生数を記録してきた、最近メジャーデビューしたばかりのアーティストだ。
「jellyθ(ジェリッシュ)……こんな大きな画面に出るくらい……うそ……」
彼女は感極まった声をあげ、メガネを外す。目が潤んでいる。
マスクを外した唇は、当然のように彼の新曲を正確に口ずさむ。
「なるほど……そういうこと、だったんですね……」
内向的なはずの彼女が、どうして思い切って地元を出て働きたいと言ったのか。
身内の前でどうしてあまり、働きたい理由や目的を言えなかったのか。
通勤圏内の福岡市内なのに頑なに一人暮らしをしたいと言ったのか。
どうしていきなりお金が必要になったのか、『働く理由』がありそうなのに、彼女は核心をぼかすような態度を取る。
私は全てに合点がいった。
大画面からjellyθ(ジェリッシュ)の姿が消えたところで、私は声をかける。
「雫紅さん」
「あっ!! あの……すみません。迷っていたら、その……」
「……推し、なんですね?」
私の言葉に、黒々とした美貌の瞳が大きく見開く。
「わかりますか」
真っ白な指に手を掴まれる。彼女の興奮を示すように、帽子に押し込んでいた黒髪がふわりと広がる。マスクを外しメガネを外し、すっぴんでも隠せない傾国の美貌がきらきらと露わになっていた。
「私、jellyθ(ジェリッシュ)大好きで……! 本当に、好きで! 芥屋の音楽祭で初めて歌を聴いた時、海の中で、私、叫んじゃって……!!!」
興奮する彼女に周りの目が集まっている。
「雫紅さん、ちょっと落ち着いてください。目立っちゃってますので」
「あっ、すみません……私ってば、初めて見た新曲CMだったからつい」
「ふふ、お気持ちはお察しいたします。ちょっと場所を変えてもっと聞かせてください」
赤くなる雫紅さんと一緒に篠崎さんの待つカレー屋に戻ろうとした私は、不意に、衆目に普通と違う何かを感じる。
男性の視線が異常に集まっている。
虚ろな目で、なんだかまるで催眠にかかったような眼差しで――
「もしかして……」
磯女。
意思を持つかのような長い黒髪を長く伸ばし、男を惑わせ生き血を啜る――
「雫紅さんの霊力、暴走してます!」
「えっ、あっ…!!」
彼女は慌てて帽子を被る。けれど一度解放してしまった髪と美貌の纏う霊力に、男性たちが次々と近寄ってくる。
これはマズい。私は篠崎さんと出会った時、言われた言葉を思い出す。
『あやかしは、与太話の中に姿を表す。
与太話がいくつも集まれば点が像を結び、怪異の噂になる。その道のプロはそこからあやかしのルール違反――猫又が天神駅で不法行為を起こしていたのを把握しちまうのさ』
このままでは彼女がルール違反を犯してしまう。雫紅さんは就職ができなくなってしまうだろう。
「どうすれば……」
雫紅さんが髪を隠して顔を隠しても、どんどん男性が彼女に集まってくる。
私に何ができる? できるかどうかじゃない、何とかしなければ!!
その時。男性の人混みの向こうから狐色の耳がぴょこっと見える。
「楓! 大丈夫か!!!」
「篠崎さん!!!!」
長身の篠崎さんの狐色の耳と頭が人混みの垣根を超えて目に留まり、私は少し安心する。
大丈夫。もしもの時は篠崎さんがいる。だから私は、雫紅さんの霊力をなんとかすることを考えよう。
「あ、」
その時。私は篠崎さんに霊力を吸われたのを思い出す。
そうだ。ああすればいいんだ。
「雫紅さん!!!」
「えっ」
善は急げ。私は隣で狼狽える雫紅さんの肩をガシッと掴む。雫紅さんが目を瞠る。
「すみません、失礼します!!!!」
そして――私は彼女に思い切り口付けた。
これは人工呼吸!!人工呼吸みたいなものだから!!!!
「――――――ー!?!?!?!?!?!!」
雫紅さんの声にならない悲鳴が響く。
霊力の吸い方なんてわからない。けれど念じればなんとかなるはず!
私は篠崎さんに霊力を吸われた時の感覚を思い出しながら唇を押し付ける。
なんだか体に力がみなぎるのを感じて――そして私は、そのまま気を失った。
「馬鹿か、お前は………」
倒れる私を抱き止める優しい腕。
篠崎さんの呆れ声が、遠くで聞こえるような、気がした。
◇◇◇
事務所3階の応接室。
俺は彼女の前でノートPCを開き、確認事項を交えながら面接の手続きを進めていた。
目の前には顧客の磯女――雫紅がソファーに浅く座り、気遣わしげな様子で、奥のソファーに寝そべる菊井楓の姿を見守っている。
「彼女、大丈夫ですか?」
雫紅は両手でアイスコーヒーを淹れたグラスを傾けながら言う。一階のカフェから用意してもらった自家焙煎のものだ。俺は笑顔を作って肩をすくめた。
「問題ないよ。元々霊力だだ漏れで生活していたくらいには霊力耐性があるやつだ。しばらくしたら起きてるさ」
「それなら、いいんですが……」
夕日の差し込むオフィスに、カチャカチャと俺がキーボードを叩く音が響く。
しばらく俺の手元を見ていた雫紅が、おずおずと話を切り出した。
 




