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「雫紅さんはお金を貯めて一人暮らししたいんですって。けれど人里に住むのは初めてで。だから彼女にあったお仕事と住む場所を紹介してほしいの」
糸島の海に移住した清音さんとは反対に、彼女は別の場所に暮らしたいのだ。緊張した様子の雫紅さんに、清音さんは微笑む。
「彼女、なんだか昔の自分を見てるように感じちゃって。ちょっとお姉さん、背中押してあげたくなったの」
「よ、よろしくお願いします……」
雫紅さんはぎこちなく会釈をする。私は慌てた。
「菊井と申します、よろしくお願いします。あの、お時間をいただいて大変申し訳ないのですが、私まだ入社したてで、あやかしの方々の事もよく分かっておらず……少しお話をうかがったのち、篠崎に相談してお返事という形でもよろしいですか?」
私の言葉に雫紅さんがあわわとなる。顔が真っ赤だ。
「あっ、あの、こちらこそ菊井さんにご迷惑かけちゃって、その……やっぱり……!」
うろたえる私たちを見て、清音さんがあははと笑う。
そして雫紅さんの背中をばしっと叩いた。
「やあねえ、篠崎さんがいると絶対そう言って逃げちゃうから、今日話をしなさいよってセッティングしたんだから! 度胸ださなきゃ、度胸」
「……っ……」
雫紅さんがおずおずと私を見る。
ためらいがちではあるものの、瞳には確かに、弊社に頼りたい意志のような者を感じる。
「あの、私……芥屋を出たことがなくて。お仕事もどんなものをすればいいのか、よくわからないんです。でも……お金が欲しいんです。お仕事がしたいんです」
「わかりました」
私も覚悟を決めてメモを出す。
改めて座り直した後に、雫紅さんから聞けるだけの情報を聞き取り、私は今日中に連絡できると篠崎さんの返事を貰って、一旦天神へと戻った。
私が会社に戻った時には羽犬塚さんはすでに帰宅していて、夜さんは猫の集会に行って直帰らしい。帰るってどこ。私の部屋!?
篠崎さんが一人、夕方ちかくのオフィスで待っててくれていた。
手にはスマホがある。私が道中で共有した、雫紅さんの話に目を通してくれていたらしい。
「――なるほどねえ、市内で一人暮らしできるような仕事を見つけたい、と」
「すみません、ご挨拶に窺っただけなのに新規案件もちこんじゃって」
「いや、楓に頼りたいと思ってくれたならなによりだ、話やすいと思ってもらえたんだろうな」
篠崎さんはパソコンに向かい、いくつか案件を出す。
道中で最低限のプロフィールデータ入力までは済ませていたので、案件探し自体はスムーズにできそうだ。
「ええと……彼女の希望は、市内で一人暮らし、希望職種はなし、人間社会で働くのは初めてなので、未経験歓迎――ということだったな」
「はい。不特定多数の男性に会う職場は厳禁、女性だけの職場が理想だそうですが……なぜですか?」
「そりゃあ、海の女のあやかしは無意識に男を惑わせるからな。西洋のセイレーンも日本海の磯女たちも、人間の男は捕食対象だ」
「ひい! ……し、篠崎さんは大丈夫なんですか!? 」
「俺は人間か?」
「違いましたね」
「そういうこと」
篠崎さんがそう言いながら印刷ボタンを押す。
いくつかの求人が、プリンターから排出された。
「彼女の希望に合いそうな話なら見つかりそうだ。早速見学できるようにしてみよう」
「早くないですか? 人里に慣れていらっしゃらないのに」
「だからだよ。希望が特にないということは、まだ具体的なイメージができてないってことだ。なら市内での生活が具体的に想像できるように、まずはあちこち気軽に眺めて貰った方がいい」
「なるほどですね……」
私は自分の知らない世界に飛び込む、という経験があまりない。
だから想像できなかったけれど、確かに人魚としての生活と街で人間の中で暮らす生活は、まったく違うものだろう。想像しやすくした方が絶対親切だ。
連絡をすると、即返事が返ってくる。明日には早速見学に行けそうだ。
初めての本格的なお仕事に胸がどきどきする。
無意識に緊張した顔をしていたのだろう、篠崎さんがポンと肩を叩いてくれた。
「明日は俺も同行する。口出しはしないから、まあ好きにやってみな」
「ありがとうございます」
ふといい匂いがして、私は思わず篠崎さんをまじまじと見上げる。
篠崎さんの形の良い双眸が、ぱちぱちと瞬いた。
「どうした?」
「いえ……いい匂いがするなって」
「セクハラ」
「ぎゃっごめんなさい」
「冗談だよ」
肩をすくめる篠崎さんの眼差しは優しい。
不意に微笑んだ口元が目に入って、私は反射的に目をそらす。
私、この人にキスされちゃったんだよな……。ここで……。
「どうした?」
「ヒッ!!!!!!!!!!」
「ヒッじゃねえよ。終わった途端にぼーっとしやがって」
「あ、ああ、あの……いやなんでもないです」
「……」
私の表情に何か察したのか、彼は急に会得したような顔をする。
目を眇め、私を探るような悪戯な目線を向けてくる。
「楓」
「は、はい」
「欲しいのか?」
「え」
「しょうがねえな」
篠崎さんはふわ、と尻尾を私へと向けてくる。
「撫でたいんだろ? 撫でろ」
「……………撫でたそうな顔に見えました?」
「違うのか?」
「いえ、違いません、違いません。失礼します」
もふもふとした毛並みに、私は両手10本の指を開いて、わさぁ……と指の根本まで埋める。私はその手触りに目を見開いて感嘆した。
「う、うわあ……柴犬の尻尾に似てるけど、大きさが数倍以上だから触り心地が段違い……うわあ………これは……」
毛並みに逆らうように撫であげたり、乱れた毛並みを整えるように上から下に撫でたり、あまりの手触りに思わず私は時を忘れて夢中になっていた。時折ひく、と痙攣するように甘く反応するのがいじらしい。
「……う……」
ガタ、と音がする。気づけば篠崎さんが机にしがみつくようにもたれていた。
ふうふうと肩で息をしながら、私を振り返って睨み下ろした。
「……そろそろ気が済んだか……」




