転がるボール
はじめに、僕はそれをボールだと思った。
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それは、春の生きやすい空気の軽さが気がつけば蒸すようになってしまった初夏のことだったと思う。
僕の記憶は朦朧としていた。
体の内側にへばりついた泥のような何かと、胸の奥で叫び続けている誰かの怒声に、いい加減に辟易とさせられる。
瞼が重く。まるでタコ糸で緩く縫い付けられているかのようで、それが疲労からくるものだとわかっていても、僕は眠ることを拒んでいた。
いま寝てしまっては絶対にダメだ。
また、あいつがやってくる。
この時の僕は、確かに『あいつ』と特定の誰かに向けて恐怖と嫌悪を抱いていた。
しかし、それは誰に向けてなのか。
不思議とそれが思い出せなかった。
どうして、あいつがきたらいけないのだろう。
あいつとは誰なのか。
あいつが来てしまったら、何が起こるのだろうか。
だけど、考えることすらも今は面倒だった。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」と、胸の奥底で誰かの叫び声が鳴り止まず。耳を塞いでも聞こえてくるその怒号に、世界の音はすべて遮断されている。
部屋の中の空気は雨が降った後のように、苦しさが漂っていた。吸い込む酸素濃度のそれだけで、僕の体内に鉛が溜まっていくかのようで。そのせいで、ただただゆっくり海の中を沈んでいくように感情の全てが欠落していくのを、ただただ胸糞悪い呼吸を繰り返しながら惰性的に生を感じる。
喜怒哀楽の狂の部分だけが残ってしまった僕の中で、まだ『生』という感情が残っていたことに、僕は純粋に瞳を開いた。
その時、思い出した。
べとり──と、手のひらいっぱいに誰かの血液がへばりついているのを。
ぬちゃぬちゃと固まりかけている血溜まりが、手のひらの中でグニュグニュと『生』だったモノの感触を僕に知らしめていた。
不快感しか抱くことのできない感触を洗い流してやろうと立ち上がった時、仄暗い部屋の中で注意散漫に立ち上がった僕の足先に、何かが当たった。
ころり、ころり、とそれが転がる。
はじめに、僕はそれをボールだと思った。
重量感のある、ボールか何かだと咄嗟に思った。綺麗な弧を描いていないせいで、不細工に回転している。
ころり。
ボールが一回転半転がった時、僕とボールの目があった。
僕の恋人の頭だった。
カッと見開かれた瞳には、似合もしないカラーコンタクトが入ったまま。僕の恋人だったものが、そこに転がっていた。
あぁ、そうだった。思い出した。
それを殺したのは、僕であって僕でない。もう一人の僕だ。
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僕、早乙女誠二郎は人生で初めての彼女との交際記念一年を祝うべく、練りに練りまくった計画を立てていた。
初めは、箱根の温泉旅館を予約しようかと思ったけれど、彼女がおかしなことを言うもので、突如、計画が白紙になってしまったのだ。
『ねぇ? お泊まりは、やめておこう? お出かけも楽しみだし、エッチもいいの。だけど、あなたが眠るところを、私、見たくない』
そう言った彼女の瞳には恥ずかしさや戸惑いはなく、そこにあるのは純粋なる恐怖だった。
僕は一度だけ、彼女のアパートに泊まりに行ったことがあった。それが未遂で終わったのは、僕がウトウトと微睡に誘われかけた時、彼女に叩き起こされたからだった。頬に残った痛みのおかげで、彼女が僕に思い切りビンタしたことがわかった。
その時の彼女は何を言うでもなく、僕に『今日は帰って?』と言っただけけれど。
もしかしたら僕は、ものすごく寝相が悪いのかもしれない。もちろん、寝ている時のことなので、僕の意識の及ぶことではないのだけれど。
僕は彼女を大切にしたいと思っているから、もちろん二つ返事で『わかった。泊まりじゃなくて、お出かけデートにしよう』と計画を練り直すことにしたのだ。
そしてついに、記念日になった。
痛すぎるくらいの鉄板ネタだけど、そういえば行ったことがなかったね──とスカイツリーを訪れて、高級イタリアンでランチを嗜み、夕方になるまでホテルで愛と体を押し付けあって、「ちょっと疲れちゃった、はりきりすぎちゃったかも♡」と言った彼女の意向を優先して、僕らは夜のディナーの予約をキャンセルして、家路についた。
帰宅途中、駅ビルのお弁当屋さんでいつもの予算オーバーな高級弁当を買い込んで、シャンパンを一本勢いでつけたし、僕らは彼女のアパートへと駆け込んだ。
玄関先でキスを繰り返し、グゥと鳴った虫の音で現実に引き戻されて、「お腹すいちゃった」と彼女が照れながら笑うから弁当とシャンパンで舌鼓を打った。その後すぐに甘い雰囲気になったので、急いでベッドに流れ込み彼女の中に愛を注いで、そして、気がつけば二人で寝落ちてしまった。
あれだけ歩き回り、あれだけいたせば、仕方がなかった。
仕方がなかったのだけれど。
僕はそうして、全てを悟ること余儀なくされた。
僕の目の前にボールが転がっていた。
それは彼女の生首だった。
僕の手には包丁が握られており、両手にはべっとりと彼女の血液がまとわりついている。それはまだ温かくて、彼女の『生』がたっぷりと残っている。
覚えていなければ、都合がいいのに。
僕は全てを覚えていた。
彼女を殺したのは、紛れもない僕で。
だけど、犯人は僕、早乙女誠二郎ではない。犯人は、もう一人の自分だった。
微睡の中へ落ちた瞬間、まるでVRヘッドセットをつけているかのように、自分の視界が他人の視界のように切り替わる。
誰かが喋っており、それは自分の声なのに、自分の口調ではなかった。
『やめて! やめてよ! ねぇ! 誠二郎くん! どうしちゃったの!』と命乞いをしている彼女の上にまたがって、僕は猟奇的な声をあげていた。
こんなに楽しそうに笑う僕の声を、僕は聞いたことがなかった。だけど、あいつは僕でもあるせいで、僕の中に確実に悦の感情が溢れてそれが僕をも満たしはじめる。
僕は叫び続けた。自分の心の中に閉じめられた世界の中で、「あぁぁぁぁぁ!」と狂ったように叫び続けた。
そして、彼女の首が落ちたのだ。
ドッスンと首が床へと落ちた瞬間に、僕は満足そうに吐息を吐き出して、遊び疲れた子供のように、まるで泥の中にゆっくりと埋もれるように、あいつの意識は胸の奥底へと戻っていったのだった。
それが、僕とあいつの記憶。
それが、僕と彼女の最後だった。
全てを悟った僕は、せめてもの弔いにと、切断された彼女の頭を持ち上げて、
キスを落とし、
そして、彼女の首元へと置き直した。
くっついていないそれは、ころり、と転がる。
バランスを取るように絶妙な位置へ生首を置き直すのは、手がかかる。手慣れたようにバランスを取り直して、首は綺麗に設置された。
「これで、くっついているように見えるかな?」
呟いた声がやけに冷静で、こんな自分に嫌気がさした。
手を洗い、おもむろにテレビをつけてみる。ゴールデンタイムの番組がちょうど終わったところのようで、番組と番組の繋ぎの役割をしている五分ほどのニュース番組が流れていた。
「現在、全国指名手配犯の新道奉容疑者は──」頭に血が昇っていると言わんばかりの迫真の演技を見せるニュースキャスターが、首切り殺人犯の情報を求める呼びかけを叫ぶ。
耳障りな言葉の数々にうんざりして、僕はテレビを消した。
「そうだった。あいつが本当の僕で、こっちの僕が偽りの人格だったんだっけ」
街を出よう。今度はもっと、地方へ行ったほうがいいかもしれない。
冷房をつけ忘れていた初夏のアパートの中は空気が蒸れている。どうしてだろう、気になり始めるとそれまで愛しいとおもていた彼女だったものが生臭くなっているような気がした。
くさ、早くいこ──。
早足気味で一歩を踏み出したら、彼女を頭を蹴ってしまった。
ころり、ころり、とそれはまるでボールのように、けれども不恰好に転がった。
なんだか本当にボールに見えてくる。
「そっか。ボールなら、いいよね」
もう一度手が汚れるのは嫌だったから、僕はボールをそのままそこに転がせておくことにした。
冷蔵庫に入っていたペットボトルのコーヒー飲料を手に取って、僕は喉の渇きを潤した。
子供騙しのカフェインで、どれだけの眠気に抗えるかはわからないけれど。
新しいボールの一つくらいは、蹴らずに済むかもしれないから。