【散文詩】E♭m
僕はとあるアパートに住んでいる。
コンクリートむき出しのグレイなアパートに。
中心がまるでDのかたちのように吹き抜けになっていて、ちょうどそのカーブした部分から、名前もよくわからないツタ植物が垂れ下がっている。
起き抜けの数時間だけ、そこに光が差すんだ。僕はそれを休みの日にしか見ることができないから、特別な気持ちになる。丁度、茂るツタ植物に優しい光が降り注ぐ。彼らはただ気持ちよさそうにざわめく。
僕は時たま、これに水をかけてやる。吹き抜けの2階から、そっと水を垂らすと綺麗なんだ。
色褪せた写真の中で見るような、集合住宅が乱立する少し湿っぽい街。
そこに吹き抜けのアパートがある。
僕はよく、部屋の窓から街を眺める。
僕もこの風景の一部なんだと感じると、僕は一人でないと思える。
こんな僕でも、生きているんだと。
僕が住まうのはそんな古ぼけたアパートの一角、ちょうどDの左上にあたる部屋だ。
緑色の植物たちが、大小さまざまに空間を分け合っている。
天気の良い日はまるで木漏れ日のようだ。
ほんとうは、彼らひとつひとつに名前があるのだけれど、恥ずかしいから言わない。
僕はこの部屋の中心にハンモックをおいて、そこでもっぱら読書をする。
たまにコーヒーを飲んだり。たまにホットミルクを飲んだり。
たいてい読むのは、近代の日本文学や、海外文学。
ご近所さんもいるけれど、僕は人づきあいが上手くないので挨拶くらいしかできない。
それに、ちょうどDの向かい角にあたる部屋に住んでいる人は、僕は見たことがない。
部屋を出ると真正面に見えるドアが、今日も神秘的に光っていた。
他の部屋の人は、今日も普通に出てきてどこかへ行ってしまったけど、その部屋にいる人はきっとシャイなんだろうな。
寂しくなることはない。
僕にはペットがいるんだ。
植物たちはもちろん心を込めて世話をしているけど、動く友達もいるんだ。
グリーンイグアナのメィア。
図体はデカいけど、のろまなやつだ。こいつは面白い。
植物たちが大切に飼っている小さな虫どもを容赦なくいくんだぜ。
おかげで部屋でブンブン羽音がすることは少ないんだけどね。
散歩から帰ってくる時、彼らは優しく揺れる。
おかえり、と言っているんだな。
メィアは待っていましたと言わんばかりに、こちらを見るんだ。腹が減ったんだな。
窓を開けて、すっかり濃紺を湛えた空気を飲む。
僕の一生は、こういうつまらないような、素敵な瞬間でつながっているんだ。
それから仕事をする。
毎朝目を覚ますと、ドアのポストに分厚い封筒が入っているんだ。
中身は文字のぎっちり詰まった紙。
たまに、ばらばらになった小説の原稿だったり、ばらばらになった論文集の一部だったりするから、僕はこっそり読んでるんだ。
ほんとうは読んじゃだめかも知れないから、そっと読んで、きれいに並べ、アパートの横にあるちいちゃなポストに入れる。
とはいえこれはほんの小遣い稼ぎだ。
もっぱら絵を描いて、お金に換えているんだ。
この間はジュエリーを連作で描いた。
土曜日と木曜日には封筒が来ない。
変な休日の分布だとはいつも思う。きっと、僕以外にも同じ仕事をしてる人がいるから、その人と交互に封筒が来るのだろう。
そういう休みの日には、約束通りツタを眺めに行く。
眺めに行くといっても、その気になればたったの3歩で見に行ける距離なんだけど。
僕は仕事中はめったに外へ出ないから、わざわざ休みになると見に行くわけだ。
吹き抜けの2階では、銀色のポールが地面に水平なCの形に湾曲してて、僕はそれに寄りかかり見下ろすようにツタを眺める。
今日は、部屋から持ってきた少しばかりの水が入った黒っぽいじょうろ、口の細く長いじょうろをそっと傾けてやる。
小さく溢れ出したら、絡み合う茎を伝ってつい、つい、と落ちていく。朝日を吸収しながら。
いつの日か怒鳴られたことがあったな。
1階に住まう髪のないおじいさんに。彼には真っ白な髭がたっぷりと生えていた。
僕は素敵だと思った。
そんなおじいさんは僕のことを見るとも見ずに口を開いた。
上から水を垂らすんじゃない!!びしょ濡れだろうが!!
彼はツタのふもとから僕を見上げる形でこう言ったんだ。
僕は彼の、目を合わせているようで目が合わないような見やり方がどうにも気持ち悪くて、それが気になってばかりだったが、とにかく彼の言いたいことは了解した。
その日から、1階がびしょ濡れにならない程度の水を垂らすことにした。
僕が水を垂らさないと、決して誰もツタのことを見やしないから、いつか死んでしまう。
だから僕は相変わらず水を垂らす。
そうしていると、どこからともなく鳴き声がした。
ミヤァ。
雨が降り出した。しとしとと刻んでいた雨音も次第に途切れなくなり、しまいにひとつの塊になって落ちるようになった。
そんな中、やはり声がする。
ミヤァ。
なんてことだ。こんな雨の中、誰かが鳴いてる。
単に空耳かもしれない。
僕は1階に降りて声の主を探した。
そこに、彼女はいた。
翡翠がはめ込まれたかのような、魅力的な眼をした黒猫だった。
造り物かと思うほど透き通っていたが、生き物らしくつるりと濡れていた。
ふとその小さな口を左右に引っ張るような仕草をする。
ピンと立ったヒゲが一緒に揺れた。
クァ…、むにゃむにゃといった具合に口をもぐもぐさせると、歩き出した。
それは僕の足元にすり寄っては、連れて行けと言うかのようだった。
「アイシャ」
猫はすっかり僕に懐いて、名前を呼ぶと近くへ来るようになった。
はじめ、皿にそのまま注いだミルクを与えていたが、どうやら一度温めたものを好むようだった。僕は付きっきりで猫の世話をした。
イグアナがたまに猫と交流しているさまがなんとも言えず面白かった。
新たな友達に明らかに戸惑っていたが、さすがは僕のペットで、すぐにいつもの調子に戻ったのだった。
しばらくして
僕は筆をとった。
アイシャを描こうと思った。
艶やぐ真っ黒なからだ。
白っぽい鼻先。
僕らが出会ったときのように、力強いグレイを背景にした。
その翡翠の眼には殊にこだわった。
生き物らしくつるりと濡れた瞳。
僕なりに、彼女の美しさを表現できたと思う…。
僕はこの絵をアイシャに見せた。
彼女は自分の姿をあまり知らないようで、
もしくは自分が猫の形態をしていることすらも知らないので
しらっとした目で一瞥し、匂いを嗅ぎ、
期待外れの香りだったのか、小さなくしゃみをした。
翌朝
僕はもう一度その絵を見ようとした。
中々上手くいったものは何度も見返したくなるものだ。
ハンモックから足をおろす。
太陽が昇って、部屋はもうずいぶん明るい。
アイシャの絵は、植物たちが生きるアイアンラックのかげにあるんだ。
窓から差し込む光が、舞う埃に反射する。
グレイの背景は変わっていなかった。
だが、そこにアイシャはいなかった。
僕の知らない女性の胸像だった。
美しいひとだった。
アイシャでなくなっていることにひどく動揺したが、
その女のひとと目が合うと胸が高鳴った。
誰なんだこのひとは、、、
僕の心臓が規則的に、強く、とても強く動くんだ。
アイシャ…
咄嗟に溢れ出たのは猫の名前だった。
少し性急な動作で部屋を見渡す。
植物たちが、メィアが、じっと僕を見ていた。
わからない。君たちが何を考えているのかわからない。
もしかして、そんな名前の生き物は初めからいなかったのかな。
いや、アイシャは散歩へ行っただけ?
もしかしたら、まだ寝ているのかもしれない。
訳が分からない。
彼女を待つ意味で、僕はまたハンモックに腰掛けた。
姿が見えない猫のことが気になって仕方がない。
おもむろに窓の外を見る。なんだか変な色の空だ…
地平線が白くかすんでいる。この街はいったいどこまで続くんだ
同じ風景の操り返しではないか?まるで誰かが切り貼りしたかのように。
「夢のなかみたいだ」
不意に口をついてでた言葉に驚く。
はっと振り返る。
植物たちも、イグアナももういない。
窓の外に暗い雲が立ち込める。
ひと雨来そうだ…
うす暗くなった部屋に、その胸像だけが取り残されている。
思い出せない。確かに覚えていた人なんだけど。
僕は独りだ。
ぼくはひとりだ。
‐‐‐‐‐
彼が植物状態になって1年が経つ。
彼と会話したい一心で、彼の脳が発する電気信号を文字に置き換える技術を導入したけど、結果はこうだ。
生命維持装置への投資がかさむ一方で、彼の目覚める気配は微塵もない。
いつかこういう別れの日が来るとは思ってたけど。
ふとため息をつくと、壁にかけた絵が目に付く。
グレイの背景に、艶めく毛並みの黒猫。すっきりした緑色の眼。
彼の最高傑作だと、個人的に思っている作品だ。
彼が最後に描いた作品だ。
…彼は今もそのグレイのアパートに閉じ込められているのかしら。
いっそのこと、私もそこへ行きたい。
あなたに会いたい。
そういって彼女は
脇のスツールに座ったまま、
臥せる恋人を包む白いベッドに突っ伏する。
いくつか呼吸をすると、彼の匂いが感じられた。
いつともわからないまま、彼女は眠ってしまった。
‐‐‐‐‐
僕は、急いで部屋を出る。
真向かいの、閉め切られたドア。
ミャァ。
中からアイシャの声がする。
喉を鳴らして甘えている声が。
その白い指が
やさしい手が猫を撫でる。
艶めく髪が揺れて…
そこには春の花が咲く。
ご読了ありがとうございました!