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Je t’aime plus que tout.

「後はこのクローゼットだけだな」


母さんの部屋には処分するようなものはほとんどなかった。

洋服でさえ、数枚をいつも着回していた記憶しかない。

僕にはいつも成長期だからと服を買ってくれていたのに。

もっと母さんにおしゃれもさせてやればよかった。

少ない衣類を見ながら少し涙ぐんでしまった。


残ったクローゼットには何が入っているんだろう。

ドキドキしながら、クローゼットを開けると


「――っ!!」


そこには僕の小さな頃の服や物が綺麗に置かれていた。

僕がお気に入りで毎日着たいと言って母さんを困らせていたクマの絵が描かれたTシャツ。

大好きで抱っこしないと眠れなかったうさぎのぬいぐるみ。

保育園で作った作品や、小学校の時に賞を取った絵と賞状。

母の日に描いた絵と折り紙で作ったカーネーション。

『ずっと仲良く暮らせますように』と書かれた短冊。


「こんなものまで……全部取っててくれたんだ……」


「きっと、ときどき見ていたんだろうな。埃もかぶっていないし、綺麗に置かれてる」


「本当だ……」


「アマネにとってこれらは全て宝物だったのだろうな。これはユヅルの大切な成長の記録だ。全てフランスに持っていこう。大切にな」


そう真剣に言われるとすごく恥ずかしいけれど、でも、大切に持っていてくれたのはすごく嬉しい。


僕はクローゼットの中に他にないか、見ていると奥の方に大きな袋を見つけた。


「エヴァンさん、ものすごく大きな袋があります。これ、なんだろう?」


ゆっくり取り出すと結構重い。


紐で閉じられた袋を開けると、中から大きなケースが出てきた。


「あ、これ。ヴァイオリンケースだ。母さん、いつも使っているのと別にもう一台持っていたのかな?」


「――っ! こ、これ! このケースは……」


「エヴァンさん? どうかしたんですか?」


「おそらくこれはニコラのヴァイオリンケースだ。ほら、やっぱりここにニコラのサインが入ってる」


見ると、本当に『L.Nicolas』と書かれているのが見える。


「じゃあ、これはニコラさんから貰ったもの、ということですか?」


「ああ、そうだな。そして、おそらく中身は………」


カチャリとケースを開け、パカッと開くとそこには綺麗なヴァイオリンが入っていた。


「やはり、そうだ。ニコラが大切に持っていたストラディヴァリウスだ」


「えっ? ストラディヴァリウスって……ものすごく高価なヴァイオリンですよね? そんなすごいのがうちにあったんですか?」


「ああ。きっとアマネの素晴らしい才能にニコラが贈ったのだろう。アマネはいつもこれを綺麗に手入れしていたのだろうな。埃も何一つない」


「本当だ……」


まるで買ったばかりのように綺麗なヴァイオリンは母さんがどれほど大切にしていたかがわかる。

高価だからとか関係なく、きっとニコラさんに貰ったものだから大切にしていたんだろうな。


「これを売れば、数億円はくだらないよ。ユヅル、どうする?」


「えっ? どうするって……? これまで通り大切に保管してフランスに持っていきます」


「そうか。やっぱりユヅルだな」


「どういう意味ですか?」


「いや、普通なら数億もの金が手に入るなら、喜んで売ろうとするだろう。自分が使わないものなら尚更だ」


そんなこと思いもしなかった。

母さんがずっと大切にしていたものなら僕がこれから大切にしていきたい。


「お金なんかより僕は……母さんとニコラさんの思い出を持っていたいです」


「ああ、そうだな。ユヅル。ごめん、嫌なことを言った」


「いいえ、エヴァンさんが謝ることなんて……」


「ユヅル……ユヅルはヴァイオリン弾けないのか?」


「一応母さんに習ってたので弾けますよ。受験が近づいてきたので、ここのところサボってましたけど……」


「よかったら弾いてくれないか? これで……」


「えっ?? このストラディヴァリウスで?? いやいや、そんなの無理です」


「どんなに価値がある楽器も弾く人がいなければ、なんの価値も無くなってしまうよ」


にっこりと笑顔でヴァイオリンを差し出され、受け取るしかなかった。

人前で演奏するなんていつぶりだろう……。


緊張しながら立ち上がり、鎖骨と顎でヴァイオリンを軽く挟むと


「わぁーっ! すっごく馴染みます! まるで自分用に誂えたみたい」


驚くほどしっくりきて思わず声を上げてしまった。


「あの、何を弾きますか?」


「ユヅルの好きな曲がいいかな」


好きな曲……。そうだな。

じゃあ母さんの好きな曲にしよう。


「じゃあ……」


ドキドキしながら演奏を始める。

ああ、ものすごく音の響きが綺麗。

こんなにも音が広がるなんて……。

やっぱりすごいヴァイオリンって違うんだな。


これは『愛の挨拶』


作曲者エルガーが恋に落ちたのは八歳年上の身分の高い女性。

互いに惹かれあったけれど許されない恋。

けれど二人は周囲の反対を押し切って結婚する。

結婚の際に彼女から贈られた愛の詩のお返しに作ったのがこの『愛の挨拶』


そうか……。

母さんがこの曲を好きだったのは自分とニコラさんに感情移入していたからかもしれないな。


年上の身分の高い人への許されざる恋か……。

なぜかその時、ふと頭をよぎったのはエヴァンさんのこと。

年上で、会社社長で僕なんかとは釣り合いも取れないすごい人。

でも、ものすごく優しくて一緒にいるだけで幸せになる。


エヴァンさんが駆けつけてきてくれた時、本当に嬉しかった。

会ってすぐに抱きしめられて驚いたけど安心した。

それからずっと安心しっぱなしだ。


ああ、エヴァンさん……本当に頼りになる。

素敵な優しい人なんだよね。


演奏しながら、ふとエヴァンさんに目をやると、なぜか真っ赤な顔をしてプルプルと震えながら僕をじっと見ていた。



「あれ? エヴァンさん、どうしたんですか? 僕、どこか間違ってました?」


「ユヅル……もしかして、無意識なのか?」


「えっ? 無意識? ってどういう意味ですか?」


エヴァンさんの言っている意味がわからなくて聞き返したけれど、なぜかエヴァンさんはどう言おうか悩んでいるようで、言いにくそうにしていた。


「いや、ユヅル……その、今……演奏しながら何を考えてた?」


「えっ? 何を、って……えっと……」


作曲者であるエルガーが曲を作った背景を思い浮かべてたら、この曲を好きだった母さんとニコラさんのことを考えてて……そしたら……そうだ!


「エヴァンさんのこと、考えてました……! すぐに駆けつけてきてくれて嬉しかったなとか……抱きしめられて安心したなとか……エヴァンさんがすごく優しいなって……あの、エヴァンさん。大丈夫ですか?」


僕が話すたびにエヴァンさんの顔がますます赤くなっていく。


「はぁーーっ、もう我慢できないな……」


エヴァンさんは大きなため息を吐きながら立ち上がり、僕の持っていたヴァイオリンを優しくとると、そっとケースにしまった。


「あの……我慢って……僕、何かしちゃいましたか?」


エヴァンさんの不思議な行動に恐る恐る尋ねると、エヴァンさんは僕の前に立ってギュッと強く抱きしめてきた。

エヴァンさんの大きな身体にすっぽりと包み込まれた途端、エヴァンさんの爽やかな匂いが鼻腔をくすぐる。

母さんが好きだったニコラさんの匂いも慣れ親しんでいて好きだけど、エヴァンさんの匂いは安心するし、ドキドキする。


「あの……エヴァン、さん?」


「ユヅル……私は、ユヅルが好きだ」


「えっ? 好き、って……」


「家族としてではなく、恋愛感情として、ユヅルのことを愛してるんだ」


「――っ!」


ギュッと抱きしめられたまま顔も見えないけれど、ぴったりとくっついた身体からエヴァンさんの速い鼓動が伝わってくる。


エヴァンさんが……緊張してる……。


じゃあ、今の……愛してるって冗談なんかじゃないってこと?

でも、僕もエヴァンさんも男同士だし……好きになるなんて、そんなこと……。


「エヴァンさん…あの」


「ユヅル……私はユヅルを愛してるんだ。ユヅルも私を愛してくれているだろう?」


「えっ――! そんな、だって……」


僕がエヴァンさんを……愛してる?

まさか……。


「さっきのヴァイオリンの演奏」


「演奏?」


「ユヅルからの愛の告白だと思うくらい、ヴァイオリンの音が訴えてた。大好き……愛してる……心からエヴァンさんのことだけを……って、ずっとずっと私だけに愛の言葉を囁かれてたよ」


「――っ!」



――弓弦、ヴァイオリンはね……自分の感情が素直に出るものなの。誰かを思いながら弾けばその思いは必ず相手に届く。そういう不思議な楽器なのよ。



母さんに練習のたびに言われてたあの言葉。

だからいつも楽しい曲の時は母さんとの楽しかった思い出を……。

悲しい曲の時には揶揄われて辛かった時のことを思いながら弾いてた。


今は……ずっと、エヴァンさんのことを思いながらあの曲を弾いてたんだ……。


『愛の挨拶』をエヴァンさんに向けて……。


うそ……じゃあ、本当に僕はエヴァンさんのことが?


あっ! そういえば……


――エヴァンさんと離れるのは嫌です


――エヴァンさんと一緒にいる時間が幸せ


――ひとりでいるのは耐えられない


――エヴァンさんと一緒にいたい



あの時は無意識だったけど……今、思えばこれって……エヴァンさんのこと好きだって言ってるのと同じなんじゃ……?


うわーっ!

うわーーっ!


僕、知らない間にずっとエヴァンさんに愛を告白してたってこと?


しかも、演奏でもエヴァンさんに告白するなんて――っ!


うわーっ!!

恥ずかしすぎるっ!!


一気に赤くなった顔を隠したくて、エヴァンさんの胸に顔を擦り付けると


「ユヅル……顔を見せてくれないか?」


と耳元で優しく囁かれる。


「ひゃ――っ!」


ゾクゾクと不思議な感覚が身体の中を通り抜けていって変な声が出てしまった。


「ユヅル……」


もう一度声をかけられて、恐る恐る顔を上げると、エヴァンさんの顔もまだほんのり赤かった。


「Je t’aime plus que tout.」


流れるようなフランス語が耳に入ってくる。

だけど意味はわからない。


「えっと……じゅ てーむ ぷりゅす く とぅ-……? どういう意味ですか?」


「――っ!!!」


「ユヅルっ!!」


「――っ! んんっ!!」


突然、エヴァンさんに顎を持ち上げられたと思ったら唇を重ねられた。


えっ? これって……キス?

僕、今、エヴァンさんと……キス、してるの?


エヴァンさんの肉厚な唇にこのまま食べられちゃうんじゃないかと思うくらい、何度も唇を喰まれてる。

チュッチュッと何度も啄まれてようやく唇が離された時には僕はぐったりとエヴァンさんに身を預けてしまっていた。


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