ずっと、友だち……
さっき、僕たちを呼びかけたミシェルさんの声は日本語だったから、内容自体は理解できていない人ばかりだったけれど、ミシェルさんが名前を呼びかけたことだけは通じたようで、ミシェルさんの視線の先にいた僕と秀吾さんに、たくさんの人の視線が注がれてしまっている。しかも、どんどんその興奮度が上がってきてこのままじゃ収拾がつきそうにない。
「エヴァンさん、どうしたらいいのかな?」
不安になってエヴァンさんを見上げると、
「無理しなくていい。このまま帰ってもいいんだ。私はユヅルを危険に晒したくない」
と言ってくれたけれど、ミシェルさんのことを考えるとこのまま帰るのは心が痛い。
「ミシェルさんは恩人さんのために演奏したんでしょう? でも、このままじゃ騒ぎになって恩人さんに迷惑をかけちゃうから一曲だけなら頑張ってみる」
「ユヅル…っ、申し訳ない」
「エヴァンさんが謝ることないですよ」
「ありがとう。シュウゴも迷惑かけてすまない」
「そんな……っ、ロレーヌさん、頭をあげてください。僕、大丈夫ですよ。どうせ明日にはフランスを離れますし、騒ぎになっても大丈夫ですから。僕はミシェルさんと演奏できるのは嬉しいですよ。それに僕には将臣が守ってくれますから、心配しないでください。ねっ、将臣」
「ああ、任せてくれ。秀吾には指一本触れさせないから」
そんな秀吾さんと将臣さんのやりとりに安心したようにエヴァンさんが笑顔を見せてくれた。
そして、まだ騒いでいるお客さんたちに向かって、大きな声でフランス語で叫ぶと、突然そのあたり一帯が水を打ったようにしんと静まり返り、階段への通り道がさーっと開いた。左右の列の先頭には警備隊の皆さんが並んでくれているみたいでお客さんたちが出てくる様子が見えない。
「ユヅル、行こうか」
「う、うん」
「スオウもシュウゴと後をついてきてくれ」
「わかりました」
エヴァンさんは驚く僕をギュッと抱き寄せながら、堂々とその通り道を歩いていく。そして、スタスタと階段を登りきり、フランス語で何か話をすると、お客さんたちが手に持っていたスマホやカメラを一斉に下ろし、ポケットやバッグにしまっていく。
その様子があまりにも凄くて驚いていると、
「撮影するなら、演奏は終わりだって言ってくれたみたいだよ。これで大騒ぎにはならないかな」
と隣にいた秀吾さんが教えてくれた。
ああ、そういうことか。映像がなければ、拡散されることもないもんね。でもこれだけの人に言葉だけでいうことを聞かせることができるなんて……エヴァンさんって、ほんとすごいんだな。
「ユヅル、シュウゴ……ごめんね、つい叫んでしまって……」
「いいですよ、気にしないで。それよりも早く演奏しましょう」
「ありがとう。ユヅル、シュウゴ……ちょっと待ってて」
ミシェルさんが駆けて行った先に優しそうなおじいさんの姿が見える。あの人が恩人さんかな?
彼から二挺のヴァイオリンを受け取り僕たちの元に戻ってきた。
綺麗に手入れされたヴァイオリンだ。これなら綺麗な音が奏でられそう。
「何を弾きますか?」
「クリスマスは終わっちゃったけど、この前演奏した曲でいいかな」
「はい、それなら、間違えずに弾けそうです。ねぇ、秀吾さん」
「うん、それならなんとか」
「私とスオウはすぐそこで見ているからな」
流石にエヴァンさんとくっついたままでは演奏できなくて、僕と秀吾さんのすぐ近くで立ってくれている。
ヴァイオリンを手にしてようやく階段下のお客さんたちに視線を向けると、みんな期待に満ちた表情で僕たちを見ているのがわかる。
きっとミシェルさんが声をかけたから、プロの演奏家とでも思っているのかもしれない。僕はただの素人なのに。彼らを満足させられる演奏なんてできるんだろうか。そう考えたら急に不安になってきたけれど、さっとエヴァンさんが抱きしめてくれた。
「エ、エヴァンさん」
「大丈夫だ、心配しなくていい。私やニコラ、アマネに聞かせると思って弾けばいいんだ。ユヅルにはそれだけの実力があるよ」
耳元でそう囁かれると自信が漲ってくる。やっぱりエヴァンさんの力は偉大だ。
「僕、頑張る!!」
そういうと、エヴァンさんは僕の髪にそっとキスをして周防さんの元に戻って行った。
「じゃあ、弾こうか」
ミシェルさんの声に三人で呼吸を合わせて、弾き始める。
三人それぞれの音色が風に乗っていくのがわかる。緊張していたけど、弾き始めたらさっきのエヴァンさんの言葉だけが頭の中を駆け巡る。
そうだ、エヴァンさんとお父さん、そして母さんに聞こえるように弾くんだ……。目を閉じて思いを込めて、弾いていく。最後の音の余韻を楽しんで弓を下ろし、ふっと目を開けるとそこには誰もいないかの如く静まり返っていた。
「えっ……」
不安になって隣にいるミシェルさんと秀吾さんに視線を向けると僕に笑顔を向けてくれる。これって……成功ってことなのかな?
そう思った瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が起こった。地響きを感じるほどのその威力に驚きしかない。
観客の皆さんが口々に何か叫んでいるのが聞こえるけれど、僕が聞き取れるのはBravo と言う言葉くらい。でもその言葉だけでみんなが喜んでくれたんだってことがわかってホッとした。ミシェルさんの演奏を邪魔することにならなくて本当によかった。
そう思っていると、突然観客の皆さんが同じ言葉を叫び始めた。
『Une autre! Une autre!』
んっ? なんて言っているんだろう?
何を言っているのかがわからなくて、隣を見ると
「もう一曲って言っているけれど、どうする?」
とミシェルさんが尋ねてきた。
「えっ、どうしよう……秀吾さん、どうする?」
駆け寄ってきてくれた秀吾さんと三人で話をしていると、すぐにエヴァンさんと周防さん、そしてセルジュさんもきてくれた。
「どうした? 演奏はもう終わりだろう?」
「アンコールって言われているからどうしようかと思って……」
「ああ、本当に君たちは優しいな。でも延々と終わりが来なかったら騒ぎも大きくなるぞ」
「でも……」
「わかった。じゃあ、最後の一曲だ」
エヴァさんはまだ大騒ぎしている人たちに向かって大きな声で叫び始めた。すると今までの騒ぎが嘘のようにぴたりとおさまった。本当にすごいなぁ、エヴァンさんって。
「曲は何にしますか?」
「せっかくだから、クリスマスじゃない曲にしてみようか?」
「あんまりレパートリーがないので、弾けるかわからないんですけど」
「前に弾いてくれたあれがいい」
「あれ?」
「うん。『Salut d'amour』」
「さ、りゅー、だむー?」
そんなの弾いたっけ? 頭の中の記憶を必死に呼び起こそうとしても全然出てこない。ミシェルさんの前で弾いたのって……
あっ、もしかしたら……と思い浮かんだものと、秀吾さんの声が重なった。
「愛の挨拶?」
「愛の挨拶だよ」
「そう! それそれ!」
「秀吾さんも弾ける?」
「うん。将臣がこの曲好きだから、たまに弾いてるよ」
「なら、決まり!」
嬉しそうなミシェルさんの声に、エヴァンさんがこっちに視線を向けた。
「決まったのか?」
「うん、愛の挨拶だって」
「えっ? そ、れは……っ」
「だめ、ですか?」
「い、いや……わかった……」
なんだか少し表情が固かった気がしたけれど、
「演奏が終わったらすぐに帰るぞ!」
と言って、少し離れた場所に三人で移動していた。
それを不思議に思いながらも、ミシェルさんから演奏の合図がやってくる。
僕はこの幸せな時間を愛するエヴァンさんと、そして、大切な友人たちと一緒に過ごせることに感謝と愛を伝えるべく、想いを込めて演奏した。ああ、なんて気持ちいいんだろう……。
日本で誰かと一緒に演奏って言ったら、母さんとだけだった。でも音が似ていたから、そこまで思わなかったけれど、二人の奏でる音は本当に綺麗。ミシェルさんの音と秀吾さんの音が混ざり合うと、まるで天使の歌声みたいに聞こえる。
エヴァンさん……僕にこんな未来を与えてくれて本当にありがとう……。
エヴァンさんと出会えて、本当によかった。みんなと出会えて、本当によかった。
心の中で感謝と愛を伝えながら演奏を終えると、またもやあたりはしんと静まり返っていて、なぜか観客の皆さんは地面に座り込んでいた。
「どういう、こと……?」
不思議に思ったのも束の間、
「ユヅル、帰るぞ!」
そんな声が聞こえたと思ったら、エヴァンさんに突然抱きかかえられ、驚いている間にヴァイオリンを回収されて、階段をスタスタと下りて行ってしまった。
「エ、ヴァンさん? 怒ってる?」
「違う。演奏があまりにも美しかったから、騒ぎにならないうちにこの場から離れたいだけだ」
そう言うと、あっという間に車まで戻り、さっと乗り込んでしまった。理央くんたちも、リュカたちもさっと乗り込んで来て、エヴァンさんの口から安堵のため息が漏れていた。
「なんとか無事に車に戻ってこられてよかったよ」
エヴァンさんに抱きしめられて僕もホッとする。
けれど、
「ゆ、づるくん……っ」
「えっ? わっ! 理央くん、どうしたの?」
「ふぇっ……うっ、うっ……っ」
突然の理央くんの涙に驚きしかない。
「りょう、やさん……っ」
「ああ、わかったよ」
理央くんは泣きながら観月さんに抱きつくと、観月さんは幸せそうな顔をして僕を見た。
「理央は弓弦くんの演奏に感動したんだよ。もしかして、理央たちのことを考えて弾いてくれたんじゃないかな?」
「えっ、はい。そうです。エヴァンさんとみんなに出会えたことの感謝と愛を伝えたくて……」
「それがものすごく伝わってきて、ずっと泣きっぱなしだったよ」
「そう、だったんですか……理央くん、ありがとう。演奏聞いてそんなに感動してくれるなんて……嬉しい。きっとミシェルさんも秀吾さんも喜ぶよ」
「す、っごく、き、れい、だった……」
まだ涙声で必死に言ってくれる理央くんが可愛い。
「ありがとう! 最後にいい思い出できたね」
そう言うと、
「最後……」
とポツリと呟いたかと思ったら
「最後は、やだ……っ」
と僕に抱きついてきた。
僕の胸で声を押し殺して泣く理央くんがたまらなく可愛い。理央くんをギュッと抱きしめながら、頭を撫でる。
「うん、ごめんね。最後じゃなかったね。僕たちはこれからもずっと友達だって言ったでしょう? だから、いつだって会えるよ」
「ずっと、とも、だち……」
「うん。日本に帰っても、ずっと繋がっていられるよ。ほら、編み物教えてもらう約束もしたし。リュカにもフランス語習うって約束したよ。ねっ、リュカ」
「ええ、そうですよ。私もリオとずっと友達ですよ。それに心配なさらなくても、エヴァンさまやミヅキさまがついていらしたら、日本とフランスなんて近いのです。会いたいと思ったらすぐに連れてきてもらえますよ。そうですよね、ミヅキさま」
「ああ、もちろんだよ。理央。それにね、ずっと考えていたことがあるんだ……」
観月さんは僕の胸からそっと理央くんを取り戻し、自分の胸に抱き寄せた。そのあまりにも自然な動きに驚きながら、理央くんの温もりがなくなってちょっと寂しい自分がいる。と同時にエヴァンさんが僕を抱き寄せてくれて、また違う温もりに包まれてホッとしたのだけど。
「えっ……かんがえてる、こと?」
「ああ、実はロレーヌにフランスに来ないかってずっと誘われていてね」
「フランスに来るって……」
「ここで生活しないかってことだよ。もちろん、理央も一緒にね」
「えっ? エヴァンさん、本当?」
観月さんと理央くんをフランスに来るように誘っていたなんて……。確かに観月さんを気に入っている様子だったけど。
「ああ、本当だ。ミヅキならフランスでも弁護士としてすぐに働けるようになるだろうし、弁護士でなくとも私の仕事を一緒にやってもらえたら助かる。リオもユヅルと一緒にフランス語を学んで習得できたら、大学に通うこともできる。ユヅルにも日本人の友人がそばにいてくれたら今よりももっと心強いだろうし言う事なしだと思ったんだ」
そんな具体的なことまで考えてくれていたんだ……。確かに理央くんがこっちにいて、一緒にフランス語を勉強しながら大学を目指せたら僕はとっても嬉しい。
「理央が日本を離れることに抵抗がなければ、フランス移住の件を本格的に考えようと思っているんだ」
「僕が、フランスで……暮らす……」
理央くんは想像もしていなかったことを聞かされて、びっくりしているみたい。そりゃあそうだよね。
僕は母さんがいなくなって、あの家に一人で暮らすなんて考えられなくて、頼りになる友達も親戚も誰もいなくて……そんな時に、エヴァンさんに一緒にフランスに行かないかって誘ってもらえたから、すぐに決断できたというか、それ以外考えられなかった。
だけど、理央くんは違う。空良くんや佳都さんや秀吾さんみたいなお友達もそばにいて、それに何より優しいお父さんとお母さんができて、そんな人たちと離れてフランスで暮らすなんてことすぐには決断できないだろう。観月さんもそれをわかっていたから、エヴァンさんの誘いにすぐに答えられなかったんだろうな。
「これはすぐに決めることじゃない。日本に戻ってやっぱりフランスで暮らしたいって理央が思った時、考えようと思っているんだ」
「でも、もし……フランスに行くって決めたら、お父さんもお母さんも寂しがるだろうし、僕も……」
「ああ、わかってる。でも、父さんたちは理央の将来のためになることなら喜んで送り出してくれると思うし、それに父さんたちは理央のためなら、しょっちゅうフランスに遊びにきてくれるよ。なんなら、将来的には父さんたちだって移住してくるかも。そういう人たちだよ。だから、理央の気持ちだけで決めていいんだ」
「凌也さん……」
観月さんと理央くんのお父さんとお母さんなら、そう言いそう。話を聞いているだけでもとっても理央くんのことを尊重してくれているみたいだもんね。
「ミヅキもリオもすぐに結論は出さなくていいんだ。とにかく、リオとユヅルは最後にならないってことだけをわかっていたらいい。私も二人がいつでも会えるように環境を整えるよ。なぁ、ミヅキ」
「はい。理央、いつだって言ってくれたらフランスに連れてくし、ビデオ通話だってできるんだからな。寂しく思わなくていいよ」
「凌也さん……ありがとう。弓弦くん……リュカさんも、ずっと友達でいてね」
「もちろんだよ」
「ええ。もうずっと友達ですよ」
僕とリュカの言葉に理央くんは嬉しそうに笑って、観月さんに抱きついていた。いつか本当に理央くんたちがフランスに来てくれたら……そんな想像をするだけで僕の胸は高鳴っていた。
フランス観光編で一旦完結となります。ここまで読んでいただきありがとうございました!