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喜びも悲しみも

「それはそうと、ユヅル。食事はしたのか?」


「いいえ。なんだか食欲がなくて……」


「アマネが突然あんなことになったのだ。その気持ちもわかるが、ユヅルまで倒れては元も子もない。私が何か身体に優しいものでも作ろう」


「えっ? エヴァンさん。料理ができるんですか?」


「ああ。独り身だからね。一通りのものは作れるはずだよ。冷蔵庫の中を見てもいいかな?」


「あ、はい。こっちです――わっ!」


急いで彼の膝から下りようとしてふらついてしまったけれど、すぐにエヴァンさんに抱きしめられて怪我も何もしなかった。


「ユヅル。君が思っている以上に心と身体がひどく疲弊しているんだよ。だから無理しないで私から離れないでくれ」


懇願する様な優しい声に僕は頷くしかできなかった。


エヴァンさんは僕を抱きかかえたまま台所へと歩き出した。


「とても綺麗に片付いているのだな。きっとアマネは料理が得意だったのだろう」


「はい。お分かりのようにうちはあまり裕福ではありませんでしたけど、母さんがいつも工夫を凝らした料理を作ってくれて……食事が楽しくなかったことは一度もありませんでした」


「そうか……素晴らしいな。ニコラはアマネのそういうところも愛していたのだろうな」


「……うっ、ぐすっ……」


エヴァンさんの言葉に僕は思わず泣いてしまった。


「ああ、悪い。泣かせるつもりはなかったのだ」


「うっ……ちがっ、ぐすっ……嬉しくて……」


「えっ?」


「母さんのこと褒めてくれて……ニコラさんのことも聞けて嬉しくて……」


「ユヅル……」


エヴァンさんは僕を強く抱きしめながら、


「愛する人が亡くなったときはその人の思い出を語り明かすといいんだ。今日はユヅルが眠くなるまでアマネの話を聞かせてくれ。私もニコラの話をするとしよう。きっとアマネもニコラも喜ぶはずだ」


と言ってくれた。

そのエヴァンさんの優しさに僕は救われたんだ。




「あっ――っ!」


冷蔵庫を開けるとスープ用の鍋が入っていた。

きっと買い物に行く前にスープだけ作って行ってくれたんだ……。


そのときは自分が事故に遭って死んでしまうなんて何もわからずに、僕のために一生懸命作ってくれた母さんの最後の料理……。


ああ、もう。

僕の涙腺は壊れてしまったみたいだ。

すぐに溢れてしまう。


「ユヅル……これはアマネが作ってくれたものなんだね?」


「きょ、うは……ぼ、くの……たん、じょうび……だから、ぼくの……すきな、ものを……」


「――っ!!! そうか……今日はユヅルの誕生日だったのか……何も知らなくて悪い。知っていたら何か気の利いたものでも買ってきたのだが……」


心底申し訳ないという表情で僕を見つめてくるけれどそんなもの何も要らない。


「エヴァン、さんが……来てくれた、だけで……十分、です……」


「――っ! ユヅル……」


エヴァンさんは僕をただ優しく抱きしめてくれて、その温もりが今の僕には本当に暖かかった。


「ユヅル、このスープを私もいただいていいか?」


「は、はい。もちろんです。一緒に食べてくれたら嬉しいです」


エヴァンさんはニコッと笑うと僕をソファーに座らせて、


「食事の支度ができるまでそこで休んでいなさい」


と言って、自分のジャケットをさっと脱いで僕にかけてくれた。


大きくて暖かいジャケットからはエヴァンさんの優しい香りがする。

その匂いに包まれながら、台所に立つエヴァンさんを見つめていた。


身長の低い母さんにはぴったりの台所だったけれど、エヴァンさんには低すぎるみたい。

腰が辛そうだな。

でも、誰かが台所に立っているって安心する……。


目を閉じたら母さんがいる時と同じ音が聞こえるし、今日の出来事が全部夢だったんだじゃないかとさえ思う。

本当だったら今頃は母さん特製のハンバーグ食べて、冷蔵庫の中に冷やしてあるいちごのケーキを楽しみにしてたはずなのにな……。


ああ、もう今日はだめだ。

すぐに涙腺が緩んでしまう。


泣いていたらきっとエヴァンさんが心配するだろう。

僕は彼のジャケットを頭まで被って必死に声を隠し、溢れてくる涙を自分の袖口に吸わせ続けた。


「……っ、うっ……うっ……っ」


母さん……母さん……。

ごめんね、死に目に会えなくて……。


もっと早く駆けつけられたら……いつものように母さんに言えたのに……。


これだけが母さんへのたった一つの後悔だ。



その時、フッと、誰かに抱きしめられたような感覚がした。


「あっ、エヴァン、さん……」


慌ててジャケットを下げると、いつの間にきてくれていたのか。

僕をしっかりと抱きしめてくれるエヴァンさんの姿があった。


「一人で悲しんではいけない。悲しみも喜びも共有しよう」


「共有……」


「そうだ。悲しいことは分け合い、喜びは二倍になる。ユヅル、君の辛い気持ちを私に分けてくれ」


僕を包み込んでくれるようなエヴァンさんの優しい言葉に、僕はあるお願いをすることにした。



「あの……じゃあ、母さんの代わりに……エヴァンさんにお願いしてもいいですか?」


「ああ。もちろん」


「じゃあ、そこに立ってもらえますか?」


そのお願いに彼は何も聞かずにスッと立ち上がり僕を見つめた。

僕はゆっくりとソファーから下りて彼の前に立った。


大きく両手を開いてエヴァンさんの胸に抱きついて、


「母さん、産んでくれてありがとう。こんなに大きくなったよ」


と声をかけると、エヴァンさんがぎゅっと僕を抱きしめてくれて


「ユヅル、愛しているよ……」


と返してくれた。


エヴァンさんからの愛の言葉に少し驚いたものの、母さんもいつも誕生日に僕があの言葉を言うとそう返してくれていた。

僕が母さんの代わりにと言ったから、きっとそこまで真似をしてくれたんだろう。

そうか……多分、これはフランスの風習なのかもしれないな。


いつも誕生日は僕がお礼を伝える日だった。

そしてハグをして今年はこんなに大きくなったと感じてもらえる日だったんだ。


せめて母さんの死に目に間に合って


――母さん、産んでくれてありがとう。こんなに大きくなったよ


とだけ言えていれば……と後悔していたけれど、今こうやってエヴァンさんにこの思いを伝えられて少しは気持ちが楽になった気がする。


あ、そろそろ離れなきゃとエヴァンさんの背中に回した手を外そうとすると


「アマネとユヅルは本当に仲の良い親子だったのだな。きっとこんなにも素直に成長したのをニコラも喜んでいることだろう」


と言いながら、僕をそのまま抱きかかえてくれた。


「ニコラとアマネの代わりに私がこれからずっとユヅルの成長を見届けるよ」


「エヴァンさん……」


エヴァンさんの優しげな笑顔に僕はなんとも言えない幸福感を感じていた。



「さぁ、食事にしよう」


エヴァンさんは僕を台所に置いてあるダイニングテーブルの椅子に座らせると、母さんが作っておいてくれたスープを綺麗に盛り付けて僕の前に置いてくれた。

温かな湯気と共に美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐる。


「それから、これも」


コトリと置かれた平たい皿には小さなパンケーキと薄く切られたバナナが置かれていた。


「これ……」


「今日、誕生日だと言っていたから即席で悪いが誕生日ケーキの代わりだ。やはり誕生日にはケーキがないとな」


「――っ!」


生クリームもイチゴもない、それどころかケーキを作る材料さえも乏しい我が家で、僕のために一生懸命ケーキを用意しようとしてくれたエヴァンさんの気持ちが僕には嬉しかった。


「あ、ありがとう、ございます……」


すっかり涙腺がおかしくなって、すぐに涙が溢れてしまいそうになるのを必死に堪えながら、僕はエヴァンさんの作ってくれたケーキをフォークで一口、口に運んだ。


ほんのりと甘く優しい味に


「……うっ、うっ……、ぐすっ……」


どうしても堪えきれない涙が溢れた。


「ユヅル……無理しなくても……」


「ちが――っ、ぼ、く……うれし、くて……すごく、おいしいです……」


「それならよかった」


母さんの作ってくれたスープはいつもの母さんの味がした。

優しくて温かくて安心する。

けれど、今日の僕はほんの少しだけしょっぱく感じながら食事を完食した。



「ユヅル、今日はもう休もうか」


「あ、でもお風呂はいいんですか? お風呂すぐに沸きますよ」


「汗はかいているが着替えを持たずにきてしまったからな」


あ、そうか。

急に来てくれる事になったんだもんね。


この家には母さんと僕のものしかないから、エヴァンさんが着られるような服はないし……。

うちの周りにはすぐに買いに行けるような店もない。

大体、エヴァンさんが着られるような大きいサイズの服は探しても見つからないかもしれない。


「あっ! そういえば、良いのがあるかも!」


「ユヅル、どうしたんだ?」


「あの、ちょっと待っててください」


「一人で大丈夫か? 一緒に行こうか?」


「大丈夫です。食事したら少し元気になったので……。エヴァンさんはそこのスイッチを押してお風呂沸かしておいてもらえますか?」


そう言って僕は自分の部屋に行き、確かここに置いてたはずと箪笥の一番下の引き出しを探した。


「あ、あったぁーーっ!」


僕は嬉しくなって、それを持ってエヴァンさんの元へ急いで戻った。


「エヴァンさん、よかったらこれ着てください」


「これは?」


「僕が中学生の時に家庭科の授業で作った浴衣なんですけど、先生に男子は高校生になったら大きくなるって言われたからかなり大きめに作ったんです。でも……見ての通りで……。まだ一度も着てはないんですけど、母さんがたまに洗って干してくれてたんで綺麗だと思います。どうぞこれ着替えに使ってください」


「ユヅルの手作り……私が着ても良いのか?」


「はい。僕には大きすぎるんで。エヴァンさんが着てくれるなら嬉しいです」


「じゃあ、借りるとしよう。だが、ユヅルから先に入ってくれ」


「何言ってるんですか、一番風呂はお客さんからですよ」


「私は客じゃないよ、家族だと言ったろう? ユヅルから先に入っておいで」


そう言われて、僕が先にお風呂に入る事になった。


さっと髪と身体を洗い流し、湯船に浸かるとじわじわと暖められていくのがわかる。


そういえば、この小さな湯船にエヴァンさん入るかな……。

小さくなって入っている姿想像すると少し笑ってしまう。


ああ、僕……笑えてる。

母さんが死んだとわかった時、もう全ての感情を置いてきてしまったかと思ったけれど、こうして笑えるんだ。

それは全てエヴァンさんのおかげなんだな。


エヴァンさんがいてくれて本当によかった。

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