郷に入れば郷に従え
「ユヅル……今のは……」
「挨拶だけでもフランス語でできたらと思って練習してみたんですけど……間違えてましたか?」
「い、いや。合ってる。突然ユヅルがフランス語を話したから驚いたんだ。いつの間に覚えたんだ?」
「あの、実は……佳都さんにこっそり教えてもらったんです」
「ケイトに?」
「フランス語がわからなくても挨拶だけはできるようになっておきたいって相談したら、調べて教えてくれたんです」
「ユヅル……」
「わっ――!」
突然エヴァンさんに抱きしめられて驚いていると、黒服の人がにこやかに笑った。
『ふふっ。エヴァンさま。素敵なご伴侶さまをお迎えになって私は嬉しゅうございますよ』
『そうだろう? 私のユヅルは本当に素晴らしい子なんだ』
フランス語で嬉しそうに笑い合うエヴァンさんに
「あの、何を話してるんですか?」
と尋ねると、
「ああ、ユヅルのことを褒めているんだよ。私が素晴らしい伴侶を連れてきたから嬉しいって言ってるんだ」
「そんな……素晴らしいだなんて……」
「いや、わざわざ挨拶を覚えてきてくれるなんてその心遣いが嬉しいんだよ。ユヅル、ありがとう」
エヴァンさんにそう言ってもらえて心があったかくなる。
「喜んでもらえて嬉しいです」
僕がにっこりと微笑むと、黒服の人も僕に笑顔を見せてくれた。
言葉は通じなくても笑顔って通じるんだよね。嬉しいな。
「さぁ、ユヅル。中で休もう」
そういえばここ玄関だったっけ。
あまりにも広いから忘れてた。
黒服の人に中へと案内されながら、
「あの、エヴァンさん。あの方のお名前はなんですか?」
と尋ねた。
「ああ、彼はジュール。この屋敷で私が生まれる前から執事をしてくれているんだよ。だからこの屋敷のことなら私より詳しいな」
「へぇ、そうなんですね」
生まれた頃からずっとエヴァンさんの成長を見守っている人ってことか……。
いつか、ジュールさんにエヴァンさんの子どもの頃の話なんかを聞いてみたい。
エヴァンさんの通訳を介さずに直接聞けるようになるように頑張ってフランス語覚えよう!
勉強のいい目標ができたな。
「あの、僕はジュールさんをなんとお呼びしたらいいんですか?」
「名前でジュールと呼べばいいよ」
「えっ、でも……呼び捨てにするのは……。年上の方だし……」
「そんなことを気にしなくてもいいが……ユヅルが気になるなら、『Papy』と呼ぶといい。きっとユヅルに呼ばれたら喜ぶだろうな」
「ぱぴー?」
「ああ、後で呼びかけてごらん」
なぜか、いたずらっ子のような笑顔で僕を見るエヴァンさんに不思議だなと思いつつ、とりあえずぱぴー、ぱぴーと心の中で練習しておいた。
「――っ! 広っ!!」
ここって、自宅なんだよね? ホテルじゃないんだよね?
外観から凄そうと思ってはいたけど、あまりにも想像以上で言葉が出ない。
エヴァンさんは驚きすぎて茫然と立ち尽くしている僕の手を引いてソファーへと連れて行ってくれた。
ここに何人が座れるんだろうと思うほど広いソファーに腰を下ろすと、
『Bonne dégustatio』
とジュールさんが紅茶とお菓子を置いてくれた。
「あの、エヴァンさん。『ありがとうございます』ってなんていうんですか?」
「ああ、Merci だよ」
そうか、めるしー。うん、なんか聞いたことあるかも。
よしっ! 僕は少し緊張しながらジュールさんに声をかけた。
「めるしー、ぱぴー」
『――っ!! Oh mon die !』
「わっ!!」
突然ジュールさんが顔を真っ赤にしながら、僕を抱きしめた。
『ジュール! 落ち着けっ!!』
「わわっ!!」
エヴァンさんの声が聞こえたと思ったら、今度はエヴァンさんに抱きしめられていた。
「ユヅル、大丈夫か?」
「僕は平気です。あの、どうしちゃったんですか?」
「いや、ジュールがあれほど喜ぶと思わなかったものだから……私がふざけすぎたんだ、悪い」
「?? 何かだめだったんですか?」
「さっき教えたPapyは可愛い孫が祖父を呼ぶときに使うんだ。日本語で言うと……そうだな、『おじいちゃん』が一番近いだろうな」
「おじいちゃん……」
今まで一度も呼んだことがない言葉だ。
ジュールさんは確かに僕のおじいちゃんだったとしてもおかしくない年齢の人だけど……初めて会ったのに突然おじいちゃんなんて呼ばれたらそりゃあいい気はしないよね。
「ユヅルからおじいちゃんと呼ばれたのが相当嬉しかったみたいだな」
「えっ? 嬉しい? 嫌だったんじゃなくて、ですか?」
「あんなに嬉しそうな声をあげていただろう? 嬉しいに決まってるさ。だが、まさか私のユヅルに抱きつくとは思っていなかったからな」
「僕に抱きつくのは別に構わない、ですけど……」
「いや、構うだろう?」
なぜか真剣な表情のエヴァンさんに、
「あの、それよりもジュールさんに何か言わないと……」
と言うと、ハッとした表情でジュールさんに何か話しかけていた。
エヴァンさんとジュールさんが話しているのをみていると、突然綺麗なヴァイオリンの音色が聞こえ始めた。
「えっ? これ……」
僕が驚いていると、エヴァンさんが
「これはこの屋敷の呼び鈴なんだよ。ニコラが亡くなった後、ニコラの音色を忘れないようにと私の父が呼び鈴にしたんだ」
と教えてくれた。
そうなんだ……。これがニコラさん……いや、お父さんのヴァイオリンの音色。
一度聴いてみたいなと思っていたけれど、こんな形で聴けるなんて思ってなかった。
ああ、素敵な音色だな。心があったかくなる。
呼び鈴の音に、すぐにジュールさんが玄関へと向かうと玄関先でセルジュさんとミシェルさんの声が聞こえてきた。
ああ、二人も到着したんだ!
エヴァンさんは僕の隣に腰を下ろして、二人が中に入ってくるのを待っていると、
「ユヅルーっ!」
僕の名前を呼びながらミシェルさんがリビングに駆け込んできてそのまま僕の空いている方の隣にポスっと座った。
「ちょっと遅くなっちゃった」
「ミシェルさんたちはどこかに寄っていたんですか?」
「ユヅルに食べさせたいお菓子を買いに行ってたんだよ」
「僕に食べさせたい?」
「今、セルジュがジュールに用意してもらってるから楽しみにしてて」
うわぁ、なんだろう。
ジュールさんの出してくれたお菓子もまだ食べてないのに、また新しいのがやってくるなんて。
すごいな。
「ユヅルさま。どうぞ」
キッチンから戻ってきたセルジュさんとジュールさんが僕の前に小さなお皿をコトリと置いてくれた。
「ありがとうございます。これは、なんというお菓子ですか?」
「これは『ウィークエンドシトロン』って言ってフランスの伝統的なお菓子なんだよ。このケーキ、僕が一番好きなんだ。だからユヅルにも食べてもらいたくて……」
「――っ!! ありがとうございます、嬉しいです」
一番好きなケーキを僕にも共有してくれるなんて……。
なんだかミシェルさんの思い出の中に僕が入れたみたいで本当に嬉しい。
周りについている白いお砂糖がとっても甘くて美味しそう。
フォークで一口サイズに切り分けて、口に入れるとシャリっとした砂糖の食感としっとりしたケーキの相性がとってもよくて、爽やかなレモンの香りと味がとっても美味しい。
周りのお砂糖はきっとレモンの酸っぱさを落ち着かせるんだな。
「わぁっ! 美味しいっ!!」
あまりの美味しさに思わず大声を出してしまった。
「あっ、ごめんなさい」
「気にしないでいい。ユヅルがフランスのスイーツを気に入ってくれてみんな喜んでるんだよ」
「そうだよ、僕の好きなケーキ、気に入ってくれて嬉しいよ」
エヴァンさんもミシェルさんも本当に優しいな。
ジュールさんとセルジュさんにも目を向けると、僕をみて笑顔を浮かべている。
わぁ、なんかいつの間にか僕が食べているところをみんなに見られてるんだけど……。
一人で食べてるのって恥ずかしい。
「あの、ミシェルさんも食べてください。僕だけお菓子を食べているのは……」
「そうだね。ユヅルが可愛いから食べてる姿見るの楽しくってつい……。じゃあ。僕もこれ、食べようかな」
「ミシェルのはこれだよ」
そう言ってセルジュさんがミシェルさんの前に置いたのは、日本から持ち帰ったあのホテルの可愛いケーキ。
「あっ、これ……」
「ミシェルがまた食べたいと言っていただろう?」
「わぁ、買ってきてくれたんだ!! セルジュ、大好き!!」
ミシェルさんはセルジュさんに抱きついて、そのまま唇にチュッとキスをした。
「わっ!」
人がキスしてるの、初めて見ちゃった……。しかも、こんな間近で……。
母さんと暮らしている時はテレビでキスしてるところが流れると、すぐに違う番組に変えられてたしな。
その時は僕も恥ずかしいから特段みたいとも思わなかったけど。
今は僕もエヴァンさんんと、その……キス、してるけど、そんなふうにキスしてるかなんて自分じゃ見れないし。
でも……ミシェルさんとセルジュさんのキスは、なんていうのかな。
見ててもすごく綺麗だし、本当に嬉しいっていう愛情表現のような感じがする。
「ユヅル、どうした?」
隣にいるエヴァンさんが僕の腰に腕を回して、ぎゅっと抱き締めてくれる。
「いえ、あの……フランスでは、こうやって……き、キスで喜びとか表すのが常識なんですか?」
「えっ? ああ、そうだ。嬉しい時や幸せなときにこうやって抱きしめたり、セルジュたちのようにキスしたりというのは恋人なら当然のことだよ。これは家の中だけじゃなく、外でも同じだ」
「えっ? 外、でも……ですか?」
「ああ、もちろん。ここは日本じゃないんだ。しないと恋人じゃないと誤解されるだけだ」
「そう、なんですね……」
早速カルチャーショックがきたけど、郷に入れば郷に従えっていうしな。
しかもこれからずっとフランスで生活するんだ。
今から一つ一つ叩き込んでおかないと!
「だからユヅルも嬉しい時や幸せな時、それだけじゃなくてどんな時でも私たちが恋人だと思われるように愛情表現してくれ」
「わかりました! がんばります!」
僕がそういうと、エヴァンさんはとても嬉しそうに笑っていた。




