甘い朝食と別れの挨拶
目を覚ますと、今日も僕はエヴァンさんの腕の中にいた。
最初の日こそ驚いてしまったけれど、離れて寝ていてもいつも朝はエヴァンさんの腕の中に抱きしめられている。
それが自分からエヴァンさんの方に向かっているというのがありありとわかるから、もうどうしようもない。
やっぱり僕は無意識でもエヴァンさんのそばにいたいんだ。
そう思った瞬間、
――ユヅルを心から愛してる。だから、私と結婚してずっとそばにいてほしい……。
エヴァンさんに昨夜言われたことが頭に甦る。
こんなに大人でかっこよくて何もかも信じられないくらい素敵な人が僕を愛してるなんて……今でも信じられないくらいだけど、エヴァンさんが嘘なんかつかない人だってことはもうわかってる。
恋人がいるかもしれないなんて勘違いした僕にも真剣に向き合って話をしてくれた。
そんな紳士的なエヴァンさんの気持ちを疑うなんて……僕はやっぱり子どもだな。
エヴァンさんのそばにいて釣り合いが取れるように頑張らないとな。
でも、本当に綺麗な顔立ち。
血筋なのかほんの少し似ているけれど、でも僕とは全然違う。
同じなのは髪色だけだな。
でもそれだけでも僕はとっても嬉しい。
スウスウと気持ちよさそうに寝ているエヴァンさんの綺麗な頬にそっと触れる。
ほんの少しざらっとするのは髭のせいかな?
いいなぁ、羨ましい。僕には髭なんか生えないもん。
同じ血筋なはずなんだけどな……。こういうところで僕は母さん似なんだと気付かされる。
「ユヅル、朝から可愛いイタズラだな」
「あっ、起こしちゃいましたか? ごめんなさい……」
「いいや。mon petit lapin が起こしてくれるなら嬉しいだけだよ。朝から幸せだな」
「ひゃぁっ――!」
寝起きのエヴァンさんにぎゅっと抱きしめられて、耳元でそんなふうに囁かれて身体がゾクゾクと震えてしまう。変な声出ちゃった……。
「ユヅル……可愛いな」
エヴァンさんがなんだか急に蕩けそうに甘く優しくておかしくなりそうだ。
「イタズラされたからお返しだよ」
ほっぺたにちゅっとキスをして笑顔を見せるエヴァンさん。
うー、なんかずるい。僕だけドキドキしているのがおかしいみたいだ。
よーし、僕だって!
「エヴァンさん、おはようございます」
朝の挨拶のあとでちゅっとほっぺにキスをすると、やっぱり髭のざらっとした感触を唇に感じた。
それもまた嬉しくて笑顔を見せると、
「――っ、ユヅルには負けるな……」
ポツリと何かを呟いていた。
「えっ? なんて言ったんですか?」
「いや、おはよう。そろそろ起きようか。もうすぐセルジュも来るだろう」
結局何を言ったのかわからないまま、僕たちは起きて身支度を整えた。
エヴァンさんが朝食を作るのを手伝っていると、ピンポンと玄関のチャイムが鳴った。
「あっ、セルジュさんかも」
急いで玄関へと向かおうとした僕の手をとって、エヴァンさんも一緒に行ってくれた。
「セルジュでなければ心配だからな」
そうか、確かにそういうこともあるかもね。やっぱりエヴァンさん、優しいな。
けれど玄関の磨りガラスに映ったシルエットはどう見てもセルジュさんで僕はホッとしたんだ。
玄関を入ってきたセルジュさんからふわりといい香りが漂う。
あれ、この匂いって……?
「おはようございます。エヴァンさま。ユヅルさま。朝食はもうお済みになりましたか?」
「いや、まだだ。お前がアレを買ってきてくれると思っていたからな」
「さすがですね」
にっこり微笑むセルジュさんを見ながら、
「アレってなんですか?」
と尋ねると、セルジュさんは背中に隠していた茶色の紙袋を前に差し出した。
そこから香ばしいいい匂いがする。
「焼きたてのバゲットとクロワッサンを買ってきましたよ」
「わぁーっ、美味しそう」
「フランスの朝食には必要なものですからね。バターとジャムもありますよ」
さっと見せてくれた瓶詰めのジャムは見るからに甘くて美味しそうだ。でも意外だな。
エヴァンさんやセルジュさんが甘いものを食べるなんて。
「わぁ、甘い香りがする! これ、なんですか?」
セルジュさんの買ってきてくれたパンを囲んで朝食を始めると、エヴァンさんが僕の前に美味しそうな湯気をたてるマグカップを置いてくれた。
「これはホットチョコレートだよ。フランスではショコラショーと言って、これにバゲットやクロワッサンを浸して食べるのがフランス流なんだ。ユヅルもフランスで生活するようになるから、慣れておかないとな」
「へぇー、面白い! 朝から意外と甘いものばかり食べるんですね」
「そうだな。朝に甘いものを食べて昼食や夕食にはあまり食べないかな」
「そうなんですね。僕は甘いのが好きだから朝からこんなに食べられたら幸せです」
「なら、よかった。じゃあ、食べようか」
甘くてあったかいチョコレートを飲みながら、サクサクのクロワッサンを食べて……今までに食べたことのない朝食だったけれど、ものすごく美味しくて幸せな時間だった。
「ユヅル、クロワッサンのかけらがついてる」
「えっ? どこですか?」
エヴァンさんに指摘されて慌てて口の周りに触れてみたけれど、どこかわからない。
「ここだよ」
そういうと同時にエヴァンさんの指が僕の唇の端についていたかけらを取って、そのままエヴァンさんの口へと運んでいく。
「――っ」
「ごちそうさま」
嬉しそうに僕の唇についていたかけらを食べるエヴァンさんを見ると、途端に恥ずかしくなる。
「はぁーっ、エヴァンさま。私の方がお腹いっぱいになりますよ」
「お前もフランスでは可愛い恋人といつもやってるだろう」
「――っ、まぁ、確かにそうですが……」
「いつも見せつけられてたんだ。ようやく私にも可愛い恋人ができたんだからお前に見せつけてもいいだろう?」
「はいはい。わかりました」
セルジュさんは仕方ないとでもいうように、僕たちのことは気にせずに目の前の食事を完食していた。
「ユヅル、もうパンはいいのか?」
「あ、はい。もうお腹いっぱいです。ごちそうさまでした」
「じゃあ、そろそろ準備をしようか」
僕が手伝うまもなくさっとエヴァンさんとセルジュさんだけで食事の片付けを終わらせてしまった。
その後すぐにセルジュさんがどこかに連絡をするとすぐに玄関のチャイムが鳴り、エヴァンさんにこっちにおいでと声をかけられ、エヴァンさんの隣に行くと、玄関に向かったセルジュさんと共に数人の業者の方たちが家の中に入ってきた。
邪魔にならないようにエヴァンさんとソファーに座っている間に、次々と家の中の荷物が運ばれていく。
すごいなと思いながら見ている間に、家の中は僕たちの座っているソファーを残すのみになり、最後にそのソファーも外に運ばれ、家の中はすっからかんになっていた。
「ユヅル、最後に部屋の中を見て回ろうか?」
エヴァンさんの誘いに頷き、僕は手を引かれながら部屋を見て回った。
僕がガランとした部屋に残る柱や床の傷。それにそっと触れると、その時の情景が目に浮かぶ。
僕が生まれた時からずっと住んでいたこの家。
母さんと喧嘩したことも、怒られて泣いたこともあったけれど、思い出すのは楽しかった日々。
あんなに楽しく過ごせたのはきっと母さんが頑張ってくれていたからだろう。
母さんのいないこの家に一人で住むことは考えられないけれど、いざこの家を出るとなるとやっぱり寂しさが募る。もう帰れないこの家……。
ううん、違う。もう帰らない家なんだ。
僕と母さんの家は別の場所にある。そこでこれからの新しい思い出を作っていけばいい。
「ユヅル……別れは済んだか?」
「はい。エヴァンさん。僕、もう大丈夫です……」
僕の答えにエヴァンさんはにっこりと微笑んで、
「じゃあ、行こうか」
と僕の腰に手を回し、玄関へと向かった。
エヴァンさんは僕がきちんとこの家に別れができるまで待っていてくれたんだ。急かしたりせず、ただゆっくりと見守ってくれた。本当に優しい。
外に出ると、大きめのトラック三台並んでいて、一番左端の車にはさっき運び出してくれた持っていく方の荷物が全て乗せられていた。
真ん中の車には処分する家具が乗せられていて、そして、一番右端の車には綺麗に梱包された荷物が一つだけ入れられていた。
「エヴァンさん、あれは?」
「ああ、あれはアマネが大切に保管してくれていたニコラのストラディヴァリウスだ。あれだけ機内に持ち込むから別輸送なんだよ。あっちの荷物は今から船でフランスに運ぶから。私たちの方が先にフランスに着くな」
「そうなんですね。あの荷物たちも大移動するんだ。なんかすごいな」
「じゃあ、行こうか」
僕がエヴァンさんにエスコートされながら、セルジュさんが開けてくれている車の後部座席に座ろうとすると、
「江波っ!!」
大きな声で突然名前を呼ばれた。
「えっ?」
振り返ると、そこにはクラスメイトの小澤 くんがはぁはぁと息を切らして肩を激しく揺らしているのが見えた。
「どうしたの? 今、授業中だよね?」
「お前が、はぁっ……引っ越す、って、はぁっ……聞いた、から」
「それで、もしかして来てくれたの?」
その問いかけに小澤くんはまだ苦しかったのか、声を出さずに大きく頷いた。
わざわざ僕のために……走って来てくれる人がいるなんて、思いもしなかった。
僕はこの見た目だし、ずっと疎まれていると思ってたから……。
小澤くんの気持ちが嬉しくて、エヴァンさんを見上げると
「いいよ、少しなら。話しておいで」
にっこりと笑顔を向けてくれた。
僕はそっとエヴァンさんから離れると、小澤くんに近づいた。
「来てくれてありがとう。僕……誰にも会わずに行くつもりだったから、最後にクラスメイトの顔を見られて嬉しいよ」
「江波……俺……」
何か言いたげで言葉が止まってしまった小澤くんに、
「あの、僕……多分、もう二度と会えないと思うけど、小澤くんも元気でね」
というと、目を見開いて驚いていた。
「えっ? もう、会えない? お前、東京の大学行くんじゃなかったのか?」
「えっ……あ、うん。ここにいるときはそのつもりで勉強していたけど、母さんがあんなことになって状況も変わったし、その……親戚の人が迎えに来てくれたから、一緒にフランスに帰ることにしたんだ」
「ふ、フランス?」
「うん。僕も知らなかったんだけど、僕のお父さんはフランス人だったんだって。あっちで語学の勉強もしながら大学を目指すつもり」
「嘘だろっ! そんな――っ! 俺、お前と同じ大学行こうと思って……それで東京でお前をこいび――」
「悪いがそろそろ出発の時間だ」
「わっ!」
急にヒートアップしてしまった小澤くんの話の途中で、さっと腰を抱かれて驚いたと同時に、エヴァンさんの声が聞こえた。
「なんだよ、お前。今、俺が江波と話してるだろう!」
「悪いが予定が立て込んでるんだ。これ以上無駄なことに時間は割けない」
「無駄なことって……それは俺のことかよ」
「ふっ。よくわかってるじゃないか」
「なんだとっ?!」
「君がどれだけ足掻いてももう遅い。ユヅルは私のものだ。その意味がわかるだろう? 君がどれだけユヅルを想っていたとしても、もう君のものにはならないよ、絶対に」
「ふざけるな。お前みたいなオヤジに江波を渡すわけがないだろう!」
「ふざけているのは君の方だ。君には今までいくらでもチャンスはあったはずだ。だが、この閉鎖的な町で男と付き合うことのリスクを考えたんだろう? 自分の保身のためにユヅルとの関わりを避け、ユヅルが一番傷つき悲しんだ日でさえも放っておいたくせにいざ私に取られたと知るや、奪い取ろうとする。そんな自分勝手な奴がユヅルの相手になどなれると思うな!」
「くっ――!」
えっ……これってどういう意味?
小澤くんが僕のことを好きだったってこと?
まさか……。
何が何だかわからなくなっているうちに、小澤くんはエヴァンさんの言葉に何も言えなくなって悔しげにその場に膝から崩れ落ちた。
「小澤くん……あの、大丈夫?」
「江波……お前、本当にこんなオヤジのものになったのか?」
「えっ、それは……」
「俺じゃ、お前の相手にはなれないのか? なぁ、フランスなんかに行かないで俺のそばにいてくれないか?! 頼むっ!」
「小澤くん! そんなことやめてっ!」
そのままその場で僕に土下座をし始めた小澤くんを制しながら、
「ごめん。でも僕、決めたんだ。エヴァンさんのそばで一生一緒に生きていくって。だから、小澤くんのそばにはいられない」
というと、
「くそーっ、なんでだよ! ずっと、俺のものにしようと思ってたのに!! お前は俺のものだったのに!!」
そう言って、急に立ち上がり僕の方へ突進してきた。




