最期の別れ
<弓弦……ひとりにしてごめんね>
母さん……大丈夫、僕ひとりじゃないよ。
<そうね、エヴァンは弓弦のことを思ってくれてるものね>
うん……本当に優しくていい人だよ。
母さんをニコラさんの元に連れて行ってくれるって言ってくれてるし。
<そうね。でも、ニコラは私のことがわかるかしら? こんなおばさんになってしまって……>
大丈夫だよ、母さん綺麗だからさ。
<ありがとう。弓弦……遅くなってしまったけど、お誕生日おめでとう>
母さん……ありがとう。僕、母さんとニコラさんの子どもに生まれてよかったよ。
<私も弓弦の母さんになれてよかったわ。エヴァンと幸せにね……>
母さん……僕、幸せになるよ! 母さん……母さん……!
「……ル、ユヅル」
「うーん」
僕を心配するようなエヴァンさんの声が聞こえて目を覚ますと、僕はエヴァンさんの胸に抱かれて顔をじっと覗き込まれていた。
「ユヅル、大丈夫か?」
「えっ? 大丈夫かって……どうして?」
「ユヅルが、母さんって呼びながら、涙を流していたからユヅルがアマネの元に連れていかれるのかと心配になったんだ」
「涙……? あっ、本当だ……」
エヴァンさんの言葉にそっと頬に触れると、涙で濡れていた。
「どうした? 怖い夢でもみたか?」
「ううん。母さんが……ひとりにしてごめんって。僕の母さんになれてよかったって……そう言ってくれて……」
「そうか……。アマネもきっとユヅルに想いを伝えたかったんだな。ユヅルは話せたのか?」
「はい。母さんと……ニコラさんの子どもに生まれてよかったって言えました」
「そうか……それならよかった」
「あと……」
「んっ?」
「エヴァンさんと……幸せになるって、母さんに言えました」
「――っ!! ユヅルっ!」
エヴァンさんが僕を強く抱きしめる。
その力強さにエヴァンさんの想いの強さを感じて嬉しくなる。
「ユヅル、絶対に幸せにする! 約束するよ!」
「違いますよ、エヴァンさん……」
「えっ?」
「僕もエヴァンさんを幸せにします! だから、二人で一緒に幸せになりましょう」
「――っ、ああっ! ユヅルっ!! そうだな、二人で幸せになろう!」
母さん、僕はもう寂しくないよ。
エヴァンさんがついていてくれるから……。
朝食を済ませ、僕は久しぶりの制服に身を包んだ。
これを着るのも今日で最後か……。
寂しいと言う気持ちがないわけではないけれど、いつも奇異な目で見られていたからこれを脱げる日が早まってホッとしている。
「ユヅル、セルジュがそろそろ到着するそうだぞ」
「あっ、エヴァンさん! わぁっ、かっこいい」
「そうか? ユヅルに褒められると照れるな」
エヴァンさんは光沢のない真っ黒なスーツ。
だからこそ余計エヴァンさんのかっこよさが引き立っている気がする。
「これって、フランスの喪服? なんですか?」
「いや、フランスはもっとカジュアルなんだ。白や赤でなければ特にマナー違反だと言われることはないかな。ノーネクタイでも構わないんだよ」
「そうなんですか、知らなかった。じゃあわざわざこの服を?」
「郷に入れば郷に従えと言うからね、これなら余計なことを言われずに済むだろう?」
「ありがとうございます」
こんなところにまで気を遣ってくれるなんて……本当に優しい人だな。
エヴァンさんと外に出ると、ちょうどセルジュさんが車でやってきた。
急いで運転席から降り、後部座席の扉を開けてくれた。
「おはようございます、エヴァンさま。ユヅルさま。ゆっくりお休みになれましたか?」
「はい。おかげさまでありがとうございます。あの、制服もとっても綺麗でありがとうございました」
「よくお似合いですよ。さぁ、中へどうぞ」
セルジュさんは穏やかな笑顔を見せながら、扉を閉めるとすぐに運転席に戻り、ゆっくりと車を発進させた。
到着したのは町外れにある葬祭場。
ここ、何度か前を通ったことがあったけど、中に入る日が来るとは思ってなかったな……。
「ユヅル、大丈夫か?」
ぼーっと外を眺めていたから心配されたらしい。
「エヴァンさん、大丈夫です」
自分に言い聞かせるようにそう言いながら、車の中から、葬祭場入り口に掲げられた
<江波天音 儀 葬儀式場>の看板を見て思わずゴクリと息を呑んだ。
ああ、本当に母さんのお葬式に来たんだ……。
とっくに母さんの死を受け入れていると思っていたのに。
あの日から母さんのいない生活を過ごし、思い出を語り合って、今朝母さんとも最後の話をして……もうすっかり落ち着いていると思っていたのに……。
ベッドに横たわり白い布をかけられていたあの時の母さんの姿が急に鮮明に脳裏に浮かんだ。
嫌だ、見たくない。
怖い……。
どうしよう……身体の震えが止まらない。
すると、僕の身体は一瞬にして大きくて暖かいものに包み込まれた。
「ユヅル、落ち着いて深呼吸するんだ。大丈夫、私がついている」
耳元で優しく囁かれるだけで、さっきまでの恐怖が落ち着いてくるのがわかる。
スゥと思いっきり息を吸い込むと、エヴァンさんの優しい匂いが鼻腔をくすぐる。
ああ、やっぱりこの匂い安心する。
エヴァンさんに抱きしめられている間に、いつの間にか身体の震えは止まっていた。
「ふぅ……エヴァンさん、ありがとうございます」
「ユヅル……まだ時間はある。焦らなくていいよ」
「ううん、もう大丈夫です。僕……母さんのところに行きます」
「そうか。なら、行こうか」
エヴァンさんにエスコートされ車を降り、
「どうぞこちらです」
とセルジュさんに案内されて葬祭場の中へと進んだ。
「わっ、綺麗っ!」
母さんの好きだったアイリスの花を中心に百合やカーネーションなどもいっぱい飾られている。
母さんの棺は花に囲まれるように置かれていて、この芳しい花の香りはきっと母さんにも届いているはずだ。
「セルジュさん、ありがとうございます。こんなに綺麗な花に囲まれて……母さん、花が好きだったから喜んでると思います」
「そうですか。よかったですね、エヴァンさま」
セルジュさんはにこやかな笑顔を浮かべながら僕の隣に立つエヴァンさんに微笑んだ。
「えっ? これって……もしかしてエヴァンさんが?」
「アイリスと百合はフランスの国花なんだよ。あれほどニコラを思い続けてくれていたアマネだからね、それで飾れば喜ぶだろうと思ったんだ」
「じゃあ、このカーネーションは?」
「ああ。アマネのクローゼットにユヅルが作ったカーネーションがあっただろう? きっと思い入れのある花だと思ってね。一緒に入れるように頼んだんだ」
エヴァンさん……なんでそんなに……。
僕にも母さんにも優しくて……涙が止まらない。
「ユヅル……さぁ、アマネのところに行こう」
エヴァンさんの温かい手で包まれて、僕は母さんの棺へと向かった。
綺麗に化粧を施された母さんは、綺麗な花で溢れかえった棺の中で、まるでお花畑で眠っているように穏やかな表情を浮かべていた。
死んでいるとは思えない。
今すぐにでも起きて、いつものように『弓弦』って呼んでくれそうなほど、綺麗な顔をしていた。
「……か、あさん……」
棺の横に膝をつき、母さんにできるだけ近く顔を寄せながらそっと母さんの頬に触れた。
疾うに冷たくなった母さんの顔は硬かったけれど不思議と怖くはなかった。
さっきあれほど怖がっていたのが嘘みたいだ。
しばらくの間、僕は母さんの棺の横で別れを惜しみ続けた。
エヴァンさんもセルジュさんも何も言わず、それをずっと見守り続けてくれていた。
その後、神父さんがやってきて聖書を朗読したり、聖歌を歌ったり穏やかで落ち着いたお葬式が滞りなく進んで行った中で、
「ユヅル……最後にアマネにヴァイオリンを聴かせてあげないか?」
と声をかけられた。
「えっ、でもヴァイオリンが……」
「こちらにご用意しておりますよ」
セルジュさんが持ってきてくれたのは、ニコラさんのヴァイオリンケース。
あのストラディヴァリウスで母さんを見送るんだ。
こんなところで僕の演奏を……と心配になったけれど、
――弓弦、ヴァイオリンはね上手に弾こうなんて考えなくていいの。自分の感情の思うままに弓を引けば、綺麗な音を奏でてくれるわ。母さんは、弓弦の音が好きなの。
そう言ってくれていたことを思い出し、差し出されたストラディヴァリウスを受け取った。
何を弾こうか……でも、あんまりレパートリーないんだよね。
もっと練習しておけばよかった。
でも、ふと思いついた。
事故で亡くなった母さんと、母さんを迎えに来ようとして飛行機事故で亡くなったニコラさん。
その二人への弔いとようやく二人が一緒になれる喜びも兼ねて、この曲を両親に贈る。
僕はヴァイオリンをそっと鎖骨と顎で挟み、ふぅと深呼吸した。
『愛の讃歌』
本当はピアノと一緒の方がいいのだけど、ヴァイオリンだけで許してね。
ニコラさん……もし、事故に遭わなければあなたと母さんと仲良く過ごせていたんでしょうか。
あなたに会ってみたかった。
あなたの演奏を聴いてみたかった。
あなたと一緒にいる母さんをみたかった。
母さんはずっとあなたを愛していましたよ。
母さんの悲しみは僕で癒せていたのかはわかりません。
それでも母さんと過ごせたこの十八年はとても楽しかった。
母さん……今まで本当にありがとう。
僕のことは心配しないで……。
僕、幸せになるよ。絶対に……。
気づけば僕は涙を流しながら演奏を続けていた。
最後まで弾き切った時、エヴァンさんがそっと抱きしめてくれた。
「ユヅル、素晴らしい演奏だった。素晴らしすぎて言葉も出なかったよ。きっとアマネもニコラも喜んでいるよ」
「はい。ありがとうございます」
母さんはその後、少し離れた火葬場へと連れて行かれた。
僕たちは車で後を追い、全てを終え、骨を拾って戻ったのはそれから数時間後のことだった。
母さんの骨壷を手に僕たちは家へと戻ってきた。
もう全てが終わったんだ……。
母さんが病院に運ばれたと連絡を受けてから数日。
ピンと張り詰めていた気力が切れた気がした。
母さんの骨壷をそっと置いた瞬間、僕は目の前が真っ暗になり、そのまま倒れた。
「ユヅルっ!!」
僕の名を呼ぶエヴァンさんの声だけが強く耳に残っていた。




