初めての人
「ユヅル……大丈夫か?」
「は、はい……ちょっと苦しくなっちゃった、だけなので……」
「そうか。ユヅルは……その、キスは初めて?」
面と向かって聞かれたのが恥ずかしくて、エヴァンさんの身体で顔を隠しながら何度か頷いて見せると、
「そうか、そうなのか」
と嬉しそうな声をあげて、笑っていた。
「あの……僕が初めてだと、嬉しいですか?」
「あ、いや。そういうわけじゃないよ。だけど、うーん、なんと言ったらいいのか……私はもうすぐ30だし、今のユヅルとのキスが人生初のキスなんてことは言えない。自分が初めてでない以上、相手に処女性を求めるのはおかしいと思ってる。だけど、正直にいうと、ユヅルの唇の感触も、ユヅルの可愛らしい反応もこの世の中で私しか知らないというのは幸せでしかないよ」
「エヴァンさん……」
「私もできることならユヅルが初めてのキスの相手であればよかった。過去の事実を消すことはできないが、私はこれから先の人生で、ユヅルとしかキスをしないと誓うよ」
何一つ隠そうとしない、エヴァンさんの潔さが紳士らしくてすごくかっこいいと思った。
高校生の僕にとってファーストキスはすごく重要に感じるけれど、これから先のエヴァンさんのキスを僕が独り占めできるのなら、そっちの方がいい。
「もう……僕以外としちゃ、ダメですよ……」
「――っ! ユヅルっ!! ああ、もちろんだとも。神にも、それに……ニコラとアマネにも誓うよ。二人の大切なユヅルを泣かせるようなことは絶対にしない。だから、ユヅル……もう一度キスを……」
そう言ってエヴァンさんの顔が近づいた瞬間、
ピーンポーン
玄関のチャイムが鳴った。
「わっ!」
びっくりして僕がエヴァンさんから離れると、
「きっとセルジュだな。本当にあいつはタイミングの悪い……」
と少し悔しそうな顔をしながら玄関へと向かった。
僕はトコトコとエヴァンさんの後ろからついていくと、エヴァンさんはスッと立ち止まり、僕の手を握って一緒に玄関へと連れて行ってくれた。
手を繋ぐってなんだか抱きかかえられていた時よりも緊張する。
エヴァンさんのことを好きだと認識した後だから余計そう感じるのかな……。
なんだかドキドキがうるさくて、エヴァンさんに聞こえてしまいそう。
玄関に映るシルエットを見ただけでセルジュさんだとわかる長身。
こんなスタイルの良い人、この町にはいないもんね。
エヴァンさんが鍵を開けると、セルジュさんがガラガラと引き戸を開けて入ってきた。
入ってきてすぐに、僕たちの繋がれた手に視線がいくのがわかった。
咄嗟に手を離そうとしたけれど、エヴァンさんにがっしりと掴まれて外せそうにない。
「ユヅル、セルジュの前だからといって気にすることはない」
「でも……」
なんだか照れちゃう……。
「エヴァンさま、もしかして思いをお伝えに?」
「ああ、そうだ。ユヅルも私を愛していると言ってくれた。そうだな? ユヅル」
エヴァンさんとセルジュさんの視線が注がれる。
恥ずかしいけど、ここで嘘をつくのもおかしいし、エヴァンさんを傷つけるようなことしたくない。
僕は頷くのが精一杯だったけれど、それでもエヴァンさんは嬉しそうに笑ってくれた。
「まさか、エヴァンさま……もう?」
「そんなことするわけないだろ!」
「本当に?」
「お前はしつこいぞ! キスしただけだ」
「それなら安心いたしました」
セルジュさんはにっこりと微笑みながら、僕を見た。
「ユヅルさま。エヴァンさまの思いをお受けいただきありがとうございます。エヴァンさまはユヅルさまが初恋なのですよ」
「えっ?」
「セルジュっ!余計なことを言うなっ!」
「はい。では、失礼いたしますね。荷物を確認して参ります」
中に入っていくセルジュさんを見送りながら、僕とエヴァンさんは玄関で立ち尽くしていた。
「あの……エヴァンさん、今の……初、恋って……どういう……?」
「いや、あの……だから、そういうことだ。ユヅルは私が初めて心から愛した人なんだよ」
「僕が……初めて?」
「ああ、正直に話すと今まで何人か付き合った女性はいた。だが、相手から告白されて付き合っただけで、自分から必死にアプローチしたことなど一度もないのだ。ユヅルだけだ、自分から手放したくないなんて思ったのは……」
「エヴァンさん……」
「幻滅したか?」
「幻滅なんてそんなこと! 逆に嬉しいです」
「嬉しい?」
「はい。だって、僕がエヴァンさんの初めての本当の恋人ってことですよね? 幸せです」
「――っ!!!」
エヴァンさんはとびっきりの笑顔を見せながら、僕をぎゅっと抱きしめてくれた。
ああ、この温もりだ。
やっぱり僕……最初からエヴァンさんに惹かれてたんだな。
ぎゅっとピッタリと寄り添ったまま、部屋の中へと戻るとセルジュさんが一通り全ての部屋を回ってきたところだったらしく、
「荷物は全て選別できてますね」
と笑顔を向けてくれた。
「家具は全てこちらで処分なさるということでよろしいでしょうか?」
「はい。処分でお願いします」
「承知いたしました」
「あ、セルジュ。奥の部屋にあったヴァイオリンケースを見たか?」
「はい。中身は確認しておりませんが、ニコラさまのサインが書かれておりましたね」
「そうだ、あの中身はストラディヴァリウスだ。特に大切に運んでくれ」
「承知いたしました」
エヴァンさんと話を終えたセルジュさんはさっとどこかへ電話をかけると指示だけ出してあっという間に電話を切った。
「それからこちらは明日のアマネさまのご葬儀でお召しになるエヴァンさまのスーツと、ユヅルさまの制服でございます」
「えっ? 僕の制服?」
「はい。日本では学生がご葬儀に参列する場合は制服を着用なさると伺いましたので、制服はクリーニングに出しておきました」
「――っ!!!」
制服の存在なんてすっかり忘れてた……。
あの日、どこで脱いだのかも覚えてなかったのに。
セルジュさんって、やっぱりすごい!
「ご夕食をお持ちしましたので、準備いたしますね」
「セルジュさん、本当に何から何までありがとうございます! 僕もお手伝いします」
「ふふっ。ありがとうございます。ではこちらをお皿に盛り付けていただけますか?」
「はい。――わっ!」
キッチンに行くセルジュさんについて行こうとしたら、急にエヴァンさんに抱き寄せられて声を上げてしまった。
「あ、あの……」
「私も行く」
「えっ? あ、はい。あの……エヴァンさん? 何か、怒ってます?」
少し拗ねたような表情が気になって尋ねてみたのだけど、エヴァンさんは僕を見つめたままだ。
「エヴァンさまは嫉妬なさってるんですよ」
「うるさいぞ、セルジュ!」
「えっ? 嫉妬?」
意味がわからなくて、セルジュさんとエヴァンさんの顔を交互にみていると、エヴァンさんが
「いや、その……ユヅルがあまりにもセルジュと仲良く話していたものだから……それで」
とバツの悪そうな顔で話してくれた。
「それで……嫉妬、ですか?」
「いや、面目ない。私も自分がこんなに嫉妬深いとは思ってなかったんだが……幻滅したか?」
「幻滅なんてする訳ないです。エヴァンさんがこんなに可愛いなんて思ってなかったので、嬉しいです」
「可愛い? 私が?」
「エヴァンさま、よかったですね。ユヅルさまがエヴァンさまを可愛いなんて仰ってくださる奇特な方で」
「セルジュ! 一言余計だぞ!」
「失礼しました」
セルジュさんの笑いに釣られるように、僕もエヴァンさんも笑ってしまいこの家で久しぶりに楽しくて大きな笑い声が響き渡った。
母さん……僕、エヴァンさんとセルジュさんがいてくれるから笑っていられるよ。
母さんが僕に素敵な贈り物を残してくれたから。
本当にありがとう。
セルジュさんが持ってきてくれたのは見たこともないようなキラキラした料理ばかり。
「こちらの料理はエヴァンさまが日本に来たときに必ずお召し上がりになるレストランで、事情を話してテイクアウトにしていただいたのですよ。きっとユヅルさまもお気に召していただけると思います」
「わぁーっ、美味しそう! ありがとうございます」
わざわざ東京まで食事を買いに行ってくれたんだ。
本当、すごいな。セルジュさん……。
初めて食べるフランス料理は驚くほど美味しかった。
一口食べるたびに笑顔になってしまうような、それくらい美味しい。
エヴァンさんたち本場の人がわざわざ日本に来てまで食べにいくくらいのお店なんだから相当なんだろうな。
「ここの店は、フランスに本店があるんだ」
「えっ? そうなんですか?」
「ああ。昔、ニコラとアマネもその本店で食事をしたんだそうだよ」
「母さんと……ニコラさんも?」
「ああ。その時のアマネも今のユヅルと同じように嬉しそうに笑顔で食べていたって。一緒に食事するだけで癒されたって。あんなに幸せそうに食事をする人を見たのは初めてだって嬉しそうにニコラが話していたと父が言っていた」
「母さんが……」
「昨日もだけど、ユヅルも美味しそうに食事をするなぁって思っていて、今日、ここの料理を食べてニコラとアマネの話を思い出した。やはりアマネとユヅルは親子なんだな。私がユヅルを見て癒されているように、ニコラも癒されていたのだと思うと感慨深いよ」
こうやって母さんやニコラさんの話に僕のことも織り交ぜてくれるエヴァンさんの言葉。
聞いているだけで僕の方が癒されてる気がする。
エヴァンさんって本当に優しい人だな。
「それでは私はそろそろお暇いたします。また明朝お迎えにあがりますので……」
「あの、セルジュさんもよかったら、ここに泊まって行かれては? 狭い家ですけど……」
「お気遣いいただきありがとうございます。ですが、まだこれから行くところもございますので今日は失礼いたします」
「セルジュ、頼むぞ」
「はい。それでは」
頭を下げ出ていくセルジュさんを見送りながら、
「一人でいろいろさせてしまって申し訳ないな……」
と呟くと、
「ユヅルは優しいのだな。セルジュもユヅルの思いは伝わっているから気にしないでいい。ほら、風呂に入って休もう」
と優しく頭を撫でてくれた。
それから交代でお風呂に入り、エヴァンさんは今日も湯上がりに僕の作った浴衣を来てくれていた。
「これが着やすくていいんだ。結び方もなんとか覚えたから今日はユヅルの手を煩わせずに済んだぞ」
少し縒れているけれどしっかりと結べている帯を得意げに僕に見せるエヴァンさんが可愛くて、
「本当ですね! すっごく上手です!」
とほんの少し大袈裟に褒めると、エヴァンさんは嬉しそうに笑っていた。
今日もエヴァンさんに抱きしめられ、僕のベッドで眠りにつく。
昨日と違ってすごくドキドキするのは、エヴァンさんが恋人になったからだろうか……。
「ユヅル、お休みのキスをしても?」
「――っ!」
抱きしめられたまま、耳元で囁かれて身体がゾクゾクと震える。
言葉も出せなくてコクコクと頷くと、顎を持ち上げられエヴァンさんの顔が近づいてくる。
チュッと重なり合った唇は本当に柔らかくて温かくてドキドキする。
「Fais de beaux rêves ! ユヅル」
心地良いフランス語を聞きながらもう一度頬にキスをされて、僕は眠りについた。