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作者: 星賀勇一郎





 多くの場合、事件なんて起きるはずもなく、ただただ平凡にその一日は過ぎていく。

 それに気が付いたのははるか昔の事で、大人になったからと言ってそれが変わる訳でもなかった。


 眠れないまま、朝を迎えようとしているこの時間は、私にとっては特別なモノで、この街の朝一番の風景を独り占めしているような感覚になる。


 オシャレな雑貨ばかりを売る店で買った間接照明がLEDのライトで部屋の隅を青白く照らし、東の空がそれに呼応するかのようにラベンダー色に染まって行く。


 今日が来なければいい。

 胸の奥に沈殿する重い鉛が何度も何度もそんな思考を私の中に張り巡らせ、それでも朝はやってくるようで、音の無いテレビの中でも今日を迎えないようにするための事件は起きそうにない。


 そんなことはわかっていた。

 そうわかっていたのだ。

 私には重い鉛の日となろうが、周囲の人々にとっては普段と何も変わらない一日であり、眠れないほどに苦しむ私の事など誰も気付かない。

 それが普通の一日なのだ。


 始発が動き始めたようで、開け放した窓から線路を擦る音が聞こえてきた。


 私はゆっくりと立ち上がり、窓の傍に立ってその始発の電車に灯る明かりを眺めた。

 既に一日が始まり動き出そうとしている人もいる。

 そう考えると妙に自分がおかしく思えて口元を歪めた。


 重い胸の奥とスモッグの充満したような頭を抱えて、私の一日も確実に始まる。


 このまま何処かへ行ってしまおうか……。


 そうやって今日を先送りする価値と、早く終わらせて楽になる価値を昨夜から何度も天秤にかけている。

 そしてその答えは今も出ない。

 出るのは自分のモノでないような溜息ばかりで、一歩も前には進めないのだった。


 開け放した窓を閉めて、白んできた街をカーテンの陰から、自分にはそれを見る資格もないように覗き込んだ。


 ほら、やっぱり今日はやってきた……。


 私は今一度口元を歪める様に笑い、凝り固まった首を何度か回した。

 そして背伸びをして、自分をリセットしようと試みるが、そんな事でリセットなどされるはずもなく、睡眠不足の自分を少々麻痺させることくらいしかできなかった。

 その麻痺した瞬間に体を動かして、更に麻痺させる。

 それが今の私には精一杯の出来る事だろう。


 服を脱いでシャワーを勢いよく出した。

 しばらくは水しか出ないシャワーが浴室の床を雨の日のアスファルトの様に打ち付け、小さな粒の作るノイズが澄んだ何かの様に私の中に浸透していくようだった。


 シャワーの水が徐々にお湯になり、私はその澄んだ粒で自分の中の重い鉛を洗い流す様に頭からかぶる。

 そうすることで真新しい自分を生み出すことが出来るかのように体を洗い、シャワーを止めた。


 洗面所の曇った鏡を濡れた手で拭うと、それはさらに汚れた自分の姿を映し出した。

 その鏡を何度か水をかけて拭い、バスタオルを腰に巻いて、髭をあたるために顔を泡で覆った。

 新しい剃刀を出して良く見えない鏡に映る自分の顔に沿わせる。


 髭なんて剃る必要もないじゃないか……。


 鏡の中の自分がそう語りかけてくるが、それを振り払うように一気に泡を洗い流し、そのまま何度も何度も冷たい水で顔を洗った。

 それで少し目が覚めた気がした。


 下着を着けて、そのままクローゼットの扉を開ける。

 普段なら一度ソファに座り、冷たいものを飲むのだが、今日はそれをやると動けなくなる気がして、そのまま着替える事にした。


 数日前にクリーニングから戻ってきたペラペラのビニールのかかったスーツをベッドの上に放り出し、ワイシャツを入れている別の扉を開けた。

 スーツ同様にクリーニングから返ってきたビニールの袋に入ったワイシャツに手をかけたが、そのシャツをそこに戻し、買ったばかりの新しいシャツを手にした。


 何も新しいシャツを着ていくこともないだろうに……。


 そんな声が聞こえた気がしたが、その袋を開けて袖を通す。


 これが私の戦闘服のようなモノだからな……。


 ベッドの上に放り投げたスーツと手に持ったシャツを見て自分にそう言い聞かせた。







「良いモノが売れるモノって訳じゃない。売れるモノが良いモノなんだよ」


 ガラガラに乾いた声で言うその言葉は、今まで生きてきた時間のすべてを否定されたような気になった。


 しかし、考えてみればビジネスの世界では当たり前の事で、自分でも薄々感じていた事なのかもしれない。


「善行が良い事とは限らない。ましてや悪行が悪い事とも限らない」


 私にはそう聞こえたのかもしれない。

 それを確定する定義はこの世の中には存在しない。

 それを決めるのは自分の中の価値観でしかない。

 俗に言う自分の中の「天使」と「悪魔」それなのかもしれない。


「意外にピュアだねぇ。もう少し汚れないと生きていけないよ」


 汚れないと生きていけないのか……。

 だったら死を選ぼう。

 などという昔の哲学者のような答えは出せるはずもなく、ただ無言で口を噤むしかなかった。

 口を開けばその言葉たちを否定する嗚咽のようなものが一気に溢れ出しそうで怖かった。

 そしてそこまでの勇気を私は持ち合わせていなかった。


「大人になるってことは汚れる事だ」


 なんて学生時代に酔って偉そうに語った事もあった。

 しかしそれを現実のモノとして目の当りにすると、経験した事の内容な拒絶反応を起こしてしまった。

 それは私自身がまだ大人になりきれていないという事なのかもしれない。


 汚れてしまった大人たちには当たり前の事だ……。


 自分の中でそんな声が響く。


 もちろん、自分自身を清廉潔白な人間だとは思っていない。

 しかし、周囲の人々とのギャップが自分のいる位置を明確にした気がしたのだった。


 そんな世界で生きていく自信を無くしてしまった。

 だからその世界から逃げ出すんだよな……。


 何と言われても良い。

 そこで生きて辛い目に遭うのは私なんだから。






 早朝の街はまだその体温を取り戻してなかった。

 いつもの地下鉄に向かう階段にも人の影は疎らで自分の踵の音さえも聞こえる程だった。


 改札に向かう長い地下通路にコツコツと靴音を刻み、その音が一定のリズムである事にも、初めて気づいた。


 お前は何のためにこんな朝早くから地下鉄に乗るんだよ……。


 靄のかかった頭の中にそんな言葉が聴こえてくる。


 改札にICカードの定期を翳し、ゲートを抜ける。

 いつもと同じ行動なのだが、今日はその行為さえコマ送りの映像の様に思えた。


 周囲を見渡すと顔色の無い疲れた人々がホームに向かうエスカレータで足を止めている。


 私もこんな感じなのだろうか……。


 そう考えると自然と眉が寄る。


 命を削って金儲けしてるんだよ。

 そんな事も分からないのか……。


 私はエスカレータの前で足を止め、ホームに続く長い階段へと向きを変える。

 後ろに並んだ人が迷惑そうに私を避け、エスカレータに乗り込んでいた。


 私は階段を一歩一歩踏みしめる様に降りていく。

 今の私にはこの階段が似合っているように思えた。


 一度も階段で降りたことのないホーム。

 やってみると意外に容易いモノで、無意識にこれからは階段で降りようと考えた自分がおかしかった。


 いつも一番前の車両に乗る事にしていた。

 しかし、今日はそれを止め、いくつか後ろの車両のマークに並んだ。


 そんなルーティーンを変える事に意味なんてないさ……。


 分かっている。

 そんな事は言われなくても分かっている。

 ただ何かを変えたい。

 それだけだ……。


 ずっと憧れていた少し高価なダレスバッグを数年前に自分へのご褒美として買った。

 もうそのグリップの革の色も真っ黒になっていた。


「徐々に馴染んで行くと良い色になって行きますよ」


 店員はそう言った。


 馴染むのに何年かかるんだよ……。


 私はバッグを見て苦笑した。


 地下鉄が近付くメロディが人の疎らなホームに響いた。


 このまま入ってくる地下鉄に飛び込むのも悪くない。

 まあ、そんな勇気があればの話だけどな……。


 ああ、そんな勇気がないことはわかっているさ。

 何の迷いもなく、毎日この駅からこの地下鉄に乗ってたんだ。

 地下鉄に乗ることに自分の意思があるって事さえ分からなかったよ……。


 ホームに入ってくる地下鉄の速度が意外に早い事に私は気付いた。


 こんなに早かったんだな……。


 私はその地下鉄に咄嗟に飛び込んでしまわないように、一歩後ろに下がった。


 地下鉄の扉は開くが、早朝のせいか、降りる客は一人のいない。

 それどころか、その車両に座っている客の疎らだった。


 私は長椅子の端の席に座り、横の手すりに肘を突いた。

 扉は大きなエアーの音と共に閉まり、ゆっくりと地下鉄は動き出した。


 こんな早朝の地下鉄に乗ることは稀で、いつもの通勤時間には座席に座ることも出来なかった。

 いつもの風景も少し時間が違うだけで、まったく別のモノに見えてしまう。

 それが楽しくもあり、怖くもある。


 私はどこに向かっているのだろうか……。


 全く知らない場所へ向かう列車に乗ってしまったのではないかという錯覚さえ起こしてしまう。

 車窓からの風景が見えない地下鉄だからこそ、そう思うのかもしれない。


 時折車窓に流れる様に見える地下道の電燈が見える。

 そんなモノを気にした事も今まではない。

 等間隔に設置された薄暗く光る電燈が尾を引くようにリズミカルに流れていく。

 普段から見ていた風景なのかもしれないが、それがこんなに記憶に残った事は一度もなかった。


 いつもぎゅうぎゅうに詰め込まれるように乗る地下鉄。

 乗っている時間は二十分程度のモノだが、今日はその時間もいつもとは違うモノに感じている。

 額や背中を伝う汗もない。


 膝の上に乗せたダレスバッグに視線をやると、見覚えのない傷を見つけた。

 私にとってはかなり高価なバッグだったので、気を付けて使用していた。

 傷が付くとすぐに革専用のトリートメントクリームで磨いていた。

 数日前には無かった傷だった。

 多分昨日どこかに擦ったのだろうか。

 昨日の自分なら気付ける筈もない気がして苦笑する代わりに目を閉じて微笑む。







「今晩少しどうだ」


 同期入社の立花が仕事終わりのベルと共に私を誘ってきた。


 私は立花に部長に呼ばれている事を伝え、その後でも良いかと訊いた。


「わかった。じゃあ倉橋と一緒にいつもの店で飲んでるから、来れたら来てくれ。場所移動するようならSNSに入れておくから」


 そう言って立花は去って行った。

 倉橋も同期入社で、一緒に入社した十人程の仲間も、すでに私を含めこの三人しか残っていない。

 ある者は病んで、ある者はさんざん毒を吐いて辞めていった。


「今時、同じ会社に十年居ていくら給料が上がるんだよ。その十年分の昇給を一回の転職で実現できる時代なんだよ。転職だよ、転職」


 そんな事を言って辞めた奴もいた。


 ある女子社員は会社に結婚すると嘘をついて辞めていき、今は夜の店で疲れ切った男たちに酒を作っている。

 しかしそれでも彼女は前よりは幸せだと言っていた。


「私は何をしていたのか、いまだに分からないもん。でも今は単純で、私が作るお酒で癒される人がいる事が明確に分かるもの……。こっちの方がやりがいはあるわ」


 彼女のその言葉に私は何も言えなかった。


 私は何をしているんだろうか……。


 そんな疑問は果てしない問題として、自分の前に山積みになって行く。

 そしていつしかそれに押しつぶされる気がした。


「愛社精神……。そんなの死語だよ死語。いくらもらえるかで働き方を変える。それって一番合理的で人間的だと思わないか。だってお前、百円のモノを手に入れるのに千円使う事はないだろう。それと同じだよ」


 理屈っぽくで頭が良かった遠藤もそう言って一緒に辞めようと誘ってきた。

 この遠藤は小さな会社を立ち上げたと聞いた。


「終身雇用なんてありえないよ。一生会社の奴隷になるって事だよな。出来るだけ多く退職金をもらって早めにリタイヤして、好きな事をする。それが理想だろう」


 遠藤は酔ってそう言い放った。


 私たちは会社の奴隷なのだろうか……。


 私はその遠藤に言い返す言葉もなく、その直後に彼は会社を去った。


 新人の頃は会社の中身なんて何も見えず、ただがむしゃらに仕事をしていた気がする。

 しかし、年月が過ぎ、その見えなかった部分が見える様になると、会社の掲げる信念とは違う薄汚れた部分がはっきりと見えるようになってくる。

 そしてその汚れた部分に会社や自分たちが支えられている事にも気付く。


 そんなモンだろう……。

 サラリーマンの生きる道ってのは……。


 そう無理矢理納得させてきた。

 しかしそれと同時に解せないモノを胸に抱える事にもなった。






 駅に到着した。

 私は立ち上がり、ゆっくりとホームに降りる。

 何故か強く踏みしめてホーム立った気がした。

 いつもは押し出されるように地下鉄を降り、流れに身を任せる様に改札を潜るのだが、今日はそのすべてが自分の意思で動いているように思えた。

 人の疎らなエスカレータに乗り、コンコースへと出た。

 そして改札を抜けると、地下道を歩いて行く。

 多くの人が使う地下道は、傷みも激しい。

 剥がれそうな床を見つけて立ち止まった。


 使われて使われて、新しいモノに取り換えられて。

 そして忘れ去られていく……。


 今の自分はこの剥がれかけた床と同じなのかもしれない……。


 私はその破片になった床を見て微笑むと歩き出した。


 地下を抜けて地上に出た。

 朝の曇ったような表情の街はやけに冷たい大気を含有していて、独特のモノだった。


 私は会社の方向へ向かわず、たまに行く早朝からモーニングサービスをやっている喫茶店へと向かった。

 初めからそのつもりで家を出た。

 今日はどうしてもその喫茶店のモーニングを食べたかった。


 歩道の端に積まれた飲食店から出るゴミの山を数羽のカラスが突いていた。

 そのカラスを追い払うようにしてゴミの収集車が近づいて来る。

 そんな風景もこの街の一部なのだ。

 普段は観光客で溢れるこの街。

 表面のきれいな部分とそれを支える汚れた部分。

 その二つの要素でこの街は出来ている。

 この数羽のカラスたちもこの街の一部なのだ。


 私は足を止め、カラスたちの居た場所を振り返った。

 既にカラスの姿はそこには無く、近くの古びた低いビルの屋上で「俺たちはここにいる」と主張するように鳴くカラスを見つけた。


 カラスの体の色が「黒」でなければ、もっと人々に愛される鳥になったのだろうか……。


 私はそんな事を考えて再び歩き出した。


 車の通りも殆どない大通りを抜けて、街のメインストリートに出る。

 すべての店のシャッターは下ろされ、最近できたコンビニだけが煌々と周囲を照らしていた。






 そのメインの通りを一本外れたところにある薄暗い路地にその喫茶店はあった。

 朝早くから開けているが、会社の終わる時間には閉めている店で、年老いたマスターが一人でコーヒーを淹れていた。

 何度かアルバイトの若い店員を見たことがあるが、そのマスターの感覚についていけないのか、そう長くは続かない感じだった。


 その細い路地に入り、私は喫茶店のある古びたビルの二階を見上げる。

 小さな窓から明かりが漏れる様に見えた。


 狭い階段をゆっくりと上り、重厚な造りの木製のドアを開けると、ドアに付けられた上手く音の出ないカウベルが鳴った。


「いらっしゃい……」


 年老いてはいるが、スマートでワイシャツにベスト姿のマスターが声を発した。

 そして私をちらと見ると会釈した。


「お客さん、珍しいね。こんな時間に……」


 どうやらマスターは私の事を覚えてくれているようだった。


 店には他の客の姿は無く、並べられたポットの中で沸くお湯のせいで窓ガラスが曇っているだけだった。


 私はマスターに勧められるがままに、カウンターに座った。


「何にします……」


 いつもの表情でマスターは注文を聞くと同時に冷えた水を私の前に置いた。


 私はモーニングを頼むと上着を脱いで、椅子の背もたれに掛けた。


 マスターは黙って頷くと、壁に並べたカップから一つ選んで、カウンターの上に置く。


「カップもね、そのお客さんを見てから選ぶんだよ。このお客さんにはコレって感じでもなくてね。今日のこのお客さんにはコレって感じでね……」


 マスターは私を少し見て微笑んだ。

 そして古い電動のミルで豆を挽き始めた。

 電動ミルの音がしている間はマスターも何も話さない。


「今日のお客さんはいつもと雰囲気が違うね。どこかに戦いに行く前の兵士のような顔つきをしているよ」


 私は歯を見せて微笑んだが、その笑いに力がない事も分かっていた。


 マスターはゆっくりとカップにコーヒーを注ぎ始めた。

 少量のお湯で初めはコーヒーを蒸す様に注ぎ、その後周囲からお湯をゆっくりと注いでいく。


「その戦いが終わった時に……、またここに来てゆっくりコーヒーを飲んでもらいたい……。だからこのカップを選んだ」


 マスターはカップを皿に乗せて私の前にそっと置いた。

 そのカップには二匹の蝶が描かれていた。


「コウトウキシタアゲハ。そんな名前の蝶らしい。私も蝶には詳しくないが、珍しい蝶だそうだ。私の父が戦争で東南アジアに居た時にこの蝶の大群を見たそうだ。その蝶に導かれてジャングルを歩いたそうだ。すると人の住む集落に出て命拾いした。そんな話を思い出してね……」


 マスターはこんがりと焼いたトーストを私の前に置く。


「戦争なんて愚かな事をそう何度も人間が繰り返すとは思っていない。もちろん時代も変わって、戦地に赴く事もない戦争が行われる時代だ。人の命はどんどんその価値を下げて、虫けらのように消されていく時代になってしまった。けどさ、殺すのも殺されるのも同じ人間なんだよ。勝った、負けたって騒ぐのはスポーツやゲームの世界だけで良い。勝ちも負けもない世界。それが一番平和な世界なのかもしれん……」


 私は多分、虚ろな目でマスターの話を聞いていた。

 マスターもそれに気付いたのか、少し苦笑して俯いた。


「つまらん話をしたな……。けど、その蝶の生きる世界には多分、勝った負けたなんていう原始的概念は無いはずなんだ。人間は一番野蛮で原始的な生き物なんだろうな……」


 マスターはコンロの前に座り棚から老眼鏡を取り、文庫本を取り出した。


「冷めない内に飲んでくれ……。そのコーヒーが今のお客さんの何かの役に立てるなら……」


 私はマスターの気持ちが嬉しく思え、目頭に涙が溜まるのを覚えた。

 湯気の立つコーヒーを一口飲んで、バターの塗られた厚めのトーストを口にした。

 やけに涙の味のするモーニングだった。


 気が付くと一気にトーストを口に入れて、コーヒーで流し込んでいた。

 私は涙を流した事が恥ずかしく思えて、早々に店を出ようと立ち上がる。


「座んなよ……。まだ時間はあるだろう……」


 マスターは私の飲み干したコーヒーカップを取ると、ポットからコーヒーを注いでくれた。


「サービスだよ。ゆっくり飲んでくれ」


 その声が優しく響いた。

 私は隣の席に上着とバッグを置いて、今一度座りなおした。


 私はマスターに例を言うと腕のハミルトンを見た。

 まだ始業までにはたっぷりと時間があった。


 マスターは私の前にコーヒーの粉の入った灰皿を出した。


 タバコはもうかなり前にやめた。


「以前は吸ってただろう。もうやめてかなり経つか……」


 マスターは以前私の吸っていた銘柄のタバコと店のマッチをそっと出した。


「別に無理に吸えと言ってる訳じゃない。ただ、やめた事を必死に守り続ける必要もないし、嫌ならまたやめれば良いだけの話だ。人の選択……人生もそうかもしれんが、もっと自由なモノなんじゃないかな……」


 マスターは自分もポケットからタバコを出すと火をつけた。


 何でもない人が自分の事をここまで覚えてくれている……。


 私は涙で目の前に置かれたタバコのパッケージが滲んで見えた。


 私はマスターに何度も頭を下げて、そのタバコに手を伸ばし、封を開けて一本咥えた。

 店のマッチで火をつけると久しぶりにタバコの煙を深く吸い込んだ。


「コーヒーとタバコってのは色んなところで悪い組み合わせだと言われていてな。けど私は思うんだよ。人を落ち着かせるのにこんなに良い組み合わせはないんじゃないかってね」


 マスターとこんなに話した事もなかった私は、初めてこのマスターの人柄に触れた気がした。


「コーヒーとタバコがなかったら、名作と言われる文学が幾つも生まれてきていないかもしれない。それでも人はタバコやコーヒーを否定する。誰が言ったか知らんが、その声の大きい奴の意見に乗っかって否定する。何故か分かるかい」


 私はマスターを見て首を横に振った。


「声の大きい奴、影響力のある奴に同調して、そいつの言葉を借り、あたかも自分の意見の様に話をすると楽だからだよ。人間ってのはそれほどにつまらない生き物なんだな」


 つまらない生き物……。

 楽に生きようとする生き物……。


 私はマスターの言葉が喉の奥に詰まったように思えた。


 マスターは自分のタバコを消すと、私の前にやってきて手に持ったアラン・シリトーの『長距離走者の孤独』を私の前に置いた。

 私も高校生の時にこの本を読んだ記憶があった。


「人ってのはさ、過ちを犯した事実をやり直す事は出来ないのかもしれない。けど、その事実の上に上書きしていくことは出来る。それは人だけに許されたことなのかもな……」


 私は短くなったタバコをコーヒーの粉の入った灰皿で消した。


 胸の奥に沈殿していた鉛のようなモノがすっと消えた。


 今までの事をなかったことになんてしようとは思わない。

 上書きしてしまえば良い。

 それは自分を美化しようと躍起になっている自分を崩壊させて、新しい思考を生んだ瞬間だったのかもしれない。


 私はカップのコーヒーを一気に飲み干して、立ち上がった。

 そして目の前に置かれた文庫本に千円札を一枚挟み、上着を羽織った。


「行くのかい……」


 マスターはにっこりとほほ笑むとそう言った。


 私は力強く頷いて、店のドアへと向かい、足を止めた。

 そして一度席へ戻ると、カウンターの上にあったタバコとマッチをつかんで上着のポケットに入れた。


 マスターはそんな私を見て頷いた。


「良いよ。やるよ……」


 私はマスターに頭を深々と下げて店を出た。


 狭い階段を颯爽と降りて、会社へと向かった。

 





 会社に着くと既に何人かが出社していた。

 私はいつものように挨拶をすると自分の席に座り、お気に入りのダレスバッグを机の脚元に押し込み、机の上のパソコンの電源を入れた。







「簡単な話だよ。今度のコンペに負けて、次の案件をこっちに回してもらう。そんな約束が成立しただけの話だ。わざとコンペに負ける提案を君にはしてもらうだけで良いんだ。」


 部長の竹中は至極当たり前の話をしていると言わんばかりの表情で私を覗き込む。






 私はパソコンにIDとパスワードを入力した。


 この中に私を苦しめるすべてがある……。


 私はそのパソコンの画面にうっすらと映る自分の顔を睨むように見ていた。







「もちろん今まで頑張ってくれた分はコレで慰労しよう」


 竹中は私の前に封筒を差し出した。


「二十万程入ってる。これでプロジェクトのメンバーと酒でも飲んでくれ。もちろん君が一人でもらってくれても構わんよ」


 私は差し出された封筒に手を伸ばした。

 それを手にした瞬間、自分は汚れてしまった感覚に囚われた。






 パソコンのハードディスクの中を映す画面で私はクリックして「フォーマット」の表示を見た。


 自分の歴史を上書きするためにまず「フォーマット」しよう……。


 そして私は目を閉じて深く息を吸い込んだ。







「これが上手くやるって事だよ。君もそろそろそういう事をやって行くポストにいるって事だ。我々がやっているのは、がむしゃらにやる高校野球じゃない。大局を見て最後に勝つために戦っているプロ野球だ。損して得取れって方法もあるんだよ……」


 竹中はニヤリと笑った。

 その笑いで察しろと言わんばかりに……。






 私は目を開けて、その「フォーマット」の文字をクリックした。

 躊躇いなど微塵もなかった。

 ただ自分の今までの歴史が消えてなくならない事をかみしめていた。







「体裁を保ちながら負ける。それを君にはやってもらいたいんだ……。宜しく頼むよ」


 竹中は私の肩をポンポンと叩いて部屋を出て行った。


 気が付くとその部屋で私は一人、手に金の入った封筒を握りつぶして立ち尽くしていた。






 パソコンがハードディスクをフォーマットしていく。

 それがこの会社で生きた自分の時間を巻き戻しているような感覚にも思えた。

 ここからまた自分自身を始めるために、そのフォーマットのゲージが伸びていくのをしっかりと目に焼き付けた。


 そしてそのフォーマットが完了した表示を確認すると、席を立って喫煙室へと向かった。

 もう何年も足を踏み入れた事のない場所だった。

 そこへ入るとタバコを吸っている数人に挨拶してポケットからタバコを出して咥えた。


 オフィスのある階から街を見下ろしてタバコの煙を胸一杯に吸い込む。


 そうだよ……。

 私は自由だ。

 誰にも私の選択を変えさせることはできない……。


 喫煙室から部長の竹中が自分の部屋に入って行くのが見えた。


 私はそれを見てニヤリと笑い、まだ長いタバコを折るように消した。


 そして喫煙室を出て、上着のポケットに手を入れた。

 そこには昨日、竹中から受け取った金の入った封筒と退職届が入っていた。


 一度、通路で立ち止まりオフィスを見渡す。

 そしてすべてを吹っ切ったように竹中の部屋の前に来た。


 ドアを二度ノックしてそのドアを開けた。


「部長。今、よろしいでしょうか……」


 私はそう言って竹中の部屋に足を踏み入れた。








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