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雨宿りの少年~願いが叶う島 番外編~

作者: 幻ノ月音



 その日は、針のような雨が降っていた。

 梅雨入りはまだなのに、憂鬱を一気に集めたかのような宿雨が続いていた。日差しは望めず、傘を乾かすタイミングをつかめないまま、だらりと留め具の紐を広げて傘立てに水溜まりをつくっていた。そんなとき、店の曇り硝子の扉越しに人影が映った。お客様かと思って待っていたが、一向に入っては来ず、私よりも頭ひとつ分小さい影がゆらゆらと陰っているばかりだった。このままでは他のお客様が入って来れなくなってしまうと思い、外開きのドアをゆっくりと押し開けてみた。人影は、軋みに気づいて少し離れてこちらを向く。顔だけ出した私と目が合ったのは小学五、六年生くらいの男の子で、体の線が細く伸びた髪が耳と目に重くかかってている。黒いランドセルは雨に濡れてより黒く色づき、同時に少年の白いトレーナーもまだらに湿っていた。うちの店は入り口付近にしか屋根がない。青白い顔をした少年は、傘を持っていなかった。もしかして雨宿り?と、口に出さずに心で呟き、一旦扉を閉めて引っ込む。

「これ、貸してあげるよ。明日ここを通るときに店の壁に立て掛けて、置いといてくれればいいから」

 と、裏口から持ってきた傘を少年に手渡した。その子は私が手渡したその傘を受け取り、首をかしげて一瞬悩むような顔をしたけれど、自分の立ち位置を今更ながらに自覚したのか、軽くお辞儀をして、傘を開く音も、歩く足音もほとんどさせぬまま、静かに立ち去った。青いストライプのいかにも女性ものの傘をかかげて少年が団地の方向へ行くのを見て、下校時間だったのかと、時計を確認してから気づく。小雨は止むことがなく、朝方まで降り続いた。

 その日の夜、学校の教師をしている夫が珍しく早めに帰宅したので、一緒に夕飯を食べながら、こんな子がいて私の傘を貸してあげたんだという話をした。

「僕の傘はまだ新しいし、予備がなくても大丈夫だよ。それより、君の傘がなくなっちゃったけどいいの?」

「今週は出掛ける予定もないから大丈夫。もし用事ができたら、折り畳み傘を使うからいいよ」

 と、鞄の下敷きになっていた深緑色の折り畳み傘を取り出してそう答えた。

「あの子、なんにも言わなかったんだよね。ありがとうくらい言ったらいいのに」

「その子、本当に雨宿りだったのかな?」

 夫がしょうが焼きをつついていた箸を止めて、そう呟いた。

「うーん、確かに、言われてみれば」

 今思うと、少年の困った顔は、私の押し付けがましい親切に、迷惑だという素振りだったのかもしれない。あのときは少年なりの気遣いで、形ばかりのお辞儀しただけにすぎない。

「もしかして、ただ時間潰しをしたかっただけなのかもしれないね」

 そう言いながら、しょうが焼きと白米を口一杯にかきいれた。とっくに食べ終わった私は、お皿を片付けながら何気なくを装って話す。

「正直にいうとね、私親切のつもりで渡したわけじゃないんだよね」

 夫とは幼なじみでもう二十年来の付き合いだ。私の性格を私以上に把握している。だから、つい本音が口をついてしまう。「君は結婚祝いを送るよりも、失恋した人を慰めてる方が生き生きしてるよね」なんて言われたこともある。私は確かに、と納得したし、別にそれでもいいと思っている。

 私はその日、苛々していた。朝の開店早々、うちの美容室の看板に犬のおしっこがかかっていたのだ。マーキングは犬の習性なのだということは分かる、街路樹や縁石にやりたがるのも分かる、けれど店の大事な看板にマーキングされるのはたまったもんじゃない。犬というよりその飼い主に対して怒っていた。去っていく散歩途中の主従を呼び止めなかった自分に情けなさも感じたし、顔に泥を投げつけられたような気持ちだった。

 私は少年にした押し付けがましい親切を、もとい厄介払いしたことを今更ながらに後悔した。もう少し、少年のいたいように雨宿りをさせてあげればよかった。

 私の住むこの小さな島は、もの静かで人見知りはするが、慣れない新参者にも心くばりをする優しい島民たちばかりだった。ときに「願いが叶う島」と言われているけれど、私にとっては小人瓶も他人の叶った願いもどうでもよかった。小さいけれど綺麗なお店をもち、お客様と話し、少しでも私の技術で喜んでくれる人がいたら幸せだと思っていた。けれど、最近この島は荒んできている。ゴミは道端のいたるところに散乱して治安も悪く、商店街もシャッター通りが増えてきた。願いが叶うかもしれない、という安易な心持ちは努力を怠り、動きや思考をも鈍らせる。しだいに島の美しさが損なわれていった。私自身、気持ちが離れていくのが分かる。

 その晩見た夢は、酷いもので、頭痛をともなって目が覚めた。寝る前に読んだ小説も悪かったのだろう。その物語の主人公は、都会から田舎に引っ越すも、そこの住人が詮索好きでよそ者を煙たがり、嫌な風習の残る暗い土地柄だったというもので、彼らの冷めた目をことさら強調してかかれてあった。

夢の中では、私の店の扉を開けて「ここじゃない」と言って帰っていく客たち。男も女も、子ども大人も、入って来ては、みんな一様にここじゃないと言って私に背を向け去っていく。迎え入れようとした私の「いらっしゃいませ」は、だれもいない空間にむなしく響くばかりで、手から鋏が滑り落ちて、ガシャンッと耳障りな音を鳴らした。刃こぼれしたその鋏を見て、私はただ泣いていた。

 翌朝、頭痛薬を副用して、店先の掃除から始めた。雨のせいで泥道に赤やピンクのツヅジの花びらがたくさん落ちて、黒い砂利道を彩っていた。湿った土の臭いを感じながらそれを手で広い、ごみ袋に入れる。裏庭から赤いマンデビラの鉢植えを持ってきて、店先に飾ろうかとドアに近づいたとき、軒下に青い物が見えた。それは昨日あの少年に貸した傘だった。傘は白い壁に立て掛けてあり、いつ返しに来たのか全く分からなかった。早朝、もしかしたら昨晩だったのかもしれない。閉店後に、少年が暗闇の中、静かにそっと置く姿を想像する。青空のような色の傘が明るく光り、浮かび上がっていた。傘が戻って来たことにホッとして、灰色の雲霞から見える群青にむけて梁を開いた。眩しい光は、ときに人を丸裸にする。まるで猫のような気配をもった少年。きっとあの少年も、私のことを見抜いていたのだろう。優しさなんかじゃなく、邪魔者を見る目だったことに。入り口近くの花壇に目を落とすと、足元に咲いていた白いすずらんが折れ曲がり潰れていた。気づかずに踏んづけてしまったのか。私は欠損が酷いすずらんの花をいくつかむしり取り片付けた。踏みつけたのは少年じゃなくて、きっと私だったのかもしれない。

 傘が返されてあったと、仕事に行く前の夫に言うと、

「親御さんはなにも言わなかったのかね」とこぼした。

「そういえば」

「知らない傘が玄関にあったら不思議に思って子どもにこれはどうしたんだって聞くよな?」

「確かに……」

 夫に言われて気がついた。あの少年は、親に見つかる前に返しにきたのか、家に親がいなかったのか、それとも知らない傘を見てもなにも言わない親なのか。子どもがいない私たち夫婦だけれど、関心がないわけじゃない。

「いってらっしゃい」

 手を振る夫に言葉をかけて、一日がまたはじまる。

 もしかしたら私は、心のどこかで願いが叶うのを待っていたのかもしれない。一番叶えたい願いを夢想しながら、一日一日をやり過ごすようにひっそりと息をしている。世の中のせいにしていれば、この息苦しさも忘れられるのだろうか。

 みんな願いを叶える島だというけれど、だれも願いを叶える人にはならない。

 数日後、夫の急な転勤が決まった。島をでる理由ができたことに、どこかホッとしている自分がいる。この美容室も人に譲られたものだったし、理想の店作りを目指したものの、なんとなくサイズの合わない服を着ているようで。お客様や理想を追うよりも、もっと私がこのお店を大切にするべきだったんだ。

 あの少年の姿がずっと心にささっている。

 島から出てしまえば、この現象についてもきっと忘れてしまうだろう。雨宿りのような生活だったけれど、青い傘を開くとき、誰かの幸せを願わずにはいられない。今度は、あなたのお店がなくなったら寂しい、そう言ってもらえるようなお店にしたい。雑念を捨てて、ていねいに生きる、ただそれだけのこと。

 日陰に入って隠れていた紋白蝶が、日向にでてきて羽をひらひらと輝かせた。それはまるで白い花びらが舞っているようで、少年が歩んだ道へと飛んでいった。





おわり

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