第一章 プロローグ
スラム育ちの少年はある日、仲間たちと
いつも通りパン屋からパンをかっさらった。
気弱で要領の悪い少年は1人だけ
パン屋の亭主に捕まってしまう。
それは他の少年たちにとっては計算通りで、
助けには来てくれない。
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
「ごめんで済むかいつもいつも!
うちばかり狙いやがって!許さん」
パン屋の亭主は少年の右腕を掴み翻し、
顔面に一撃お見舞いした。
「うぐっ」
少年は右頬の衝撃で立てなくなり、膝から崩れる。
「こめ…ごめなひゃ」
泣きながら謝罪する少年にパン屋の亭主は
また拳を振り上げた。
「やめてあげてくれないか」
低い、そして冷たいような鋭いような声が
その拳を止めた。
パン屋の亭主はぱっと振り返る。
少し離れたところから、身なりのいい背の高い男が
2人をじっと見つめていた。
「な、なんだあんた!」
パン屋の亭主は少年の腕を掴んだまま声を上げる。
「通りすがりのものだ。それはスラムの少年か」
男はじろりと少年の風貌をなぞった。
少年は銀髪に赤い目をしていた。
「それがどうした!
いつもいつも俺のパンを盗むネズミだ」
少年の腕が折れそうなほど、
パン屋の亭主は力を込める。ミシ、と音がした。
「そうか。持ち合わせがあまりないが、
これで解放してくれないか」
男はポケットから小銭袋を出し、男に投げる。
パン屋の亭主は少年から手を離しそれを受け取り、
中を確認する。
2ヶ月は遊んで暮らせる金額が入っていた。
「こ、こんなに!?アンタ、どういうつもりだ」
「ただの慈善事業だよ」
おののくパン屋の亭主をよそに
男は少年に手を差し伸べる。
状況が呑み込めない少年はびくりと肩をすぼめた。
「怖がるな。私についてきなさい」
男は少年の肩を優しく押し、歩き出す。
少年はおずおずとそれについて行った。
取り残されたパン屋の亭主ははた、と我に返り
店に帰っていった。
しばらく歩いて、ぽつぽつと雨が降り出した頃、
大きな屋敷に到着した。
気持ち程度の雨避けの下で、男は扉をノックする。
しばらくして、はいはい、と中から声がした。
ガチャリと扉の軋む音と共に現れたのは
ブラウンの髪にブラウンの瞳、
大きな鼻にぼってりとした体の中年男だった。
薄暗い中、背の高い男と少年が佇んでいた。
「おたくら…なんの御用で?」
「ここは孤児院だそうだな。貴方が責任者か?」
男が静かな声で問う。
「あぁ…はい、そうですが。もしやご利用ですか?」
責任者は訝しげに腕を組んだ。
「そうだ。私はこういう者だ。」
男はカードサイズの名刺を責任者に差し出す。
受け取った瞬間、責任者はうわっと声を上げた。
「まっまさか貴族の〜〜さまがこんなところまで!
いかがされたんですか」
少年は名前がききとれなかったが
男が高名な貴族であることを知った。
ちらりと男を見上げる。
男も少年をちらりと見下ろす。
「この少年がスラムで暴力を受けていた。
孤児院で預かって貰えないか」
男の申し出に責任者は眉をひそめた。
「そうですね…貴方様のおっしゃることですから
そうしたいのは山々ですがうちもたくさんの子供を
かかえておりますんで…」
「…そうか、ではこれでどうかな」
男は胸ポケットからパン屋の亭主に渡したのとは
別格の大きさの銭袋を差し出す。
責任者は目をランランと輝かせ
それを奪うように受け取った。
「ええまぁ!そういうことでしたら!」
男はすっと少年に向かって屈む。
そして旅行カバンから分厚い本を取り出した。
それを少年に渡す。
「君は今日からカノンだ。
この本をしっかり読んで勉強し、
この本の主人公のように立派になって欲しい」
男の顔は被っているハットと天気のせいで
よく見えないが、
少年には笑っているように見えた。
「はい…ありがとうございます」
少年の礼を聞いて男は音もなく立ち上がり、
去っていった。