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セシア伝  作者: 海森 真珠
第1章
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第20話 剣を持つかごの鳥Ⅳ

 死の香りが漂う部屋にセシリア―トは足を踏み入れた。


 歩みを進めるたびに、こつり、こつりと大理石の床を鳴らす靴の音が響く。深呼吸するのを躊躇うほどに焚きしめられた不思議なこう。閉めきられた薄いカーテンからは夜空の月明かりすら入り込まない。ただただ、重く苦しい空間。


 天板付きの寝台の傍まで辿り着いたとき、浅い呼吸が耳に届いた。


「……誰だ?」


 中低音域の掠れた声。

 始めて自分に向けられた言葉。

 どんな意味もない問いかけ。


 それでもいいから欲しいと思っていた頃もあった。

 だが、長い長い孤独でセシリア―トの感情に“愛情”なんてものが残るはずもない。


「なぜ、あの日エマだけ逝かせたんですか」


 セシリア―トは名乗らず静かに口を開いた。


「……」


 しかし、それだけで十分だった。

 誰が何のために問いかけているのか、ベッドの上で死にかけの人間は悟る。そして掠れた声で弁解にもならない言葉を紡いだ。


「……それを、望んだからだ。お前の乳母自身が」


 それにセシリア―トは思わず鼻で笑った。


「そんなはずない! エマが死を望む理由なんて何一つなかった。あるとすれば、それは…………“取引き”だ」


 天板から降ろされたレースのカーテン越しにセシリア―トは横たわる人間を睨みつける。

 第二王子誕生の日、それはセシリア―トが死ぬ日だった。だが、塔にもたらされたのは処刑を告げる言葉ではなく、豪華な料理と陛下からだという他国の貴重な茶葉。


 夢を見て思い出したエマが言っていたのだ。

 これは、セシリア―トを救うものだと。

 つまり、あの日セシリア―トは予定通り毒殺されるはずだった。豪華な料理には毒が盛られ、まさに最後の晩餐としてあの夜が最後になるはずだった。しかし、エマが持ってきた陛下から受け賜わったという茶が毒消しの作用をした。だからセシリア―トだけ助かったのだ。


 エマは死ぬとわかっていて、全てを承知の上で行動した。

 セシリア―トを一人、塔に置いていく選択をしたのだ。


「エマの命と引き換えに、私を生かしてほしいとでも頼まれたんですかっ」


 怒り、後悔、悲しみがごちゃ混ぜになった感情が溢れ出ないように必死に胸元を掴む。そのせいで声色は苦しそうに上ずった。

 この人間の前で無様な姿を晒すな、落ち着け、落ち着けとセシリア―トは心の中で繰り返す。


 すると、うわ言のように死にかけの人間は呟いた。


「……一体、お前にどれほどの価値があるというのだ」

「は?」

「セリーナは余よりお前を選び、妹同然だったエマもお前を選んだ。残される余にはみな、涙と懇願しか託さない。『セシリア―トを生かしてほしい』と。なぜだ。なぜ、誰も余の傍に残ってくれないんだ」


 どこからともなく、風が吹いたようにセシリア―トは感じた。悲しいほどに冷たく、鋭い風が体を通り抜けていく。

 いっそのこと、その風が目の前で横たわる人間を切り刻んでくれたらいいのにと、そんな風に思わずにはいられない。


 じわりと滲みかけていた涙は綺麗さっぱり引っ込んだ。代わりに笑いがこみ上げてくる。


「私たちは何一つ理解し合えないと思っていましたが、違いましたね」


 天板から垂れ下がった鬱陶しいレースに手をかけ、セシリア―トは一気に払いのける。露になった無様な姿を見下ろして言う。


「私もです。私も、自分にどれほどの価値があるのか、大切な人たちを犠牲にしてまで一人で生きなければいけない理由は何なのか、ずっと答えが出ないでいました」

「……約束したのに。余よりはるかに強い彼女を必ず守り抜くと誓ったのに。奇跡だろうが呪いだろうが関係なく愛し抜くと……それなのに……」


 噛み合わない会話にセシリア―トは苛立った。


 今を逃せば機会はない。医師でなくともわかるのだ。王に残された時間はもう僅かしかないと。だから最初で最後の今、ここで生まれた全ての感情はここで捨てていく。そのためにセシリア―トはここに来た。それでやっとエマとの約束を果たせる。


 深く深く、深呼吸をしてから生気の失った自分によく似た顔を真っ直ぐに見つめて言う。


「でもっ! それでも、使い道はあるとある人が言ったんです。私が自分のつるぎとして必要だと。その選択が誰かにとっては正義でも、別の誰かにとっては悪となるかもしれない。……それでも構わない。あの人が、私がこの世に存在していることを証明してくれる唯一の人間になるでしょう」


 自身の弱さを初めて見せる上に、さらにその相手がこの世で一番哀れで憎むべき人だなんて。滑稽にもほどがある。だが、もう引き返せない。


 滲む視界の中、全てを終わらせようとセシリア―トは一歩近づいた。


「もう、充分でしょう。多くの《神の御業(みわざ)》を持つ人間を生贄に築いてきたこの呪われた国はあなたの代で終わりだ」

「……終わりになど、できるものか」

「さあ、どうでしょうね。弱く、愚かで、哀れな王よ。あなたにできなかったことを、私がやってみせま――………………あ?」


 刹那、物凄い感情の波がセシリア―トを襲った。

 あまりの衝撃に目の前が歪む。


「ぅ……、ぁ……」


 一歩、二歩と後ろに下がり、力の入らなくなった役立たずの足が絡み始め、


「――あっ」


 どさりと、とてもゆっくりと綺麗にその場に尻餅をついた。ひんやりとした大理石の床の感触がやけに生々しく感じる。

 セシリア―トに何が起こるのかわかっていたかのように、王は相変わらず寝台の上で独り言のように何もない空間に言葉を投げ出した。


「……ああ、やっぱりお前は愛せない」

「え?」

「彼女の全てを喰らい、余から全てを奪い、お前はやはり化け物になり果てるのだ。ハリアトスは正しかった」

「何を、言って………………………………待って」


 言いかけ、全身が強ばった。

 王の言葉を確かめるように繰り返す。


「……全てを喰らい? ハリアトスが正しかった?」


 唐突にある疑念が心に渦巻いた。


『余よりはるかに強い彼女』『奇跡だろうが呪いだろうが愛し抜く』先ほど王が溢した言葉だ。

 以前、セシリア―トは古代レヤ大国時代の古書である内容を読んだことがある。

『《神の御業(みわざ)》を持つ者が新たな生命を宿したとき、この世で最も守られるべき存在となる』と。一見、《神の御業(みわざ)》を持つ人間の腹に宿った命は、同じように御業(みわざ)を持って生まれてくる可能性が高い尊い存在だと説いている言葉だと思うだろう。


 だが、それだけではないことをセシリア―トは知っている。

《神の御業(みわざ)》を持つ女性が妊娠した場合、極限まで体が弱るのだ。そして、恐らく体の衰弱は心の衰弱にも繋がる。まるで神が生命の誕生を許していないかのような現象が母体を襲う。


 もしそれが、自分が生まれるときに起こっていたら?


 母の死は自殺だと言っていたエマの言葉を信じられなくなった自分の思考に、セシリア―トの全身が震えた。


「ま…………さ、か」

 

 ガクガクと小刻みに震える足になんとか力を入れる。

 驚愕以上にセシリア―トの思考を覆い尽くすのは、怒り。


 立ち上がったセシリア―トは、もう寝台に近づくことはしなかった。


「あなたも母上も、何が起こるかわかっていてその選択をしたのに、結局ここまで来てしまった。何も守れず、何も変えられず、逃げることもせず、あなたは全てを放棄した。中途半端な覚悟と中途半端な力しか持たなかったくせに判断を誤った結果がこれですね」

「……ああ、そうだな。そうだ、間違えた。彼女を守るためには彼女の願いを聞くべきではなかった。餓えた獣のように彼女から全てを喰らい尽くすお前を生かすべきではな――」

「――陛下っ! 陛下っ! 大変ですッ」


 その時、扉を激しく叩く音が聞こえた。王の声を容易にかき消す護衛兵の焦りの叫びと、幾人もの雑多な足音が近づいてくる。

 慌ただしくなる外の様子がセシリア―トにまで伝わってきた。


「な、なんだ?」


 寝台の王と扉を交互に見やる。

 先ほどよりも弱々しく呼吸を繰り返す寝たきりの王には、起き上がる力はおろか声を張る力もない。セシリア―トは大きく舌打ちをして代わりに叫んだ。


「何事だ!」

「へ、兵がっ! 大勢の兵が居所を囲んでいます!」

「……なんだと?」

「早くお逃げくださっ――あぎゃッ」


 護衛兵の断末魔が聞こえたかと思うと、嫌なほどの静寂が王の居所を包み込んだ。


「「………………」」


 王も、セシリア―トも言葉を発しない。


“反逆”

 セシリア―トの頭に瞬時に浮かんだ言葉。

 納得できるようで全く理解できない()の行動に驚愕するほかない。


 扉をじっと見つめていると、ゆっくりと、本当にゆっくりと開かれ――。

 最初に見えた顔にセシリア―トは失笑するしかなかった。


「なるほど。監視役には打ってつけだな」

「っ! ……お初にお目にかかります。セシリア―ト第一王子殿下」


 上辺だけの礼を欠いた挨拶をしたのは、近衛隊隊長ザック・グィン。四十代半ばとは思えないほど若々しく凛々しい顔つきに、刈り上げられた両側の栗色の髪が彼の雄々しさを増長させている。平民上がりのザックは王と戦友でもあり、誰よりも民のことを一番に考える人間として有名。貴族からの圧力にも屈しないことは誰もが知っていることだ。


 そんな人物が王の居所で血を滴らせた剣を片手に鎧をまとっている。

 そしてその瞳には確かな覚悟があった。


「陛下。ザック・グィン、最後のご挨拶に参りました」

「………………そうか」

「驚かれないのですね」

「ああ」


 淡々とした会話に、ザックが引き連れてきた兵士たちは耳を傾けていた。誰一人、ザックの命令なしには動かない。

 神妙な面持ちのザックはそれ以上弁明せずに、一歩踏み出そうとした。


「――止まれ」


 それをセシリア―トは制止した。

 猛禽類のような鋭い視線が向けられる。


「何でしょうか」

「陛下を手にかけたあとの筋書きは?」

「知る必要はありません。次は殿下ですから」


 ある意味、予想通りの答えにセシリア―トはため息を吐いた。


「なぜそう焦る? 私の処刑日も、第二王子が立太子となるのもすぐなのに」


 民思いのザックが第二王子派になった理由まではわからないが、誰が考えても不可解な行動だ。目の上のたんこぶであるセシリア―トの処刑日まで日は浅く、何かしらの方法で王の命もあと僅かのところまで追い込んだ。証拠はなくても全て第二王子を王にするために王妃たちが仕組んだことだろう。


 彼らの悲願まであと少しなのに、王位継承の正当性が危うくなるような真似をする理由は何なのか。わざわざ“謀反”なんて起こす意味はないはずだ。


 すると、ザックの瞳が僅かに揺れた気がした。


「民を捨てようとする王など存在してはいけない。……例え、それが友であろうとも俺は許さない」

「……どういうことだ?」


 飛躍したザックの話に、セシリア―トは思わず聞き返した。


「回りくどいのは苦手なので、率直に言います。いまだ殿下が生きておられる理由をご存じか?」

「ド直球だな。……母上と乳母が命を懸けたおかげだろう?」

「やはり鳥かごの小鳥、か」


 そんな失礼な呟きと共に、ザックはセシリア―トに哀れな目を向けた。その視線に不快感を覚えたセシリア―トは、語尾が無意識に強くなる。


「何が言いたい?」

「セリーナ前王妃殿下や乳母が命を懸けなくともセシリア―ト殿下は生きながらえていたはずです」

「は?」

「現王妃殿下の勢力と対峙させるための道具として殿下は最適でした。互いが互いの警戒をしている間、陛下が一体何を準備していたと?」

「………………まさか」


 自分でも驚くほど、王の思考が手に取るようにわかった。なぜか尋常ではないほどの感情が押し寄せてきて、突然の出来事に吐き気を覚える。


「っ……」


 これは、後悔と怒り。そして深い絶望。

 一体、誰の感情?


「“国の譲渡”です。古代レヤ大国の血筋を多く受け継ぐ民たちを諸外国はこぞって手に入れようとするでしょうな。そして表向きは歓迎しても、一歩国境を越えればウィンザー王国の民たちは亡国民や流民となり人間以下の扱いを受け、非人道的な研究の対象にされる。そうなるとわかっているのに、陛下は無条件で国の“譲渡”を秘密裏に準備してきた。正気の沙汰ではない」

「譲渡って……!」


 さすがに予想外の事実を突きつけられ、セシリア―トは王の方を振り返った。何も反論をしないことから、全て真実のようだ。


「この事実を知ってしまった以上、俺は陛下と共に同じ道を歩むことはできない。皮肉なことに、今この国を安定させることができるのは第二王子派しかいないんだ。……お分かりか? 殿下、あなたの出る幕ではない」


 ウィンザー王国が閉鎖的な理由に信仰の問題もあるが、ザックが言ったことが大きく関わっている。古代レヤ大国が前進としてあるウィンザー王国民は《神のわざ》を持った人間を先祖に持つ。それ故に、人攫いにあいやすい。

 つまり、他国から見てウィンザー王国は未知の力と技術の宝庫なのだ。


 陛下がやろうとしていることはまさに国民の首を無償で差し出すことであり、全てにおける放棄だ。一国の王としてあるまじき行為。王権や国力が弱いというレベルの話ではない。


 しかし――。


「そうか。なら、好きにすればいい」


 セシリア―トはザックの前から退き、歓迎するかのように王が横になる寝台を指さした。

 それに怪訝な顔をしたザックの後ろでは、奇妙な雰囲気が兵たちの間で広がっていた。


「どうした? 私はここで待っているから、自分を、国を、裏切ったあるじをその手にかければいい。抵抗はしないだろうから、手こずることもないだろう」

「……止めないのですか」

「今そこで死にかけている人間とは確かに血がつながっている。だが、それだけなのになぜ止める必要がある? 貴殿と陛下の間の問題だろう。私には関係ないし、関わりたくもない」


『なんて残酷な』『父親だろう』『化け物はやはり心もないのか』兵たちから漏れ出た言葉にセシリア―トは笑ってから、急に真顔になった。


「人としての尊厳を奪い、親子の情を交わす時さえ与えなかったのはこの国なのに、今さら私を王子として扱うな。反吐が出る」


 十五歳の少年が出すとは思えない威圧感に、誰かの喉がごくりと鳴った。ザックは剣の柄を握り直し、兵たちは自ずと身構える。


 近衛隊隊長のザック率いる兵たちが、セシリア―トを敵だとはっきりと認識した瞬間だった。


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