前編
「真美、どうしたんだ?」
「なんでもないよ」
明らかに彼女の言葉は嘘だった。だって、振り返った彼女の瞳は濡れていたから。
「アイツ、何か言ったのか」
直樹がそう言うと、「違うよ。彼は関係ないよ。あたしがバカだったんだから」と叫ぶ。そんな彼女に溜息をひとつついてからポンポンと肩を叩く。
「はいはい、わかったわかった。勝手に自分が好きだから、か」
直樹と真美は同じ中学出身で、子供の頃からずっと同じクラスだった。つまり幼馴染だ。高校も同じ高校に通うことになり、一年の時もまた同じクラスになり、互いに「腐れ縁だねー」という仲。直樹としては、こんな関係にそろそろ終止符を打って、もう一歩前進した仲になりたいと思うようになっていた。それが二年になった秋の頃。来年、三年になれば互いに受験というものが待っているから、何とかそれまでに気持ちを伝え、二人の仲を進展させたいと彼は思っていた。ところが、文化祭も近いという時期に、二年から同じクラスになった神楽を「好きになっちゃったの」と真美に打ち明けられてしまった。これは直樹にとって予想外の出来事だったのだ。
「今度、文化祭で彼歌うんだって。すごいよねえ。直樹も一緒に聞こうよ、彼の歌」
「えーなんで俺も?」
「いいじゃん。あんた、彼とは友達でしょ。一緒に聞こうよー」
神楽覚、二年になるまでは存在さえも知らなかった。それは彼女も同じだろう。高校の近くに住んでいるそうだが、本人の話によれば中学二年の時にこの土地に引っ越してきたらしい。だが、彼には年上の彼女がいるのだ。その彼女と付き合うきっかけになった話も不思議な話なのだが。なぜ、そういった話まで知っているのかというと、真美が彼のことを詳しく知りたがったからだ。もっとも、二年になってすぐの頃、ちょっとした好奇心で彼に近づいたおかげでいつのまにか何となく友達になっていたのだが。その好奇心というのが、神楽の年上の彼女の話だ。要するに年上の彼女ってどういうものなのかなあという単純な好奇心から話を聞きたいと思ったのがきっかけだったのだ。そんなふうに神楽と友達付き合いをしていくうちに、自然と真美も入れて三人で行動するようになり、いつのまにか真美は神楽を好きになってしまっていたという体たらく。直樹は彼女の心にまったく気づいてなかったのだった。だが、直樹と神楽は、親友とまでは言わないが、それなりに仲の良い友人同士になっていた。
文化祭での神楽は確かに男の目から見てもかっこよかった。一本のギターだけで静かなバラードを歌っていた。その歌は年上の彼女とのことを歌ったものらしい。それを知っているのは直樹だけだった。
もう泣かないで
僕が傍にいるから
いつだって逢えるから
ほら瞳を閉じて
空にはオレンジの太陽が
僕と君を抱きしめている
そして
僕は君を強く抱きしめる
こうして二人生きている喜びを感じて
だから
もう泣かないで
笑って微笑んで僕を見詰めて
永遠を生きよう
僕と生きよう
暮れていく太陽に誓うよ
僕らは永遠だと
そして、あれから一年が過ぎ、直樹も真美に何も言えないまま、また真美も神楽に気持ちを伝えられないまま、三角関係はずっと続いていたのだが、ある秋の日、それが崩れることとなる。真美がとうとう神楽に告白をしたのだ。
真美は直樹と映画を見に行った帰り、どうしても今直ぐに神楽に告白したいと言い出したのだ。直樹はやんわりとそれを止めたが、彼女は聞く耳持たずだった。
神楽の家に行き、真美は彼を呼び出す。直樹は一緒にいないほうがいいということで、彼女の傍にはいなかった。物陰からこっそり覗いてはいたのだが。
神楽の「うちに入る?」という言葉に彼女は首を振り、「ここでいい」と言う。その彼女の思い詰めた表情に何か感じたのか、彼は「そうか」と言って玄関から出てきた。家の前の石垣に二人は腰掛けて、しばらくじっと黙ったままだった。すると、彼女は一言一言区切るように震える声で言った。
「あたしのこと、どう思ってるか、聞きたいの」
「…………」
神楽は一瞬困った顔をした。少しの間、問いに答えずにいたが、本当に困ったといった感じでこう言った。
「そういった話してる場合じゃないと思うけどな」
「それ、どういう意味?」
「俺たち、今一番大事な時じゃない? 俺はまあ上の学校に行くつもりじゃないけど、それでも別の意味で大事な時だし、君は確か大学に行くって言ってたよね。学校でも言われてたじゃん。今は恋愛のことは考えずに受験のことだけ考えろって」
「今のままじゃ勉強にも身が入らないのよ!」
彼は本当に困った顔をした。それから、心を鬼にする決心をしたのか、彼の口からは冷たい宣告が放たれる。
「君の気持ちは嬉しいけれど、俺にはちゃんと付き合っている彼女がいるんだ。それは君も知ってるでしょ。俺は彼女と将来結婚するつもりなんだ。君の気持ちは受け入れられない。俺のことは忘れてくれ」
「…………」
真美はその言葉を聞いてグッと唇をかみ締めた。だが泣いてはいなかった。
「わかってた。そんなこと。でも、どうしても聞きたかったの。別に神楽くんと付き合いたいって言いたかったわけじゃない。あなたがあたしのことどういうふうに思ってたか、それを聞きたかったんだから。それがちゃんとわかればあたしも心の整理ができるからって、そう思っただけだから」
「友達だと思ってるよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「うん。ありがと」
それから、彼女は打って変わったように饒舌に話し出した。今日は映画を見てきたこと。それから自分が受けるつもりの大学の話。そんな話を冗談交じりで話続け、神楽を笑わせていた。それを物陰から見ていた直樹は辛くてしかたなかった。
(もういい。真美、もういいから。そんな道化師みたいなこと、もうやめろ)
彼はいたたまれなくなり、物陰から出ると、何気ないふうを装い、二人の前まで歩いていった。
「おや、直樹じゃないか」
その姿を見つけた神楽が立ち上がった。真美はうつむいて座ったままだ。
「一緒に受験勉強するって約束してたのに、いつまで経っても来ないから迎えに来たんだよ」
直樹は白々しい嘘をつく。だが、神楽はそれを信じたらしい。何の疑いも持たずに「そっか。真美ちゃん、頑張れよ」と笑って彼女を立たせた。
「また、明日、学校で」
「神楽も勉強すんの?」
「俺はこれからちょっと美弥子んちまで行くんだ」
それを聞いた真美の肩が微かに震えた。神楽は気づかなかったようだが、彼女の肩を抱いていた直樹にはよくわかった。その肩を強く掴む。
「そうか、いつかその美弥子さんにも逢わせてほしいもんだな。噂の年上の彼女を」
「そのうちにな」
川原を二人で歩いていたら、だんだんと日が沈んで空は茜色になっていった。
「真美…」
歩いていた彼女が足を止め、振り返った。彼女は泣いていた。その彼女の顔がオレンジ色に染まり、思わず直樹は目を細めた。抱きしめたくなり、その欲求を無理やり押し込めた。
代わりに彼は彼女の後ろに回り、小さな両肩をポンポンと叩くと後ろからこう言った。
「顔を上げろよ。ほら、空がオレンジ色だ。キレイだよな」
「うん」
「奴には彼女がいる。それはもうしかたないことだ」
「………」
両肩に置いた直樹の手に一瞬彼女の震えが感じられた。だが、それに構わず続ける。
「それはお前もわかってたことだろ? けど、好きだという気持ちはすぐには消えない。それでいいんだよ。好きなら好きを貫けばいい。無理に好きを忘れることはないよ」
それから彼は彼女を自分に向かせると「きっと大丈夫」と言い、ピースをして見せた。
「こんなこと言うのもなんだけどさ、誰かと誰かの関係なんて絶対じゃない。永遠に続くものなんてないんだよ。好きという気持ちをずっと持ち続けていれば、きっと自分にもチャンスは巡ってくる。もしかしたら、明日には二人は別れてるかもしれない。そんなふうにポジティブに考えてみなよ。人の不幸を願うのは確かによくないことかもしれないけど、とりあえずは今のこの悲しい気持ちを鎮めたいと思ったら、そう思うのも一つの手なんじゃないかなって、俺はそう思うよ」
それを聞いた真美は思わず噴出した。
「直樹ったら、意外と根性悪いのね」
「そうだよ。俺って悪い人なの」
彼はそうおどけて見せた。
(そうさ。お前を笑わせるためなら悪魔にでもなるよ。お前の代わりに人の不幸だって願うさ)
とはいえ。
一番自分がやらなくちゃならないこともわかっているつもりの直樹だった。それはたった一言「好き」という言葉を彼女に伝えること。だが、さすがの彼にもそれだけはできなかった。この関係を壊したくないと思っていたから。どうしても伝えられない。本当に本当に大好きだから。