六節
「いやぁ~ちょっと手入れが行き届かなくて汚れてますけど、ささ、どうぞどうぞ~」
にこにこ笑顔で入った本殿の中は、たしかに手入れが行き届かなくて汚れていた。ちょっと、というには過小評価すぎると思うけど……
外側から見るより、内側から見る本殿の中はけっこう広かった。木の階段をあがり、本殿に入る前に外靴を脱ぐ。靴下のまま広い畳の上を歩けば、和室特有のいぐさのにおいがつんと鼻に届いた。案外、このにおいは嫌いじゃない。けど、ずいぶん埃っぽい感じ。
かつてはきらきらしく輝いていたであろう神棚の丸い鏡もすっかり曇り、色あせた朱塗りの太い柱が年月を感じさせていた。ずいぶん長いこと人の手が入っていないようなありさまで、朽ちていないのが不思議なくらいだった。
きょろきょろと周りを見回しているあたしに、十河さんは奥から取り出してきた紫色の座布団をすすめてくれた。押し入れにでも入っていたのか、その座布団だけはつやつやとした紫色を保っていた。
「あ、ありがとうございます」
「いいえぇ。なにぶん、この月石神社のお客様なんて久しぶりで、嬉しくなっちゃいますね。ちょっとお待ちくださいねっ」
あたしが座ると、十河さんはいそいそと奥に行き、すぐに戻ってきた。その手には、漆塗りの黒いお盆が。そこには、ほかほかと湯気が立つ茶碗が二つ、茶托に乗せられていた。お茶碗の脇には、すべすべとした白い皮のおまんじゅうがこれまた二つ、ちょこんと懐紙に乗っている。
見かけによらず、こまごまと心配りをしてくれる人だ。あたしは、ありがとうございます、と小さくお礼を言って、お茶を受け取った。
レジ袋をずっと持ち続けて酷使した手のひらが、じんわりとあっためられる。すがすがしい緑色が透き通って美しい。お茶も大好きなあたしは、思いっきり鼻からその芳香をかいだ。新しい茶葉の香り、澄んだ緑のにおい。心までリラックスするような香りに、思わず頬もゆるむ。
「ああ、いい顔ですね。やっぱり女の子は、笑っていないと」
「えっぇええあのっ」
急にそんなことを言うもんだから、あやうくお茶をとり落としそうになる。
そんな慌てるあたしなどまったく意に介さず、十河さんはあたしの正面に正座して、同じようにお茶を口に含んだ。「今年のお茶はどれも出来がいいですねぇ」と満足そうにつぶやき、おまんじゅうを二口で食べきってしまった。
「実はねぇ。神籬さん。この神社は今、困っていましてね」
十河さんはお茶をまったりと楽しみながら、切れ長の瞳をキラリと光らせてこっちを見てきた。
その背後で、数段高くなっている神棚に祭られている鏡が、ことん、と傾く。天井からぱらぱらと白い埃が落ちてくるのが見えた。
「ええ……確かに、困ってそうな感じですね……」
「そぉ---うなんですよ! わかります!? わたしねぇ年寄衆に言われて三社も神主を兼務してましてね、そりゃこの身は一つなもので、まーったく手が回らなくて! それにあんまり巫女さんやってくれるって方もこの地域は少なくて……」
十河さんは泣きそうな勢いで、いや、もうほとんど泣きながらそうまくしたてると、お茶をがばーっと飲み干した。
確かに、ここ日和町は電車で十分も行けばそこそこの繁華街に行ける。周りには若そうな人も少ないし、学校や大学も建っていない。そもそも住宅街ばかりの中で神社があるということも、徒歩圏内のあたしですら今知ったのだ。ここの神社の存在が街のみんなに忘れ去られていたとしても、おかしくはない。
それに――
「まあ、今時巫女さんもねぇ……パワースポットとか流行ってますけど、本当に神様を信じてる人なんていませんよ」
自嘲をこめてそう言うと、十河さんは明らかに傷ついたような、しゅぅんとした顔をする。しまった、と思ってももう遅い。
「そう……そうなんですよね。この世の中、目に見えないものを信じろと言われて、素直に信じられる方が少ないのはわかっています。でもね」
十河さんは真剣なまなざしで、けれど優しい目じりでそっとあたしに語り掛けてくれる。そこには侮辱も貶める姿勢もなく、ただただあたたかく諭してくれる意思を感じた。
「神社の存在価値は、神様がいるかいないかじゃないんです。自分ではどうにもならない想いとか、どうしても叶えたい願い、目標としていることを明確にしたり、反省したり……そんな気持ちを、神様という自分とは違う存在に語り掛け、『心の整地』をするための場所でもあるんです」
「心の、整地……」
「人は何かにすがりつきたくなる時が、必ずあります。苦しい時、辛い時。一人では叶えられるか不安な願いがある時。そんな瞬間の声を神様ははるか天からお聞きして、心の中から応援してくれているんですよ」
もちろん、嬉しい時の声もね、といたずらっぽく笑った十河さんは、ずいぶんと年下の少年のような笑い方をした。
十河さんは……きっと、いい人なんだと思う。
純粋な、ぴかぴかした笑顔を見ているとそう思ってしまう。十河さんの過去を何も知らないけれど、十河さんは知らない人の苦しみや悲しみに寄り添える、優しい人なんだ。だから、神社の神主だって何も疑問を持たずに務めていられる。人のために、神主をしている人なんだろう。
あたしは、自分の見識が狭かったこともそうだけど……こんなまぶしい笑顔を向けられていると、どうしようもなく恥ずかしくなる。
イケメンだから、とかじゃなく。
「……十河さんは、すごいですね」
「え。えへへ~そうですかね? いやぁ神主ってやつは神社の数に対して人手が足りてなくてですねー。わたしみたいにいくつかの神社をかけ持つのも珍しくはなくって……」
「あの、そうじゃなくて。……あたしには、知らない人の苦しみに寄り添える余裕なんて、ないですから……」
明日さえもどうなるか分からない身で、他人の幸せを願っている場合ではないのだ。
でも……素直に、十河さんみたいに考えられたら、それはとても素敵なことなんだろうな、とも思う。
羨ましい、というか。あたしにはマネできないことをしている人って、すごいなっていう尊敬の念しか湧いてこない。
「……神籬さんは、今幸せですか?」
唐突なその質問に、はっと顔をあげるあたし。
幸せ?
その言葉の意味を辞書通りに知っていたところで、なんだというのだろう。今のあたしに一番似合わない言葉。追い求めては虚しくなって、そのたびに心が折れて……だからもう、追いかけてはいけないことにした言葉。
でも、なんだかそんなみじめなあたしじゃ、十河さんと話す資格すらないように思えて。この場にいてはいけないような気さえしてくる。
「や……やだなぁ、花の十五歳ですよ! 幸せに決まってるじゃないですか~! あははは。おうちはあるし、食べるものには困ってない。それで十分……じゅうぶん、なんです」
「神籬さん……」
あたしの強がりを、大人は容易に見抜いていく。憐れんだような、なぜか傷ついたような顔をしている十河さんを、あたしはまっすぐ見ることができなかった。
そう。それでじゅうぶん。『幸せ』なんていう、抽象的であいまいなもの、あたしはすがりついたりしない。求めて、欲しがったりしない。
そうしたら、寂しくはないから――
「まったく、見ていられない」
畳に視線を落としたあたしの上から、聞いたこともない透き通った声が唐突に聞こえてきた。ずっしりと低く、おなかに響く声。一度聴いたら耳から離れないような、キンと冷えた温度感のない声。
急に降ってわいた声に、あたしはびっくりして顔を上げた。
そこに、いたのは。
まるで、絵そのもののようなきれいな男の子だった。けだるそうに祭壇に寄りかかって、頬杖をつきながらこちらを値踏みしている。シミ一つない真っ白な着物に、澄んだ青空のような袴を履き、髪一本一本が輝いているような金色の髪が右肩口で一つにまとめられ、さらりと流れていた。髪紐は白くそっけないものだったが、その白さにも負けないほど白くて滑らかな肌は、陶器の胸像みたいだった。
なんてきれいな人……年齢は、あたしより少し上くらいだろうか。まつ毛も、眉毛も金色だ。外国の人だろうか……?
魅入る、という言葉の意味をかみしめていたあたしを、男の子は眉一つ動かさず見ていた。サンゴの海を溶かしたかのような青い瞳は、時折光の加減でピンク色にも見えた。
その瞳が、明らかに、馬鹿にしたようにふっと細められた。
「なんだ、貧弱そうな小娘だ」
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